津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

謡曲「桧垣」

2005-08-07 17:31:43 | 徒然
 コピーを整理していたら、謡曲「桧垣」の写しが出てきた。この桧垣・・・
以前読んだ坂口安吾の文庫本「堕落論」の「日本文化私観」の中で、安吾は「世界一流の文学」と称え、同じく「青春論」の中でその荒筋を解説している。
敬愛してやまない安吾が「世界一」と言うのだから読んでみようと思い、図書館でコピーをしたものなのだが・・・・よく理解できないまま埋もれていた。

 かっては美しかった舞姫が老いて零落した末路を素材とした、世阿弥の作である。後撰集にあるという桧垣の歌
    「年経ればわが黒髪も白川の みつはぐむまで老いにけるかな」

 忠興は肥後入国にあたり、かっての加藤忠広の居間の庭先に、桧垣の塔があることを承知しており、「気違一つのうちたるべし」として、津川四郎右衛門にその善処を依頼している。そしてその塔はかっての場所蓮台寺に還された。
コピーもまた、埋もれてしまわないよう整理しておかなければならない。
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国立教育研究所紀要

2005-08-07 09:51:03 | 徒然
なんの気なしに祖父の名前を打ち込んだら、稲葉継雄先生の論文の中に出て
きた。私が二歳の時祖父母・父が亡くなり、近年伯母達も亡くなり祖父の生き様
を知る術を無くしてしまっていた処での事で、すっかり嬉しくなった。
お願いをして手許に取り寄せることが出来た。明治22年(1889)平壌に渡って設
立された日本語学校の校長などを務め、日露戦争では義勇軍を率いて赴いたり
している。稲葉先生は祖父を「国士で・・・膨張主義者」としておられる。
その仕事は明治44年までは確認されている。
「国士」とは驚いてしまったし、「膨張主義者」とのご指摘にも愕然としてしまった。
その後最晩年は細川侯爵家の家扶を勤めたが、昭和19年に亡くなるまでの空白
を埋める手立ては無い。
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