鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.234『イエスの命令に従う者に、イエスが啓示される』(14章21節)

2008年07月06日 | ヨハネ伝解読
 さて、ヨハネ伝の聖句に戻りましょう。
今回は、21節。これも難しいです。
21~4節は話としてはひとまとまりのところですが、本日は21節を。

                                        
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=聖句=
「『私の命令を受け入れ、そして、それに従うものが私を愛するものです。
私の父は、私を愛するすべての人を愛してくださいます。私もその人を愛し、
その人にわたし自身を啓示 (reveal)します』(14章21節)
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「イエスを愛する者」と「命令に従う者」の関係を説く教えは15節にも記録されています。

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「もし、諸君が私を愛するならば私の命令を守るでしょう」(14章15節)
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 15節では「愛する」というのが条件で、それがあれば「命令を守る」という構造になっていますが、
この21節では、「命令に従うもの」=「愛する者」とイコールで結んでいます。
ですから、15節も、結局そういうことだと解すべきでしょう。

 ここでは、イエスの教えのもう一つの柱、
「イエスの命令を受けて、それに従うもの=イエス愛する者」にもう一つ、
「イエスを啓示される者」がくっついています。

(「私の父は、私を愛するすべての人を愛してくださいます」は次回に回します)
                    


 15節の聖句は、vol.225にて考えました。ここではこの言葉は
「諸君(弟子たち)が私(イエス)に、私の名において求めるならば何であっても、私は実現するでしょう」(14節)
というイエスの言葉につながって出てきました。

 この文脈のなかで述べられていることからしまして、15節での「愛、命令への従順」は
「私(イエス)に求めたら与えられるための条件として」のニュアンスが強いです。
つまり、「私(イエス)の命令に従えば求めた者は実現してあげます」、ということですね。

 ただし、もう少し詳細に考えますと、これはイエスが殺されて復活し、
天に昇って、弟子たちに聖霊が入ってからのことになります。
「・・・でしょう」と未来形で書かれているのは、そういう意味だと思われます。
 
 今回は、その前の「最後の晩餐」におけるインストラクションですから、
まだ、この時点ではそういうことは起きないわけです。
この点、14~17章(最後の晩餐の場面)における聖句は解読が複雑なんですね。


                    

 さて21節の「イエスの命令に従い愛する者」が「イエスを啓示される者」というのはどういうことでしょうね。
まず「イエスを啓示される」について考えましょう。

今回はそれを、このところ導入した「雰囲気実体」なる概念を参加させて考えてみます。
するとこの「(イエスを)啓示する」というのは、その人の心に
イエスの雰囲気実体が生成するようにする、という風に解せそうに思えます。


                    

<命令と雰囲気実体>

 次に「イエスの命令に従う」心理も、雰囲気実体との関係で考えてみます。
少し認知心理学的に考えてみましょう。

 人には「言葉を心に受け入れるだけ」でそれに従わない、という状況もあります。
これは認識構造的にはどうなっているでしょうか。

これは「知性」だけでもって理解した状態だと思われます。
知性は、ああ、素晴らしい教えだなあ、と理解して受け入れます。


                    

<知性認識の特性>

 ところが、知性というのは特有の性格を持っている認識用具です。
それは論理的に理解できた概略だけを受け入れます。
でも相互に矛盾したところ、わからないところは
さっと捨象してしまって受け入れない、という性質を持っています。
取捨選択する。それが知性認識の特質なのです。

ところが聖句には、それ自体を直接見ますと、相矛盾するものがたくさんあります。
イエスの口から出る言葉は、旧約聖書の言葉を否定しないで語られているものです。

 その旧約聖書をも含めてイエスの言葉を見ますと、「ええっ?」というのもありますよ。
新約聖書のマタイ伝における「右の頬を打たれたら左の頬を出せ」というなどその一例です。

 イエスが否定していない旧約聖書の「出エジプト記」をみますと「目には目、歯には歯」とありますよ。
これはどうなっているんだ! 前者は無条件での許しを命じていますし、
後者は、「何かされたときには等価で返せ(復讐せよ)」と命じているではありませんか。

でも、知性はこういうややこしいところは捨象して大筋を理解しようとします。
この思考用具は、根底的に「節約」の志向をもっているのです。


                    

<感性で認識すると>

 ところが「感性」が認識活動をしますと意識は別になります。

 感性認識とは聖書用語でいうと霊感認識ですけれども、
その感性は全体をまるごとそのまま認識してしまいます。
そもそも「わからない・納得できない」というのは
知性でもって言葉に置き換えて理解することができない、ということなのです。
感性はそんなことにかかわりませんので、そのまま全体を認識してしまいます。

 イエスが何かを説明する。それは普段気づかなかったような深く広大な認識を背景にした心理です。
ああいいなあ、素晴らしいなあ・・・。目から鱗が落ちて気持ちがすっきりします。

 ところが、命令の言葉には、知性で検討してみますと実行が難しいのもありますからね。
「右の頬を打たれたら左の頬を出せ」という命令も従うのはなかなか難しい、と知性は考えますよね。

                    


 でも、そんなこと考えないで、感性でもって丸ごと受け入れてしまうとどうなるか。
このとき人の心には、先回までに述べた雰囲気実体が生成するのではないでしょうか。
この場合は、それらすべてを語っているイエスの雰囲気がそれです。

このイエスの雰囲気実体とは、それらの言葉全てを妊んだ「総体」です。
イエスの言葉には、いま述べましたように、互いに相矛盾し、対立するものも含まれています。
そして感性受容して心(霊)に生成した雰囲気実体は、それらすべてをありのままで妊んでいる総体なのです。

それが心に生成すると、その雰囲気としてのイエスは実体ですから、
あるときそれを抱いた人の心の中で自らの言葉を語るのではないでしょうか。
そして、そうなると人はあるとき自然にその言葉に動かされて行動するのではないでしょうか。

 それを外側から見ると、
イエスの言葉を命令として受け入れて行動しているという風景になるのではないでしょうか。


                    

<「愛する」も>

さらにこのイエスの雰囲気実体を心に生成させているという状態は
「イエスを愛している」状態でもあるのではないでしょうか。
私たちが我が子など誰かを愛している状態は、そういう風に、
その人の総体を雰囲気実体として心に抱いている状況ではないでしょうか。

 感性(霊感)認識をしてイエスの雰囲気実体を丸ごと心に生成させるというのが、
「命令に従う」ことも「愛する」ことも「イエスが啓示される」ことも実現してしまうことになりそうです。


                    

<信頼(信仰)とは>

 最後に余談です。 

 上記のようなことをいうと、次のような懸念がわれわれを襲いがちになります。

~でも、丸ごと受容することなどしたら危ないではないか?
 新興宗教で信徒たちが社会的犯罪を信念を持ってやったのは、
教祖の教えを丸呑みしたからではないか?

~春平太もそうだと思います。危ないです。
でも、この世において「信仰」といわれる信頼心はそういう(危険を含む)構造になっていると思います。

 キリスト教活動においても変わりありません。

 では、キリスト教活動も実際に危険か?というと、春平太はこう思っています。すなわち~

「イエスの言葉の場合にはそういう危険はないようだ」と。
ただし、それは聖句ベースでやれば、という条件付です。

危険は、聖句を離れるとやってきます。
言い換えれば、「聖句に最終的権威をおいてやれば、われわれは安心して
イエスの言葉に期待と信頼をおいて聖句吟味を続けて行かれる」と春平太は考えています。
 

                    




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