~~SAITOHさんからは、他にも興味深いコメントをいただいてきています。「ヨハネ伝解読」のVol.128『救いの条件は実は聖句探求の維持?』に対するものもその一つです。ここに表示いたします。
(SAITOH)
「聖書の中のイエスの教えを調べ続ける、というのは、罪許される条件となる」というのは、非常に勇気づけられる言葉です。
いろいろな人が自分なりに考え、聖書を読み進めていくと、当然、中には、トンチンカンな解釈もでてくるし、一笑に付したくなることもある。でも、その解釈はともかく、自分で調べて、考えようとする姿勢には敬意を払うべきであると、改めて反省させられました。
それこそが、地の塩ですね。 そもそも、創り主から見れば、皆、五十歩百歩であることを肝に銘じたいです。
私にしても、まだまだ、聖書そのものに当たって、調べる習慣が身に付いたとまではいえませんけど、そういう人を増やすように働きかけたいですね。


(SAITOH)
「聖書の中のイエスの教えを調べ続ける、というのは、罪許される条件となる」というのは、非常に勇気づけられる言葉です。
いろいろな人が自分なりに考え、聖書を読み進めていくと、当然、中には、トンチンカンな解釈もでてくるし、一笑に付したくなることもある。でも、その解釈はともかく、自分で調べて、考えようとする姿勢には敬意を払うべきであると、改めて反省させられました。
それこそが、地の塩ですね。 そもそも、創り主から見れば、皆、五十歩百歩であることを肝に銘じたいです。
私にしても、まだまだ、聖書そのものに当たって、調べる習慣が身に付いたとまではいえませんけど、そういう人を増やすように働きかけたいですね。
