ヨハネ伝の14章から17章までは、イエスがいわゆる「最後の晩餐」で、
弟子たちに言い残した言葉で埋められています。
この場面でのイエスを想像してみましょう。
この後まもなくしてイエスは捉えられ、拷問をうけ、十字架刑で殺されます。
創主の子イエスには、そういう展開はわかっています。
わかっている状態で、弟子たちに後のことを教示しているのです。
彼は殺されても、3日後に復活してふたたび弟子の前に現れます。
が、すぐに創主の王国である天国にもどって行きますから、
もう地上でリーダーとして弟子たちを直接導くことはなくなります。
だが、弟子たちには「地の果てまでのべ伝えよ」という宣教命令を与えていきます。
弟子たちはイエスの命令を守って、自分たちだけでイエスの教えた「天の教え」を
宣べ伝えねばならなくなります。
大変な仕事です。
それをするに際して必要な知識、知恵を、イエスはいま丹念に言い聞かせているのです。
<人間への深く熱い愛>
イエスが力を込めて弟子たちに教えているのは、自分のためではありません。
人間が幸福になるために教えているのです。
人間の永遠の幸福のために、これからやってくる激痛をまえにして、
根気よく、知恵を与えている。
最後の晩餐におけるイエスのこの姿に、人間への溢れる愛が感じられないでしょうか。
イエスはわれわれの想像の及ばないほどに深く人間を愛したのです。
イエスの愛を示すものといえば、従来は十字架でした。
「十字架で人間の罪を代償して死んでくれた」ことのみが繰り返し伝えられてきました。
それはたしかにそうです。ここにはイエスの人類への愛が凝縮していますから。
だけど、この「最後の晩餐」の場面にも、翌日に十字架刑に凝縮して現れるイエスの愛、
人間への驚くべき愛が溢れ出、流出していないでしょうか。
14~17章におけるイエスの言葉は、その状況を感じつつ読めるかどうかが、解読の決め手です。
本日は少し長いです。
まず、本日の聖句です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「それは真理の御霊です。
この世は、それを見ようともせず、知ろうともしないので、
それを受け入れることが出来ません。だが、あなた方はこの方を知ります。
この方は諸君と共に(この世に)留まり、そして(将来)諸君の内に
入るからです」(14章17節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
前回に示したものと同じ17節ですが、今回はそのうちの次の聖句部分を考えます。
「この世は聖霊を受け入れることが出来ません。その方を見ようとも、知ろうともしないからです」
「だがあなた方はこの方を知ります」
どうして「この世は聖霊を受け入れることが出来ない」し「聖霊を見ようとも知ろうともしない」のでしょうか。
その理由は深いものです。だから今回は、長くなるのです。
<「世」は宇宙>
まず、「この世」。これは独特の意味を持っています。
聖書ではこれは「天国」と対比された概念なのです。
挿入した「聖書の空間理念」の図を見てください。
(聖書の空間理念はどうしてこういう風に解読されるか、は
「誰もが聖書を読むために」新潮社、を見てください。
そこには論理過程が図と共に記されています。)
図における天国は、創造主が創った自らの王国です。
そこでは、創造主の正義、創主の定めた法が貫徹しています。
違反をするものは誰もおりません。
対して、「世」とは、図における「宇宙」にあたります。
ここは基本的に、悪魔、悪霊を閉じ込めた暗闇です。
<宇宙は「天」に対抗する者たちの牢屋>
聖書の思想では、この空間が出来るまえに天国で創主に対抗した天使の一群がいました。
彼らは創造主に不従順するだけでなく、対抗した。
対抗することによって、彼らの内に吸収されていた「いのちエネルギー」は、
「いのちのマイナスのエネルギー」すなわち「死のエネルギー」変わります。
それによって、対抗した天使群の長は悪魔(サタン)に変質し、配下の天使たちは悪霊に変質します。
そして創主にしたがう天使たちと天国で戦った結果、この暗闇に追い込まれているのです。
彼らは、「最後の裁き」がなされるまで、この宇宙に収容されています。
彼らには、本質的に創主に敵対する性格をもった存在である、
という容疑がかけられているのです。
容疑がかけられていますから、容疑者です。
そういう容疑者を閉じこめたのが宇宙という空間となる。
ですから宇宙は「創主の王国」全体から見たら、そのなかの牢屋にあたります。
人間社会でも牢屋の中では、君臨する牢名主が生じるのが通常ですけれども、
宇宙空間に於いても同じです。
悪魔がこの「世」(宇宙)を牢名主として君臨する支配者となっているのです。
<「地」は地球>
地球はどうか?
