鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.225『私を愛する人は命令に従う人だよ』(14章15節)

2008年05月07日 | ヨハネ伝解読
(写真は、サザンバプティストの、とある教会における、
スモールグループ・リーダーの準備会議。
日曜礼拝の夕方~夕拝の前に~次週のために勉強会と会議を持つ)

 本日は15節に進みます。

                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「諸君が私を愛していれば、私の命令を守るでしょう」(14章15節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    


 この言葉は、21節にも23節にも出てきます。イエスが最後の晩餐で語る言葉の中で、
ポイントになっているのではないかと感じさせられます。

  ここでは「私の名の内で求めたものはなんでも、私はそれを行う」
という14節の言葉に続いてのべられています。
 その文脈で考えると、ここではこの約束がなされるための条件に
なっているように思われます。

 「求めたるものは何でも実現する」というのは、何とも有り難く、美味しく、
夢のような約束です。だがそういう待遇を受けるには条件がある。
それは「イエスの命令に従い守ることだ」と。


                    

<理解できなくてもその通り行動する>

「命令を守る」というのは、いわれたままに行動することです。
それは「そのときには理解できない部分があっても、納得できなくても、
言葉の通り行動する」ことを含んでいますよね。

 これはイエスに精神的に同化してしまう、ということですね。
同化というのは愛の本質です。
だから、これがイエスを極限まで愛していることの中身になるのですね。 

 そういうことは最低限として、イエスを信頼していないと出来ないことですね。
でもそれは最低限の条件であって、信頼してても、従って行動しない場合もあります。

命令に従うというのは容易なことではないのですね。
でもイエスは、そこまでに私に同化してくれたら求めるものは実現する、
と約束しているわけです。

                    

<後世の全ての人間に対してか?>

 この言葉は、12弟子に対してのみに限られていないものともとられます。
以後それほどにイエスに同化し、愛するものすべてに対する約束でもあるということですね。

 春平太はそう思わせられる経験をしてきました。
ゴズペルじゃーナリストとして色々見聞するなかで、主のみわざとしか思われない
しるしを現す伝道者をみました。
そしてそういう人はみな、自分の身を創主に投げ出すかのようにイエスの言葉に従っていました。
全精神がそうなっているという感じでした。
イエスの言葉を命令と受け止めて、恐れずその通り行為してしまいます。

 彼らはまた、この世の仕事はほとんどせずに、祈りと宣教に専念していました。
世の事柄に関与したら、意識に世的な部分が形成されて、力は現れにくくなるのでしょうか。
みんなの自主的な献金が生活を支えて、
世的なものに関与しなくてもいいようにしているのが通常でした。


                     



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Vol.224『聖句には「含み」も残っている』(14章14節)

2008年05月07日 | ヨハネ伝解読
(写真はミシガン州、ホランド市のヴィンヤード教会)


本日の聖句はこれです。

                    

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「もし諸君が私に、私の名のうちで求めるものはなんでも、私は行いましょう(I will do it)」(14章14節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                    


 この14節の言葉は、13節の前半
(「諸君が私の名の内で求めることはなんでも、私は行います」)とほとんど同じですよね。
だが、13節では(それによって)「父が栄誉を受けられるため」とのことばが付けられています。

14節は、それを踏まえていっている。そういう文脈になっています。
つまり、「なさるのは究極的には父なのだけれど、わたしはそれを父に願ってなしてもらうんだよ」
という含みがある。

 英語で I will do it と訳されているこの文は、文字通りには
「イエスがそれを実現する」と言う意味なのですが、「父に祈り求めて」実現してあげる、
という内容を持っているのですね。

 だけど、結果だけを見れば、イエスがやったことにもなります。
だから、つづめて「求めればかなえるよ」といっているわけです。


                             

<父と子の正確な関係>

 でも、そうだからといって、「含み」を考えないようになっていくのは
聖書誤解読のもとになります。

力やわざに関する、父なる創造主と子との関係は、聖書思想の根本です。
これを放念して「まあイエスがやったでいいだろう」とやっていきますと、
聖句から雰囲気としての霊的実体を心に生成させる際に、微妙なずれが出てきます。
聖書解読の究極ゴールは、この霊的実体の生成にありますから、それはまずいのです。

 このあたりを正確にするためにも、聖句そのものを基点にし続けるのは重要でしょうね。
解釈者の言葉を基点にするとあぶない。
聖句の微妙なところは消えてしまいがちですから。

 聖句というのは妙なる言葉なんですね。
そして聖句主義はかけがえのない方法である。

こうしたことが伺われるところでもあります。



                    


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