鬼を豆で撃退と言う昔話は今も各神社で行事として行われています。鬼とは災いや疫病を指すとか侵略者の異人だと解釈はあるもののそれでは豆はなにかと言うと住民の声なのかと言うことで鬼が豆に弱いと言うことではないです。昨日の夜、いつものように走りに出ると道に豆が落ちていてああ今でも豆まきやるうちがあるのかと思いました。食べ物を粗末にするようでなんか良い風習ではない感じがし、神社に着くといつになく人がいます。最終の豆まきは7時と聞いていたのでなんでこんなに人がいるのかと不思議に思いつつ通過し境内には出店なども多数いてまるでお祭り騒ぎです。そして影森まで走りまた番場どおりに戻ってくると神社境内からまた物音がしてまさに豆がまかれるところでした。私が子供の頃みた風景とは違う豆まきのようすで鬼も昔は4.5人でしたが昨日は15人はいたのでは。豆をまく人も大勢いて参集殿の三階のベランダから袋に入ったものをまいていました。私も袋入りの豆を神社の法被を着た人から渡されずいぶん昔と違うなあと思いました。こんな行事にこれだけ人が集まったり今さら鬼に扮して何を世に示したいのかよくわかりませんが、やる方もみる方も歓迎しこういう超自然のことを必要としているのだと思われます。そういうことが人類を発展させ繁栄させてきたのでしょう。だから一概に否定はできません。四国や秩父でお馴染みの巡礼もヨーロッパでもあることを思えば民族的なことより人類的に自分よりちょっと違うものや出来事になにか希望を託すことをしてきたことがわかります。それは遥か何万年前の人類が地球上に残した洞窟などの遺跡からもみられます。そんな何万年前の人たちと同じように今も星を眺め人類の未来を思うことは同じことなのかと思えてきます。今の北の空にはフルサイズの北斗七星が見えます。秩父は空が広いのでフルサイズでみられます。こんな大きな星座がまるごとみられるスケールの大きさは贅沢な気分になります。そして今の時期はひとつの空に北斗七星とカシオペアの両方の星座がまるごと見えるのです。南に転じればオリオン座が武甲山の上に見えます。こんな贅沢はありません。とはいってもこんなことを思うのは私だけでしょう。こんな寒い日に星をみに毎日外に出る人はいないのです。私は毎日夜走ると言う習慣になっているのでこの美しい光景と変化を楽しめるのです。昔は農業のために正確に季節をしるために専門に星をみる人がいて暦を作るために国家的天文台は各国にあります。時を知ると言うのは国家の基幹的な重要案件なのです。日本では独自の暦を絶やさないのも国の主権とかこだわりがあるわけですがその主権の対象の王と言うのはどの国でも神由来の血筋とか神と同一視する超自然な存在の人たちなのですが主権が国民に移り自由と平等が当たり前になった世でも人々はその神由来の人たちを見捨てられず多くの国で国王は残っています。また今多くの国が専制的な独裁国家になってしまいましたが、力や武力の支配が続かないことは明らかです。星の輝きが太古から変わらぬように同じ素晴らしさでも人が繁栄し続けるにはまたどうあるべきかを皆考えてみる必要があります。そんなことを節分の豆まきと星座に考えるのでした。
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