聖書の思想では、地球はそういう宇宙の中に創られた塵のように小さな星です。
聖句における「地」とはその地球をさしています。
「創世記」には人間が創られたことが記されていますが、
それはこの「地」の上での出来事です。
これは重大なことです。
なぜなら、「地」は宇宙の中にあり、宇宙は悪魔が(一時的ながら)牢名主として
君臨している悪魔の王国なのです。人間はそこに創られたことになる。
そういう空間の中に造られたのがアダムとイブです。
彼らは悪を知らない純朴な者です。牢名主はこれを簡単に騙すことが出来ます。
<人類の祖先の霊に「罪」が入る>
実際、彼らはまもなくだまされて、創造主から「食べてはいけない」
といわれていた「知恵の木の実」を食べてしまいます。
「本当は食べてもいいのですよ、食べてご覧なさい」と悪魔は騙す。
これに騙されて食べてしまいます。
創造主に従順しないことによって「罪」が彼らの(霊の)内にも入ります。
悪魔は創造主に対抗したのですから、罪の固まりであり、大本締めのような存在です。
そしていまや「罪ある存在」となったアダムとイブはその元締めの側に取り込まれてしまうのです。
<「罪」は遺伝する>
アダムとイブの霊に入った罪は、彼ら二人に留まることはありません。
霊の資質は、遺伝することに聖書ではなっているのです。
アダムの霊に刻まれた「罪」は、アダムを通じて次々に子孫に遺伝します。
だから以後の人類はみな、この霊的資質を受け継いでいくことになります。
その結果、全人類の本性が基本的に悪魔と同質なものとなりました。
ですから人類は「世」の側に属する存在となっているわけです。
~以上のような光景が本日の聖句部分の背景にあります。
(なお、このあたりの風景は『聖書の論理が世界を動かす』新潮社のなかで詳論しています)
<だから聖霊を送るが「世」の人々は・・>
本日の聖句場面は、そういう「世」においてこれと敵対関係にある「天」の教えを、
弟子たちに宣べ伝えさせるために、イエスが必要知識を言い残しているところなのです。
弟子たちはイエスに選ばれた例外的な存在です。
「天」の側からやってきたイエスが「世」の中から選んで、
自分(天)の側に拾い上げた少数者です。
イエスはその彼らをこれから「世」に残って働くようにさせようとしているのです。
自分のためでも、弟子たちだけのためでもない。人類の幸福のためです。
ところがこの「世」は宇宙ですから、「天国」と敵対する意識を根底に持っています。
宇宙という「世」に住む人間たちは、基本的に悪魔の側に取り込まれているのですから。
ここで「天」の論理を宣教するのは、至難の業です。
そこでイエスは「助け主・聖霊」を送ると約束する~~これが16節の聖句だったのです。
聖霊は創主から出た、創主と同質の霊です。天の論理、天の意識波動を持っています。
「世」から選び出された弟子たちは後に、聖霊を体験するようになります。
長くなりましたが、本日の聖句部分
「だがあなた方はこの方(聖霊)を知ります」
というイエスの言葉には、こういう背景があるのです。
対して「世」の人々はどうか。
彼ら一般人は「世」に属する存在です。
だから聖霊の波動を感知することもないし、肯定的な関心を向けることもありません。
そこでイエスは~
「この世は聖霊を見ようともせず、知ろうともしない」
~といっているわけです。
・・・ああ、長かった。
17節の聖句内容は膨大なんですね。
まだ少し残っています。次回に考えましょう。
弟子たちに言い残した言葉で埋められています。
この場面でのイエスを想像してみましょう。
この後まもなくしてイエスは捉えられ、拷問をうけ、十字架刑で殺されます。
創主の子イエスには、そういう展開はわかっています。
わかっている状態で、弟子たちに後のことを教示しているのです。
彼は殺されても、3日後に復活してふたたび弟子の前に現れます。
が、すぐに創主の王国である天国にもどって行きますから、
もう地上でリーダーとして弟子たちを直接導くことはなくなります。
だが、弟子たちには「地の果てまでのべ伝えよ」という宣教命令を与えていきます。
