十字架死を直前にした、イエスはこれまで述べなかった奥義を次々に遺言いたします。
今回は15章11節です。
BGMはmariさんのこれです。
http://aiai.hukinotou.com/
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春平太チャーチを開くとBGMのある状態で読むことが出来ます)
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=聖句=

こうして諸君の喜びが完全なものになるためだよ。」

(ヨハネによる福音書、15章11節)
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これは、人間の心の内にある悦びに関して述べた奥義です。
イエスはここで、完全な喜びはどうしたら得られるかを説き明かしています。
聖句の言葉を追いましょう。
まず、「私(イエス)が話したこれらのこと」とは前回話したことです。
それは「イエスの言葉を命令として受けて従いなさい」でした。
今回のポイントは、「そうするとイエスの喜びが諸君のうちにも宿るよ。それは完全な喜びだよ」です。
これには二つの理解が要ります。まず、イエスの喜びが完全な喜びであることの理解です。
ここには父なる創造主の内にある喜びが、完全な喜びであるという思想が背景にあります。
創造主は意識のベースが喜びそのものな幸福な方である。
またその完全な喜び、幸福を被造物たる人間に与えよう、与えようともしておられる方でもある。
~これは聖書の根底にある思想です。
これがなかったら、聖書の論理構造は成り立ちません。
もう一つは、創主のその喜びそれがイエスの内にも宿るようになっていることの理解です。
なぜか?
それはイエスが創主の命令に従っているから、となります。
一般に命令として言葉を受けて、それに従えば、思いも行動も命令者と同質・同じになります。
すると両者の間に同一化、同化が起こります。
行動のみならず精神的・霊的にも同一化が起きます。

イエスが命令に従っているのは父なる創造主に対してです。
こうして精神的に創造主と同一化すれば、その方のうちにある完全なる喜び、幸福にも同一化できます。
「乗り移る」という言葉がありますが、その言い方を使うと、創造主の完全な喜びも乗り移ってくるのです。
かくして、イエスのうちには創主の完全な喜びが存在している、という道理になります。
弟子の内に完全な喜びが宿る論理も、これと同じようにして理解できます。
弟子たちがイエスの言葉を命令として受けて、すべてに従います。
そうすれが彼らはイエスと同一化して、そのイエスの内にある喜びにも同一化できます。
でそのイエスの喜びは、創主からイエスのうちに移入してきている完全なよろこびです。
だから弟子たちのうちに「完全な喜び」が宿るよという道理になる。
今回の聖句は、それを述べたイエスの教えです。

イエスの言葉を、お話として理解しているだけではそれは起きません。
人は命令として受けないと、理解できないところには従うことができないのです。
ということは、同一化していないことですから、イエスが創主から得ている
「創主の完全な喜び」も弟子の内に宿ることは生じない道理になる。

なんと論理的な教えでしょうか。春平太は驚嘆します。
そして、その法則は現実に実現しました。
イエス信仰者への迫害が激化したとき、彼らの多くは拷問を受け殺されれました。
競技場で観衆の見ている前で、ライオンに生きたまま食い殺された者もいました。
ところがその状況でも、彼らの顔には悦びが溢れていました。
肉体が食い割かれる恐怖を、「完全な悦び」が優越したのでした。
