鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.204『信じている状態と、行動する状態との違い』(13章33~5節)

2007年07月18日 | ヨハネ伝解読




                    

「若き日に、汝の創り主を覚えよ。」(伝道者の書、12章1節)

 今日も創り主を想いましょう。
 生活の雑事の中で、創主を放念しがちになっても大丈夫です。聖句がりますから。創造主が意識からなくなっていく。そのとき「若き日に、汝の創り主を覚えよ」という言葉がありますと、また、創主を想う意識が再形成できます。御言葉はキリスト教信頼(信仰)の中核です。御言葉を抱いていきましょう。


                    


 本日の聖句も、前回と同じです。

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=聖句=
「私(イエス)は、今、新しい命令を諸君(弟子たち)に与えます。互いに愛し合いなさい。わたしが諸君を愛したように、諸君も互いに愛し合いなさい」(13章34節)
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 今回は「命令」について考える回です。
 命令といっても、「・・・しろよ」というような「行動の命令」です。

 少し理屈っぽく考えましょう。
 行動の命令といっても二つのケースが考えられるんではないでしょうか。

 第一は、「教えを只単に理解し心に受け入れるだけではなく、その通りに行動しろよ」という命令。

第二は、もう少し厳しい。「理解できず、心に受け入れられなくても(そういう部分があっても)、言われたとおりに行動せよ」というものです。


                    


<愛する人は教えに「従う」人>

第一から行きましょう。次の14章でイエスはこういっています。

 「・・・私を愛するものは、わたしの教えに『従う』でしょう」(ヨハネによる福音書、14章21節)


 この聖句を先取りして考えます。これは、「イエスの教えを理解して受け入れても、自分の行動がそのようにならない人もいる」ということを暗示しています。「信じている」けれども、まだ従わない人ですね。

 そういう状態もあり得るのです。言葉を理解し、ああこれはいい教えだ、と受け入れているだけの状態ですね。

 なおそういう「信じている」も、信仰を持ったことにはなります。だから、いわゆる「救い」にはあずかれるということに、聖書の論理ではなっています。救いは信仰による、というのは聖書の大原則ですから。

 しかし、そういう人は「わたしを愛する」人ではない、とこの聖句は言っているんですね。「従う」ひとが、「私を愛する人」だというのですから。いずれにせよ、第一の命令は、こういう「分かったか? では従え」という命令です。


                    


<弟子への要求は「とにかく従え」>

 ところが「従え」には「分かってなくても従え」というのもあるんですね。第二種類のの命令です。通常行動の命令というのは、これが多いですよね。

 「互いに愛し合え」という命令について、弟子たちは命令を受けた時点でその根拠、大切さを理解できたでしょうか。どうもそうでないように思われます。

 その理由が後になって分かってくる、というのが聖書のストーリーですからね。イエスがそれほどにいうのだから、「イエス亡き後に、自分(弟子)たちが愛し合う(愛し合い一つにまとまっている)というのは、よほど大切なことなのだろうなあ」という推察はできたかもしれませんが内容の理解には到っていません。

 イエスは、これについて命令と受け止め、従えといっています。考えてみれば、命令の大半はこの第二のタイプであって、命令の本質はこちらにあり、とでもいえそうですね。
この命令が持つ性格を、次回に考えてみましょう。


                    


コメント
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