(写真は、サザンバプティストの、とある教会における、
スモールグループ・リーダーの準備会議。
日曜礼拝の夕方~夕拝の前に~次週のために勉強会と会議を持つ)
本日は15節に進みます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「諸君が私を愛していれば、私の命令を守るでしょう」(14章15節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この言葉は、21節にも23節にも出てきます。イエスが最後の晩餐で語る言葉の中で、
ポイントになっているのではないかと感じさせられます。
ここでは「私の名の内で求めたものはなんでも、私はそれを行う」
という14節の言葉に続いてのべられています。
その文脈で考えると、ここではこの約束がなされるための条件に
なっているように思われます。
「求めたるものは何でも実現する」というのは、何とも有り難く、美味しく、
夢のような約束です。だがそういう待遇を受けるには条件がある。
それは「イエスの命令に従い守ることだ」と。
<理解できなくてもその通り行動する>
「命令を守る」というのは、いわれたままに行動することです。
それは「そのときには理解できない部分があっても、納得できなくても、
言葉の通り行動する」ことを含んでいますよね。
これはイエスに精神的に同化してしまう、ということですね。
同化というのは愛の本質です。
だから、これがイエスを極限まで愛していることの中身になるのですね。
そういうことは最低限として、イエスを信頼していないと出来ないことですね。
でもそれは最低限の条件であって、信頼してても、従って行動しない場合もあります。
命令に従うというのは容易なことではないのですね。
でもイエスは、そこまでに私に同化してくれたら求めるものは実現する、
と約束しているわけです。
<後世の全ての人間に対してか?>
この言葉は、12弟子に対してのみに限られていないものともとられます。
以後それほどにイエスに同化し、愛するものすべてに対する約束でもあるということですね。
春平太はそう思わせられる経験をしてきました。
ゴズペルじゃーナリストとして色々見聞するなかで、主のみわざとしか思われない
しるしを現す伝道者をみました。
そしてそういう人はみな、自分の身を創主に投げ出すかのようにイエスの言葉に従っていました。
全精神がそうなっているという感じでした。
イエスの言葉を命令と受け止めて、恐れずその通り行為してしまいます。
彼らはまた、この世の仕事はほとんどせずに、祈りと宣教に専念していました。
世の事柄に関与したら、意識に世的な部分が形成されて、力は現れにくくなるのでしょうか。
みんなの自主的な献金が生活を支えて、
世的なものに関与しなくてもいいようにしているのが通常でした。
スモールグループ・リーダーの準備会議。
日曜礼拝の夕方~夕拝の前に~次週のために勉強会と会議を持つ)
本日は15節に進みます。
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=聖句=
「諸君が私を愛していれば、私の命令を守るでしょう」(14章15節)
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この言葉は、21節にも23節にも出てきます。イエスが最後の晩餐で語る言葉の中で、
ポイントになっているのではないかと感じさせられます。
ここでは「私の名の内で求めたものはなんでも、私はそれを行う」
という14節の言葉に続いてのべられています。
その文脈で考えると、ここではこの約束がなされるための条件に
なっているように思われます。
「求めたるものは何でも実現する」というのは、何とも有り難く、美味しく、
夢のような約束です。だがそういう待遇を受けるには条件がある。
それは「イエスの命令に従い守ることだ」と。
<理解できなくてもその通り行動する>
「命令を守る」というのは、いわれたままに行動することです。
それは「そのときには理解できない部分があっても、納得できなくても、
言葉の通り行動する」ことを含んでいますよね。
これはイエスに精神的に同化してしまう、ということですね。
同化というのは愛の本質です。
だから、これがイエスを極限まで愛していることの中身になるのですね。
そういうことは最低限として、イエスを信頼していないと出来ないことですね。
でもそれは最低限の条件であって、信頼してても、従って行動しない場合もあります。
命令に従うというのは容易なことではないのですね。
でもイエスは、そこまでに私に同化してくれたら求めるものは実現する、
と約束しているわけです。
<後世の全ての人間に対してか?>
この言葉は、12弟子に対してのみに限られていないものともとられます。
以後それほどにイエスに同化し、愛するものすべてに対する約束でもあるということですね。
春平太はそう思わせられる経験をしてきました。
ゴズペルじゃーナリストとして色々見聞するなかで、主のみわざとしか思われない
しるしを現す伝道者をみました。
そしてそういう人はみな、自分の身を創主に投げ出すかのようにイエスの言葉に従っていました。
全精神がそうなっているという感じでした。
イエスの言葉を命令と受け止めて、恐れずその通り行為してしまいます。
彼らはまた、この世の仕事はほとんどせずに、祈りと宣教に専念していました。
世の事柄に関与したら、意識に世的な部分が形成されて、力は現れにくくなるのでしょうか。
みんなの自主的な献金が生活を支えて、
世的なものに関与しなくてもいいようにしているのが通常でした。