弟子たちはイエスの命令を守って、自分たちだけでイエスの教えた「天の教え」を
宣べ伝えねばならなくなります。
大変な仕事です。
それをするに際して必要な知識、知恵を、イエスはいま丹念に言い聞かせているのです。
<人間への深く熱い愛>
イエスが力を込めて弟子たちに教えているのは、自分のためではありません。
人間が幸福になるために教えているのです。
人間の永遠の幸福のために、これからやってくる激痛をまえにして、
根気よく、知恵を与えている。
最後の晩餐におけるイエスのこの姿に、人間への溢れる愛が感じられないでしょうか。
イエスはわれわれの想像の及ばないほどに深く人間を愛したのです。
イエスの愛を示すものといえば、従来は十字架でした。
「十字架で人間の罪を代償して死んでくれた」ことのみが繰り返し伝えられてきました。
それはたしかにそうです。ここにはイエスの人類への愛が凝縮していますから。
だけど、この「最後の晩餐」の場面にも、翌日に十字架刑に凝縮して現れるイエスの愛、
人間への驚くべき愛が溢れ出、流出していないでしょうか。
14~17章におけるイエスの言葉は、その状況を感じつつ読めるかどうかが、解読の決め手です。
本日は少し長いです。
まず、本日の聖句です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「それは真理の御霊です。
この世は、それを見ようともせず、知ろうともしないので、
それを受け入れることが出来ません。だが、あなた方はこの方を知ります。
この方は諸君と共に(この世に)留まり、そして(将来)諸君の内に
入るからです」(14章17節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
前回に示したものと同じ17節ですが、今回はそのうちの次の聖句部分を考えます。
「この世は聖霊を受け入れることが出来ません。その方を見ようとも、知ろうともしないからです」
「だがあなた方はこの方を知ります」
どうして「この世は聖霊を受け入れることが出来ない」し「聖霊を見ようとも知ろうともしない」のでしょうか。
その理由は深いものです。だから今回は、長くなるのです。
<「世」は宇宙>
まず、「この世」。これは独特の意味を持っています。
聖書ではこれは「天国」と対比された概念なのです。
挿入した「聖書の空間理念」の図を見てください。
(聖書の空間理念はどうしてこういう風に解読されるか、は
「誰もが聖書を読むために」新潮社、を見てください。
そこには論理過程が図と共に記されています。)
図における天国は、創造主が創った自らの王国です。
そこでは、創造主の正義、創主の定めた法が貫徹しています。
違反をするものは誰もおりません。
対して、「世」とは、図における「宇宙」にあたります。
ここは基本的に、悪魔、悪霊を閉じ込めた暗闇です。
<宇宙は「天」に対抗する者たちの牢屋>
聖書の思想では、この空間が出来るまえに天国で創主に対抗した天使の一群がいました。
彼らは創造主に不従順するだけでなく、対抗した。
対抗することによって、彼らの内に吸収されていた「いのちエネルギー」は、
「いのちのマイナスのエネルギー」すなわち「死のエネルギー」変わります。
それによって、対抗した天使群の長は悪魔(サタン)に変質し、配下の天使たちは悪霊に変質します。
そして創主にしたがう天使たちと天国で戦った結果、この暗闇に追い込まれているのです。
彼らは、「最後の裁き」がなされるまで、この宇宙に収容されています。
彼らには、本質的に創主に敵対する性格をもった存在である、
という容疑がかけられているのです。
容疑がかけられていますから、容疑者です。
そういう容疑者を閉じこめたのが宇宙という空間となる。
ですから宇宙は「創主の王国」全体から見たら、そのなかの牢屋にあたります。
人間社会でも牢屋の中では、君臨する牢名主が生じるのが通常ですけれども、
宇宙空間に於いても同じです。
悪魔がこの「世」(宇宙)を牢名主として君臨する支配者となっているのです。
<「地」は地球>
地球はどうか?
