King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

いつもの香で満たされる

2019年06月20日 09時58分56秒 | 珈琲

春から初夏にかけて様々な花が咲き、それぞれ独特の香りを発しています。

今梅雨の季節なら半夏生。

昨年この花を見つけた花壇にその姿がなく、家人がどこからか見つけて持ち帰ったものを

みてどういうことかと考えてしまいました。

つまり、興味のない方には全くただの路傍の草も季節を感じる重要なアイテムであり、

それらに包まれて生活している実感があるとないとでは大違いという現実です。

 

しかし、自宅の庭にお気に入りの草花や植物を植え、季節感を味わうという一番

オーソドックスな趣味さえ最近では行われることはなく、下手に動植物を飼うこと

は喘息とかアレルギーを増やして快適な住環境などというのも最近では人工物に

囲まれて生活する無機質なものに変わっている感じです。

 

なぜこうも人はこうも弱くなってしまったのか。

 

自然の脅威が増し、雨が突然集中的に降ったり、PM2.5の増加など環境の変化は

我々の経済生活からもたらされたものでしょう。かつての薪とかまどの生活に

戻ればまた違うのかもしれません。しかし、一度手に入れた便利さに慣れ、人々の

生活はもう元には戻れないでしょう。

 

ただ、脱石油は不可能なことではなく、プラスチック製品を減らしたり、循環型の

社会を目指すことは我々の今の便利な生活を長持ちさせる鍵となるでしょう。

 

昨年の私のブログに載せた半夏生の写真は、神社前の番場通りのとある花壇にあった

ものです。今時その白い色は目立つので今年も咲いていれば目にしているはずです。

それがないのはやはり花壇の主の判断で違うものにとってかわられたのかはたまた

今年は花を付けなかったのかということです。通りに面した花壇でさえこのように

年により付ける花は違います。

 

これは人による人工栽培という事で咲かせる花も変わるのですが、野望としては

常に華やかにそして香りに癒されるという事が目的のひとつであると思われます。

しかし、我々鑑賞する側の通行人は楽しむだけでなく、時にはゴミ箱代わりに

ゴミを投げ入れたり、空き缶を放置するなどの行動をとる人も少なくなく、人と

いうのは全てが同じ気持ちでよりよい社会になどという勧善、性善説はなりたたない

のです。

 

奇麗に咲き誇る花壇でも人は時にそれを愛できれいだと誉めそやす人もいれば

花をもいでしまう衝動に駆られる人もいるのです。ただ、花を植える人が多い

町であってほしいと願わずにはいられません。その先にどうすべきか、どういう

社会を築くべきかは置くとして、花壇の維持は並大抵な努力ではできないことは

理解されるでしょう。いつまでこの花が見られるか解らないとすればまたみる側の

意識も変わります。さらに、花の香りの記憶もより一層強く残るのかもしれません。

 

ただ、毎年色々な花が咲き匂いに癒される社会がその記憶とともに連綿と続くように

努力しなければならないと思った時に、珈琲の毎朝の香に満たされるということが

実に簡単でもたらす豊かさも一日を始めるうえでも実に実り豊かに生活を演出するか

というのは花壇ほどに手もかからず、簡単に手に入るのです。

 

そして、簡単に生活を豊かにしてくれると思います。

 

そんな珈琲の香で今朝も目を覚まし、朝のひと時をブラジルの豊かな甘みとゆったり

した深いコクの中でくつろぐ時間を持てることに感謝し一日を始めることができる

のでした。

 

この珈琲生活も初めはインスタントコーヒーでOKでもある日それがとても不満に

感じ、受け入れられないと感じることもあるのです。さらに、本物のレギュラー

コーヒーを飲むという贅沢を手に入れたとしていつも飲んでいるそのメーカーの

味が突如不満に感じより確かなものを求めたりするのが人間の志向です。

 

