http://promises.cool.ne.jp/Amazing_Grace_2007.html
<SG用再録1>Vol.15 『身体は言葉が変化したものだった(1章14節)』
での議論は、SGが互いの知を効率よく高めあう実例を示してくれたと思います。
鹿嶋も、知が躍動しました。
「マトリックス」の話、面白かった。
よかった・・・。
議論の終わりの方で、ISさんから次のような発言がありました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「聖書だけだと起動しない? (IS)」
2009-01-16 11:44:32
鹿嶋先生、質問ありがとうございます。
何か余計な事を書いたかとドキッとしてしまいました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
これについて、少し書いてみようと思います。
ドキッとされたのは、SGメソッドの背景にある真理観が明確でないから、と推察しました。
そして、これは大きなテーマですから、ここに別の記事をたてることにしました。
真理って何でしょうか?
認識対象(実在)に対して、人間が抱く理屈・理論・観念(聖書の解釈もその理屈の一つです)
が一致していたらその観念(アイデア)が真理になりますよね。
一致していなかったら偽になります。
SG方式、聖句主義方式では、これが最終的に正しいという聖句解釈は存在しません。
誰かが、究極に正しい解釈を握っていることもありません。
それがあるかもしれない、鹿嶋が持っているかもしれない、という意識があると、
無意識のうちにドキッとします。
そんなものはない、ということを認識論的にしっかり把握していたら、
ドキッとなどしなくなります。
聖句主義では正しい解釈、真理である解釈は、敢えて言えば、個々人がその時点時点で、
「そうだ!」と思ったものとなります。
各々それをグループでの吟味を通して、豊かにしていけばいい。
他者の見解の助けで豊かになったら、それがその人のまた新しい真理になります。
SG方式では、「真理は成長していくもの」なのです。
この一見、いい加減で、無政府主義的に見える認識論を以下に述べてみようと思います。
もちろん、これに関するgroupの皆様の吟味は自由です。
++++
SG(スモールグループ)方式は、聖句主義と表裏をなしています。
聖句を自由に吟味する方式を採ると、SG方式が自然に浮かび上がってくるのです。
その最も効率的な吟味方式だからです。
ですから両者は実際上、同じものだとみていいでしょう。
<盲人が象を撫でる喩え>
聖句主義方式は、独特の真理観を持っています。
聖書のメッセージは膨大な内容を持っています。
この中にある筋道を人間が探求する姿はどう見えるでしょうか。
盲目の人が三人、象を撫でてその姿を推察する話がありますよね。
一人は鼻を撫でて、「ああ、象はホースのようなもんだなあ」と思う。
二人目はしっぽに触って、「紐のようなものだ」と、三人目は脚を撫でて
「太い木のようなものだ」と言ったという話です。
これを用いて聖句から聖書に込められている世界の、
全体の筋道を知ろう状況をイメージすると、こんな風になるかと思います。
一人が鼻だけでなく、尾っぽと脚にも触れてみる状況です。
彼はそれらを手がかりに、象というものの全体の姿を推察します。
これが聖書の言葉を手がかりに、そこに込められている世界の
全体的筋道をつかもうとする人間の姿です。
三カ所に触れたにしても、認識がそれからする推察であることには変わりありません。
これがせいぜい100年しか生きられない人間が、聖書の世界に関してする認識の姿です。
世界の全部に直接接触するのはどだい無理な話です。
われわれは聖書を、そういう状態で解読しているわけです。
<聖書メッセージは無尽蔵>
聖書の描く世界を象に喩えました。
だがこれには、たとえとして少し不十分なところがあります。
盲目の人にとって、象はとてつもなく巨大な認識対象ですが、それでもその大きさは有限です。
この有限なところが、喩えの対象として不完全なのです。
聖書のメッセージ内容はより正確には、「無尽蔵」といった方がいいと思います。
そこでの「世界の物語」は、無限の空間と無限の時間を舞台にしています。
目に見える物質界だけでなく、見えない霊界も舞台です。
存在するものだけでなく、それを一から創造した創造主も登場します。
もちろん、そのひとり子もまた、聖霊も登場します。
こうして織りなされる世界の物語の内容は、文字通りの無尽蔵と言うべきでしょう。
もちろん、そうした世界にも、それを創った創造主には設計図があるでしょう。
それが聖書の正しい解釈に当たるでしょう。
それは存在すると「信じて」いい。
けれども、その言葉(聖句)を解釈するのが人間となると、注意が必要です。
そういう世界に対して、有限な人間が推察するパースペクティブ(全体透視図)の正しさ、
妥当性には限度があります。
つまり、人間の行う解釈には、これが究極というものはありそうにないのです。
これが基本です。
実際、春平太の「ヨハネ伝解読」もそうです。
解読した時点では「これだ、これが正解だ」と思います。
そして、ここに連載します。
ところが時間がたって眺めてみると、別の解読も浮上してくるのです。
聖書はホントに無尽蔵な内容を秘めていると実感します。
<各時点での確信が各々真理>
では、人間はどうしたらいいのか?