聖書の思想では、地球はそういう宇宙の中に創られた塵のように小さな星です。
聖句における「地」とはその地球をさしています。
「創世記」には人間が創られたことが記されていますが、
それはこの「地」の上での出来事です。
これは重大なことです。
なぜなら、「地」は宇宙の中にあり、宇宙は悪魔が(一時的ながら)牢名主として
君臨している悪魔の王国なのです。人間はそこに創られたことになる。
そういう空間の中に造られたのがアダムとイブです。
彼らは悪を知らない純朴な者です。牢名主はこれを簡単に騙すことが出来ます。
<人類の祖先の霊に「罪」が入る>
実際、彼らはまもなくだまされて、創造主から「食べてはいけない」
といわれていた「知恵の木の実」を食べてしまいます。
「本当は食べてもいいのですよ、食べてご覧なさい」と悪魔は騙す。
これに騙されて食べてしまいます。
創造主に従順しないことによって「罪」が彼らの(霊の)内にも入ります。
悪魔は創造主に対抗したのですから、罪の固まりであり、大本締めのような存在です。
そしていまや「罪ある存在」となったアダムとイブはその元締めの側に取り込まれてしまうのです。
<「罪」は遺伝する>
アダムとイブの霊に入った罪は、彼ら二人に留まることはありません。
霊の資質は、遺伝することに聖書ではなっているのです。
アダムの霊に刻まれた「罪」は、アダムを通じて次々に子孫に遺伝します。
だから以後の人類はみな、この霊的資質を受け継いでいくことになります。
その結果、全人類の本性が基本的に悪魔と同質なものとなりました。
ですから人類は「世」の側に属する存在となっているわけです。
~以上のような光景が本日の聖句部分の背景にあります。
(なお、このあたりの風景は『聖書の論理が世界を動かす』新潮社のなかで詳論しています)
<だから聖霊を送るが「世」の人々は・・>
本日の聖句場面は、そういう「世」においてこれと敵対関係にある「天」の教えを、
弟子たちに宣べ伝えさせるために、イエスが必要知識を言い残しているところなのです。
弟子たちはイエスに選ばれた例外的な存在です。
「天」の側からやってきたイエスが「世」の中から選んで、
自分(天)の側に拾い上げた少数者です。
イエスはその彼らをこれから「世」に残って働くようにさせようとしているのです。
自分のためでも、弟子たちだけのためでもない。人類の幸福のためです。
ところがこの「世」は宇宙ですから、「天国」と敵対する意識を根底に持っています。
宇宙という「世」に住む人間たちは、基本的に悪魔の側に取り込まれているのですから。
ここで「天」の論理を宣教するのは、至難の業です。
そこでイエスは「助け主・聖霊」を送ると約束する~~これが16節の聖句だったのです。
聖霊は創主から出た、創主と同質の霊です。天の論理、天の意識波動を持っています。
「世」から選び出された弟子たちは後に、聖霊を体験するようになります。
長くなりましたが、本日の聖句部分
「だがあなた方はこの方(聖霊)を知ります」
というイエスの言葉には、こういう背景があるのです。
対して「世」の人々はどうか。
彼ら一般人は「世」に属する存在です。
だから聖霊の波動を感知することもないし、肯定的な関心を向けることもありません。
そこでイエスは~
「この世は聖霊を見ようともせず、知ろうともしない」
~といっているわけです。
・・・ああ、長かった。
17節の聖句内容は膨大なんですね。
まだ少し残っています。次回に考えましょう。