~~「ヨハネ伝解読」前回の続きですが、今回は奥義に踏み込むところです。
その語られるところは深く、素晴らしいです。
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=聖句=
「(我々(ユダヤ人たち)がお前(イエス)を石で打って殺そうとするのは・・・・(中略)・・・お前が人間であるにすぎないのに、自分を神(創主)にしているからだ」(10章33節)
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ユダヤ人もイエスも旧訳聖書を踏まえています(解読のしかたは違いますが)。そこでは、ゴッドは唯一の方という基本前提があります。
そこでユダヤ人たちは~~「(我々がお前を石打しようとするのは、いいわざをしたからではなく、人間であるにすぎないのに、自分を創主にすることによって創造主を冒涜したからだ」(33節)
~~といいます。これは律法(旧訳聖書の)にかなっていることだ、我々がお前を殺すのは正しいことなのだ、という論理です。
<唯一なのは「父なる」創り主>
ところがイエスは反論するのです。
「だって、その聖書にそうしていい(自分をゴッドにしていい)と書いてあるんだモ~ン」(34節)。
ここでイエスが引用しているのは、聖書(旧約)の中におさめられている「詩編」という書物の聖句なようです。そこにはこう書いてあります。
「わたし(創主)はいった。『おまえたちは神々(gods)だ。おまえたちはみな、いと高き方の子らだ』」(詩編、82章6節)
イエスは、この聖句を解き明かします。
~~ここで「おまえたち」と言われているのは、創主からのメッセージを受けた人々だ、と。
これはたとえば、旧約における預言者たちでしょう。彼らは、創造主からのメッセージをその霊感に受けた人々と言うことになっていますから。
イエスは~~、この人々を神々(gods)と聖書(旧約)で言っているではないか。聖書の言葉は真理だろ? その聖書が言ってるんだからこれは真理なんだ~~と。
そして~~預言者という人間が創り主の言葉を受けたら神々になれるのならば、その創り主の言葉を受けて、創主から出てこの世にやってきているわたしが、神(創主)の子となるのは、当然ではないか~~という。
イエスのこの言葉は、「まことの神は唯一者」という聖書の大前提とどういう関係にあるでしょうね。春平太の見解を結論から言いますと、「創主は唯一者」というのは、総論での大前提です。総論的解釈というのは表層的でもあり、表層というのは初心者向けでもあります。
しかし、一歩内部に踏み込むと、そこには奥義がある。聖書とはそういう構造になっているのです。ここでの奥義には、創り主の言葉を内に抱いた存在は(その分)創り主と同質になる、という原理があります。
聖書では、創主との関係は基本的に思いの内容で決まります。これが鉄則です。そしてこの鉄則が奥義を明かしてくれます。
この鉄則によりますと、創り主と思いが同じであればその存在は創り主と(その分)同質になる道理ですよね。で、思いの本体は霊でしたよね。霊が同質になれば、創り主と同質にならざるを得ません。で、創り主が神でしたら、その存在は神々(英語のニュアンスをのこせばミニゴッド)と言うことになります。
人が創り主の言葉(思い、霊の凝縮したもの)を抱いて、そのまま自分のものとしてしまったら、その分その人の意識は創り主と質的に同じになっていきます。意識が同じなら、その言動も似てきますよね。ミニゴッドになる。
奥義はそうなっています。「いと高き方(創主)の子」ミニゴッドはたくさん出うるのです。それからすると唯一者とは「父なる」ゴッド(創造主)であった、ということになるでしょう。
ともあれこれが福音の奥義です。イエスが新約聖書で明かしていく奥義です。旧訳聖書では、それが隠された形でしか現れません(だから解読はエキサイティング)。
『詩編82』は「アサフの賛歌」と記されています。アサフという人にそういう霊感が与えられたのでしょうか。あるいは他の預言者に与えられた霊感内容を、アサフが賛歌に編集したのでしょうか。それはわかりませんが、とにかくそこに奥義が「チラッ」と込められる。
旧訳聖書は、そういう書物です。その奥義をイエスが地上に現れて解き明かしていく。そのイエスにぴったりつき、教えを最も深く理解した弟子が「ヨハネ伝」の著者ヨハネだというつながりです。
ヨハネ伝は、聖書の中でも別格の書物です。その「ヨハネ伝」をわたしたちは、いま読んでいるのですね。「春平太チャーチ」がその素晴らしさを十分伝えられたらいいんだけど・・・。