夏目漱石は中学校の教科書に載ったり
NHKで度々取り上げて感想大会とか特集
とかでとりあげ、札の肖像に使われた
作家ですが、実際に作品を読んでいる
人というのは意外と少ないようです。
先日書斎の片づけをして、古い写真やら
本を整理していたら、やたらと目についたのが
金閣寺の写真です。
修学旅行で二度京都奈良を訪れその後社会人に
なったばかりで一度一人で旅行したり家族で
この間旅行して修復後の金ぴかのイメージが
強い中、昔の写真を眺めたらなんで何度もここに
来てるんだろうという事と、三島由紀夫の
ほんとかも発見して、ああ、そういう事だろうと
思うのでした。
二年ほど前、漱石の美術展というのが企画され
ました。
作品に出てくる作品だけでなく、漱石が想像した
作品も現代作家により新作されたものもありました。
それだけ今も愛される作家のテーマというのは
決して明るいものではなく、『吾輩は猫である』
のようなユーモア作家として軽妙洒脱な軽いもの
でもないのです。
それなのに、彼の見ただろう絵までも集めて
展覧会をやってしまうほど彼の愛好家がいることは
逆に時代性とかテーマとしているところにスポットを当てて
よくかんがえてみるべきだと思います。
という私自身、この作品の思い出というと雨の図書館で
勉強に疲れて高校時代に発刊された岩波の全集を
見つけて懐かしく思い、立ち読みしたら面白くて
一気に読みその後本に出て来た絵を図版で探すと
いう経験です。
ついでに書くと、先の展覧会では三四郎の森の女も
新作されました。
三四郎に出てくる三四郎池を訪れて作品を読んだ人なら
あの絵は本を読んだ人や三四郎という本が好きな人なら
ちょっと違うというイメージを持ったのではないで
しょうか。
まず、絵に当たる光線の具合だとか色のことが描写され
ていますが、それを踏まえた構図ならマネの傘をさす女
のような絵になるはずなのに、段この多いあの池の周りで
女に遭遇した時の絵ならムーランドラギャレットのような
光の使い方になるはずです。
作品のテーマを込めた女の姿であれば表情とか姿かたちも
マハのような表情に謎めかせて人々がその絵の前でストレイ
シープとつぶやくようなものでなくてはならないはずです。
とまあ、いい出せばきりのないことで作品中の模写をして
もらいたいファンの心理に対して芸術家としては現代と明治の
相克まで含めて芸術表現したいところでしょうからああいう
絵になったのでしょう。
三四郎のテーマ本体に言及するより、人々がどのように
接しているかを書いた方が面白いのですが、問題はさらに
複雑化していて、この本を読んだでインスパイアされた
人がさらに自作にそれを取り込んで同じことをやっている
という現象です。
これは、ビートルズに魅せられて自作に同じコード使い
やらビートやらを取り入れてそれがまたヒット曲になって
来た歴史と似ています。
一番の代表的現象としては村上春樹ですが、彼の作品の中に
直接漱石の作品名を使ったり、手法的に寝取り寝取られて自殺
する話だったり、矢鱈と芸術作品をモチーフに使ったりと
色々と作風を踏襲するかのような使い方をしています。
そんなことを踏まえてもう一度読んで感じたことは面白い
という事です。
別に三四郎が恋い焦がれたり何か事件を起こしたり、主体
となって解決したりという事ではなくて、与次郎によって
色々な人と出会ったり事件に巻き込まれたり全てこの与次郎
のせいです。
三四郎の特長的性格とか行動が描写されることはなく、逆に
与次郎や他の学生が新青年は書くあれと意味のないダーダーファブラ
という言葉に酔って騒ぐことばかりで、そんな青春像が当時
新しく新鮮で逆に青年は恋すべしと受け取る結果をリードした
のではないかと思いました。