「究極的に確かな解読は人間にはない」などと悟っていたら、信仰(信頼)はどうなるのか?
信頼などできないではないか。
われわれは即座にはそう思うでしょう。
でも、こういう方法は出てきます。
個々人、ひとりひとりが、その時点で「これはまこと(真理)だ」と思った解釈でもって、
それを信頼して進むという方法です。
そんなことできるか?
できるのです。
実際、われわれ人間はそうやって生きているのです。
人間は、「生きて行動して人生を進みつつある」存在です。
英語ではこれをゴーイングコンサーン(going concern:活動態)といいます。
活動態は生きて進むその時点ごとで「まことだ」と思ったことを真理として生きているのです。
有限な人間にとってこれ以上の真理が、実際上あるでしょうか?
真理というのは、生きるわれわれにとって、動態的なものです。
真理に向かって進む、そのプロセスの各段階の知識が各々真理です。
<絶対的真理>
もちろんそうでない真理観もあります。
なにか認識対象があって、それに絶対的に当てはまると認識できる理論(解釈)があって、
それを絶対的な真理だとするものです。
そういう絶対的真理は永遠不変で動きません。
静態的です。
そういうものが見つかれば結構なことでしょう。
だが、認識対象が無尽蔵な存在であって、認識者が有限な人間となれば、
そういう認識が可能というのは矛盾になるのです。
<独断度を低めるには>
個々人がその時点時点で真理だとする真理は独断ではないか?
その通りに思います。
そういう真理は、独断を含んでいるのです。
独断の要素は完全にはなくなりません。
無くなりはしませんが、その独断の度合いを少なくしていく方法はあります。
その最も効率的な技術がスモールグループメソッドです。
「使徒行伝」時代の、初代教会から今日の聖句主義者につらなる人々が
それを身を以て示してくれました。
イエスの弟子である使徒たちに驚くべき「しるし」が現れました。
それをみた人々は、「この教えには真理がある」と参集しました。
エルサレムだけで、一日に3000人が加わった日もあるといいます。
エルサレム教会の人数は、5万人くらいにはなったと推定されます。
これを指導する人の数は少なかった。
長老と呼ばれた使徒たちが12人、執事がまた12人くらいだったのでしょうか。
その他、イエスと使徒を取り巻いた人たちが70人くらいいたと思われますが、
5万人に比べたら少いものです。
彼らは、新たに参集する信徒たちを、小グループに分け各家庭にて勉強、礼拝をさせたと考えていい。
各々のグループにリーダーをたてた。
そのリーダーたちがまた自主的に連携して全体の連絡網を形成したでしょう。
素材は第一には旧約聖書、そして伝えられる使徒や執事たちの話のメモだったのではないでしょうか。
それらの言葉がどういう意味を持っているか、どう解釈したらいいか、吟味した。
吟味の過程で、一つ一つ「そうだ!」と合意できることがSGに出来ていった。
SGでの合意によって、個々人の独断の度合いは低くなっていったでしょう。
<書物への「深い信頼」はある>
絶対的な解釈がないと「これこそ信頼できる」という心理になれないのではないか?
という疑問もわれわれの内に生じます。
それに対する聖句主義の答えは、「信頼は解釈にではなく、聖書(聖句)に対してある」
ではないかと思われます。
SG方式では「聖書という書物のなかに真理がある」という深い確信があるのです。
もちろん、人間には絶対の解釈には至れませんから、探求はするならば無限に続くものになります。
そうであるにも拘わらず、SGでの吟味を続けられるという心理はどうなっているか。
「真理はこの書物の中にある」という信頼があるのです。
それがなかったら、あるいは希薄だったら、吟味活動は実際のところ続かないのです。
だって、やってもやっても究極の解釈はでないのですよ。
探求する素材に対する信頼・確信がなかったら途中でばかばかしくなること必定です。
<教理主義との対比>
聖句主義は教理主義と対比させると、さらにその性格がはっきりしてきます。
教理主義では、教団のエリートが出した結論としての解釈を、究極のもの、正統なものとします。
信徒は、ここに信頼を置きます。
聖句主義者は、そういうものを持たないでやります。
それでもって教会活動してる。
外部からはそれは、一見いい加減で信仰がないように見えます。
だが、SG方式は別のところに、深い信頼を置くものをもっています。
聖書(聖句)それ自体がそれです。
教理主義と究極の信頼を置く焦点が違うだけです。
<SG用再録1>Vol.15 『身体は言葉が変化したものだった(1章14節)』
での議論は、SGが互いの知を効率よく高めあう実例を示してくれたと思います。
鹿嶋も、知が躍動しました。
「マトリックス」の話、面白かった。
よかった・・・。
議論の終わりの方で、ISさんから次のような発言がありました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「聖書だけだと起動しない? (IS)」
2009-01-16 11:44:32
鹿嶋先生、質問ありがとうございます。
何か余計な事を書いたかとドキッとしてしまいました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
これについて、少し書いてみようと思います。
ドキッとされたのは、SGメソッドの背景にある真理観が明確でないから、と推察しました。
そして、これは大きなテーマですから、ここに別の記事をたてることにしました。
真理って何でしょうか?
