(写真はニューオーリンズの黒人教会)
今回は、次の聖句に進みましょう。

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=聖句=
「するとイスカリオテのユダでない方のユダが、いいました。
『主よ、私たちだけに御自分を現し、世のみんなに(ご自分を)啓示されないのはどうしてですか?』
イエスは答えていわれた。『私を愛さないものは、わたしの言葉を守りません。
諸君が(わたしから)聞いている(わたしの)言葉は、わたしの言葉ではありません。
私をつかわされた父の言葉です』」(14章22~5節)
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前回、「私を愛する者に私を啓示する」というイエスの言葉を考えました。
鹿嶋は、イエスの雰囲気実体という考えを使って、「イエスを啓示する」を
「イエスの雰囲気実体を諸君(弟子たち)の心のうちに生成させる」と解読しました。
今回の聖句はその続きです。

イスカリオテのユダでない方の、もう一人のユダがこう尋ねています。
「どうして、世のみんなには(ご自分を)啓示されないのですか?」(22節)
これに対してイエスは~
「私を愛さないものは、わたしの言葉を守らない(従わない)」(24節)
~と、応じています。どういうことでしょうか?
前回の解読を生かしますと、「イエスを愛さない人」というのは
「イエスの言葉を感性(霊感)でもって丸ごと受容しない人ですよね。
そしてそういう人の「心の内にはイエスの雰囲気実体が生成しない」ということになります。
これすなわち「心の内にイエスそのものが啓示されることはない」ことですよね。

それで答えになるのですが、イエスはもう一つ付け加えているのではないでしょうか。
それが「そういう人は、イエスの言葉を守らない(に従わない)」です。
実際、イエスの雰囲気実体が心に生成していなかったら、イエスの言葉を守ることは困難でしょう。

では次の~
「あなた方が聞いている(わたしの)言葉は、わたしの言葉ではありません。
私をつかわされた父の言葉です」(25節)
~との繋がりはどうでしょうか。これはすなわち~
「だから、私の言葉には信頼をおいて感性(霊感)でもって、丸ごと受容するんですよ。
安心して100%信頼していいよ。
私の語っている言葉は、この全世界を創造した(従ってすべての真理を自らの内にもっておられる)
父なる創造主の言葉なんだから」
~~と言っているのではないでしょうか。

どうも、感性(霊感)によるイエスの言葉の丸ごと受容が、根底的な鍵になっているようです。
それがイスカリオテのユダでない方の、もう一人のユダにはまだわかっていなかった。
そこでイエスは前回までにインストラクトしたことを、繰り返し語っているのですね。
もう最後(の晩餐)だから、これはどうしてもわかってくれないといけないのですから。
そこで今度は、さらなる安心が出来るように「万物の創造主の言葉だから信頼していいよ」
と懇切丁寧に付け加えているのでしょう。優しいですね。
目の前にすさまじい拷問と死が迫っていることが見えるのに、この優しさは何でしょう。

今回は、次の聖句に進みましょう。

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=聖句=

『主よ、私たちだけに御自分を現し、世のみんなに(ご自分を)啓示されないのはどうしてですか?』
イエスは答えていわれた。『私を愛さないものは、わたしの言葉を守りません。
諸君が(わたしから)聞いている(わたしの)言葉は、わたしの言葉ではありません。
私をつかわされた父の言葉です』」(14章22~5節)

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前回、「私を愛する者に私を啓示する」というイエスの言葉を考えました。
鹿嶋は、イエスの雰囲気実体という考えを使って、「イエスを啓示する」を
「イエスの雰囲気実体を諸君(弟子たち)の心のうちに生成させる」と解読しました。
今回の聖句はその続きです。

イスカリオテのユダでない方の、もう一人のユダがこう尋ねています。
「どうして、世のみんなには(ご自分を)啓示されないのですか?」(22節)
これに対してイエスは~
「私を愛さないものは、わたしの言葉を守らない(従わない)」(24節)
~と、応じています。どういうことでしょうか?
前回の解読を生かしますと、「イエスを愛さない人」というのは
「イエスの言葉を感性(霊感)でもって丸ごと受容しない人ですよね。
そしてそういう人の「心の内にはイエスの雰囲気実体が生成しない」ということになります。
これすなわち「心の内にイエスそのものが啓示されることはない」ことですよね。

それで答えになるのですが、イエスはもう一つ付け加えているのではないでしょうか。
それが「そういう人は、イエスの言葉を守らない(に従わない)」です。
実際、イエスの雰囲気実体が心に生成していなかったら、イエスの言葉を守ることは困難でしょう。

では次の~
「あなた方が聞いている(わたしの)言葉は、わたしの言葉ではありません。
私をつかわされた父の言葉です」(25節)
~との繋がりはどうでしょうか。これはすなわち~
「だから、私の言葉には信頼をおいて感性(霊感)でもって、丸ごと受容するんですよ。
安心して100%信頼していいよ。
私の語っている言葉は、この全世界を創造した(従ってすべての真理を自らの内にもっておられる)
父なる創造主の言葉なんだから」
~~と言っているのではないでしょうか。

どうも、感性(霊感)によるイエスの言葉の丸ごと受容が、根底的な鍵になっているようです。
それがイスカリオテのユダでない方の、もう一人のユダにはまだわかっていなかった。
そこでイエスは前回までにインストラクトしたことを、繰り返し語っているのですね。
もう最後(の晩餐)だから、これはどうしてもわかってくれないといけないのですから。
そこで今度は、さらなる安心が出来るように「万物の創造主の言葉だから信頼していいよ」
と懇切丁寧に付け加えているのでしょう。優しいですね。
目の前にすさまじい拷問と死が迫っていることが見えるのに、この優しさは何でしょう。