特に本物を知ってしまうとそういうことになってしまう人は多いのでは

ないでしょうか。何かにこだわりを持つという事は自身の生き方の問題で

ただ単に趣味の問題や好き嫌いの問題ではありません。

 

なにかにこだわることが人間であり、物が売れなくなった時代に製品に

アートを取り入れる企業が増えているといいます。それだけニーズと

競争が激化しているにもかかわらず、秩父において受けるサービスとか

販売者からのアプローチとか実に不快にしか思わないことに満ちています。

 

度々指摘する自動車セールスの担当の質もそうですが、一番基本の自社商品の

性能すらよく理解していないのです。例えば今や自動運転という未来に向けて

業界は動いているわけですが、今のトヨタの車には2000ccクラスの車では

パワーステアリング、パワーウィンド、ウィンカーの自動復帰という他社と

共通の性能はいいとして、パワーシート、ヒーター付きシート、ヒーター付きハンドル

一度踏むとブレーキが踏んだままとなる、サイドブレーキもPレンジに入れると自動で

入り、解除も自動など最初の三つと比べて必須の物でしょうか。もともとギアを

クラッチでつなげていたものが自動でその操作がなくなったものが、さらに進んで

ギアすらないというのが今の車です。これが何をもたらすかというと長いドライブ

で結構差が出るのです。そして、運転人生という事で、こういう車で運転して慣れて

しまうと他の車に乗った時に信号待ちでブレーキを踏み続けなくてはならないと

思い出すまでハッとしたり焦ってそのままアクセルを踏み込んでしまったりという

ことにならないでしょうか。停車の際も同様です。昔のように止まれば自分でサイドを

引くなり踏むなりするのが習慣で染みついているのにこういう車に乗って慣れてしまうと

またそういう装置が付いてない車に乗った時にサイドをひき忘れたり、戻し忘れて

さらにアクセルを踏み込んだりしてしまわないでしょうか。

 

私のようにクルーズコントロールの設定上限を知りたいというユーザーにセールスは

そもそも自分でそのような場面に陥った経験がないと何を求められているのかさえも

解らないのです。今のXVを購入する時にも担当セールスは全車速対応ですといいましたが

実際は114Kまでしか入らないのです。そしてこれが何を意味するのか、ユーザーが

どう感じるのかも理解できないのです。

 

高速の利用が日常でないユーザーも多いでしょう。そして、高速道路も120K時代を

迎えようとしているときにユーザーは何を思うかとメーカーも考えないのでしょうか。

SUBARUはクルーズコントロールの上限設定の数値をカタログに書いています。

それなのにこれが何を意味するかセールスは理解していません。

 

トヨタに至ってはその数値が書かれていないためセールスの言う通り何Kでも設定可能と

いわれても試しようがなく知りようがありません。ネットでも私のようにこの点を知りたい人が

質問をしているのを見かけますが、その意味も考えない人がやたらとコンプライアンス

を訴えたりと不毛な応酬で終っているのを見ます。

 

つまり自動運転前夜ですらこんな状況なら日本ではどんな法設定が今後されるにしろ

自動運転など専用道路以外では実現しないでしょう。日本では細かく各道路の上限速度が

決められていて、高速道路など100Kから出口インターに入った途端40Kになり、もしそれを

完全に守る自動運転の車が増えたら追突事故が絶えないことになるでしょう。

 

さらに自動運転でない車のユーザーからの不満が募り反対運動も起きるのではないでしょうか。

 

それ以上に人手不足でAIのプロドライバーが増えて自動運転の車に駆逐されてしまうのかも

しれません。ただそうなれば個人で車など所有する人はいなくなり、メーカーとしては本末転倒

なのではないでしょうか。

 

そう考えると毎朝珈琲の香で目覚める幸福は実に簡単で実に確実に実現できる至福の時で

それもなお季節のブレンドで季節感も感じることができるという素晴らしさです。

是非お楽しみください。


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