認識対象(実在)に対して、人間が抱く理屈・理論・観念(聖書の解釈もその理屈の一つです)
が一致していたらその観念(アイデア)が真理になりますよね。
一致していなかったら偽になります。
SG方式、聖句主義方式では、これが最終的に正しいという聖句解釈は存在しません。
誰かが、究極に正しい解釈を握っていることもありません。
それがあるかもしれない、鹿嶋が持っているかもしれない、という意識があると、
無意識のうちにドキッとします。
そんなものはない、ということを認識論的にしっかり把握していたら、
ドキッとなどしなくなります。
聖句主義では正しい解釈、真理である解釈は、敢えて言えば、個々人がその時点時点で、
「そうだ!」と思ったものとなります。
各々それをグループでの吟味を通して、豊かにしていけばいい。
他者の見解の助けで豊かになったら、それがその人のまた新しい真理になります。
SG方式では、「真理は成長していくもの」なのです。
この一見、いい加減で、無政府主義的に見える認識論を以下に述べてみようと思います。
もちろん、これに関するgroupの皆様の吟味は自由です。
++++
SG(スモールグループ)方式は、聖句主義と表裏をなしています。
聖句を自由に吟味する方式を採ると、SG方式が自然に浮かび上がってくるのです。
その最も効率的な吟味方式だからです。
ですから両者は実際上、同じものだとみていいでしょう。
<盲人が象を撫でる喩え>
聖句主義方式は、独特の真理観を持っています。
聖書のメッセージは膨大な内容を持っています。
この中にある筋道を人間が探求する姿はどう見えるでしょうか。
盲目の人が三人、象を撫でてその姿を推察する話がありますよね。
一人は鼻を撫でて、「ああ、象はホースのようなもんだなあ」と思う。
二人目はしっぽに触って、「紐のようなものだ」と、三人目は脚を撫でて
「太い木のようなものだ」と言ったという話です。
これを用いて聖句から聖書に込められている世界の、
全体の筋道を知ろう状況をイメージすると、こんな風になるかと思います。
一人が鼻だけでなく、尾っぽと脚にも触れてみる状況です。
彼はそれらを手がかりに、象というものの全体の姿を推察します。
これが聖書の言葉を手がかりに、そこに込められている世界の
全体的筋道をつかもうとする人間の姿です。
三カ所に触れたにしても、認識がそれからする推察であることには変わりありません。
これがせいぜい100年しか生きられない人間が、聖書の世界に関してする認識の姿です。
世界の全部に直接接触するのはどだい無理な話です。
われわれは聖書を、そういう状態で解読しているわけです。
<聖書メッセージは無尽蔵>
聖書の描く世界を象に喩えました。
だがこれには、たとえとして少し不十分なところがあります。
盲目の人にとって、象はとてつもなく巨大な認識対象ですが、それでもその大きさは有限です。
この有限なところが、喩えの対象として不完全なのです。
聖書のメッセージ内容はより正確には、「無尽蔵」といった方がいいと思います。
そこでの「世界の物語」は、無限の空間と無限の時間を舞台にしています。
目に見える物質界だけでなく、見えない霊界も舞台です。
存在するものだけでなく、それを一から創造した創造主も登場します。
もちろん、そのひとり子もまた、聖霊も登場します。
こうして織りなされる世界の物語の内容は、文字通りの無尽蔵と言うべきでしょう。
もちろん、そうした世界にも、それを創った創造主には設計図があるでしょう。
それが聖書の正しい解釈に当たるでしょう。
それは存在すると「信じて」いい。
けれども、その言葉(聖句)を解釈するのが人間となると、注意が必要です。
そういう世界に対して、有限な人間が推察するパースペクティブ(全体透視図)の正しさ、
妥当性には限度があります。
つまり、人間の行う解釈には、これが究極というものはありそうにないのです。
これが基本です。
実際、春平太の「ヨハネ伝解読」もそうです。
解読した時点では「これだ、これが正解だ」と思います。
そして、ここに連載します。
ところが時間がたって眺めてみると、別の解読も浮上してくるのです。
聖書はホントに無尽蔵な内容を秘めていると実感します。
<各時点での確信が各々真理>
では、人間はどうしたらいいのか?
「究極的に確かな解読は人間にはない」などと悟っていたら、信仰(信頼)はどうなるのか?
信頼などできないではないか。
われわれは即座にはそう思うでしょう。
でも、こういう方法は出てきます。
個々人、ひとりひとりが、その時点で「これはまこと(真理)だ」と思った解釈でもって、
それを信頼して進むという方法です。
そんなことできるか?
できるのです。
実際、われわれ人間はそうやって生きているのです。
人間は、「生きて行動して人生を進みつつある」存在です。
英語ではこれをゴーイングコンサーン(going concern:活動態)といいます。
活動態は生きて進むその時点ごとで「まことだ」と思ったことを真理として生きているのです。
有限な人間にとってこれ以上の真理が、実際上あるでしょうか?
真理というのは、生きるわれわれにとって、動態的なものです。
真理に向かって進む、そのプロセスの各段階の知識が各々真理です。
<絶対的真理>
もちろんそうでない真理観もあります。
なにか認識対象があって、それに絶対的に当てはまると認識できる理論(解釈)があって、
それを絶対的な真理だとするものです。
そういう絶対的真理は永遠不変で動きません。
静態的です。
そういうものが見つかれば結構なことでしょう。
だが、認識対象が無尽蔵な存在であって、認識者が有限な人間となれば、
そういう認識が可能というのは矛盾になるのです。
<独断度を低めるには>
個々人がその時点時点で真理だとする真理は独断ではないか?
その通りに思います。
そういう真理は、独断を含んでいるのです。
独断の要素は完全にはなくなりません。
無くなりはしませんが、その独断の度合いを少なくしていく方法はあります。
その最も効率的な技術がスモールグループメソッドです。
「使徒行伝」時代の、初代教会から今日の聖句主義者につらなる人々が
それを身を以て示してくれました。
イエスの弟子である使徒たちに驚くべき「しるし」が現れました。
それをみた人々は、「この教えには真理がある」と参集しました。
エルサレムだけで、一日に3000人が加わった日もあるといいます。
エルサレム教会の人数は、5万人くらいにはなったと推定されます。
これを指導する人の数は少なかった。
長老と呼ばれた使徒たちが12人、執事がまた12人くらいだったのでしょうか。
その他、イエスと使徒を取り巻いた人たちが70人くらいいたと思われますが、
5万人に比べたら少いものです。
彼らは、新たに参集する信徒たちを、小グループに分け各家庭にて勉強、礼拝をさせたと考えていい。
各々のグループにリーダーをたてた。
そのリーダーたちがまた自主的に連携して全体の連絡網を形成したでしょう。
素材は第一には旧約聖書、そして伝えられる使徒や執事たちの話のメモだったのではないでしょうか。
それらの言葉がどういう意味を持っているか、どう解釈したらいいか、吟味した。
吟味の過程で、一つ一つ「そうだ!」と合意できることがSGに出来ていった。
SGでの合意によって、個々人の独断の度合いは低くなっていったでしょう。
<書物への「深い信頼」はある>
絶対的な解釈がないと「これこそ信頼できる」という心理になれないのではないか?
という疑問もわれわれの内に生じます。
それに対する聖句主義の答えは、「信頼は解釈にではなく、聖書(聖句)に対してある」
ではないかと思われます。
SG方式では「聖書という書物のなかに真理がある」という深い確信があるのです。
もちろん、人間には絶対の解釈には至れませんから、探求はするならば無限に続くものになります。
そうであるにも拘わらず、SGでの吟味を続けられるという心理はどうなっているか。
「真理はこの書物の中にある」という信頼があるのです。
それがなかったら、あるいは希薄だったら、吟味活動は実際のところ続かないのです。
だって、やってもやっても究極の解釈はでないのですよ。
探求する素材に対する信頼・確信がなかったら途中でばかばかしくなること必定です。
<教理主義との対比>
聖句主義は教理主義と対比させると、さらにその性格がはっきりしてきます。
教理主義では、教団のエリートが出した結論としての解釈を、究極のもの、正統なものとします。
信徒は、ここに信頼を置きます。
聖句主義者は、そういうものを持たないでやります。
それでもって教会活動してる。
外部からはそれは、一見いい加減で信仰がないように見えます。
だが、SG方式は別のところに、深い信頼を置くものをもっています。
聖書(聖句)それ自体がそれです。
教理主義と究極の信頼を置く焦点が違うだけです。