イエスの遺言は続きます。
BGMは今回もmariさんのこれです。
http://aiai.hukinotou.com/
(クリックして最小化し、もう一つエクスプローラ画面を開いて
春平太チャーチを開くとBGMのある状態で読むことが出来ます)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cherry_red.gif)
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=聖句=
「さてこれは私の命令だよ。私が諸君を愛してきたと全く同じように、
諸君は互いに愛し合いなさい」(15章12節)![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kirakira.gif)
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cherry_blue.gif)
これまでにイエスは弟子たちに
「諸君がわたしの命令を守れば、私の愛の中に(しっかり)とどまることができる」(15章10節)といい、
「そうすればイエスの喜びが弟子たちの内にも(しっかり)と宿る」(15章11節)といいました。
それを踏まえて、イエスは具体的な命令を与える、それが今回の聖句です。
イエスは「自分がこれまで愛してきたのと、全く同じように諸君も互いに愛し合いなさい」と言っています。
「イエスが愛してきたと同じように」とはどういうことでしょうか?
そこには愛にも「天の愛、と、世の愛」とがあるという思想が背景になっています。
そして、イエスがそれまで弟子たちに注いできた愛は「天の愛」だということを意味しています。
イエスの愛は、天の愛、創造主の愛なのです。
イエスは父なる創主の命令を守ることによって、創主の愛を自らにも持つようになっているのです。
その愛は、この世の人間が産まれながらに持つ愛とは違います。
人間生来の愛は「世の愛」であって、
それは例えば相手が愛でもって応えてくれることを期待するものです。
その愛は、応えてくれないとわかり、もう応えられる期待はできないとなると、出てこなくなります。
それ故、世の人間は敵を愛することは出来ません。
敵は愛しても愛でもって応えてはくれませんから、世の愛の感情は流出してこないのです。
ところが、天の愛、創主の愛は、一方的に与えるだけの愛です。
これをアガペの愛ということもあります。英語ではグレース(grace)といっています。
その愛は、敵に対してさえも流出してくる愛です。
それがイエスの内から流出してきたので、
彼は自分を十字架にかけて、侮蔑の言葉を投げかけている人間に対しても
「父よ彼らを許してください。彼らは自分が何をしているかわからないでしているのです」
と祈ることが出来たわけです。
イエスが「私が諸君を愛してきたように愛し合いなさい」という時の愛は、そういう愛であります。
そういう「天の愛」で弟子たちが互いに愛し合うことを求めています。
そんなこと弟子たちに可能でしょうか?
そんな愛が、弟子たちの心の内に生じるでしょうか?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyoko_thunder.gif)
それはイエスの命令を守れば生じることになります。
イエスは「諸君がわたしの命令を守れば・・・・・私の喜びが弟子たちの内にも(しっかりと)宿る」
(15章10~11節)といっていましたよね。
同じように、命令を守れば、イエスに同化した弟子たちの内には、イエスの愛も流れ込んでくるはずです。
イエスが父なる創主の命令を守ることによって、
創主の内の「天の愛」がイエスの内にも存在するようになっていると同じように、
弟子たちにも存在するようになる道理です。
そうなれば弟子たちは、もうイエスが彼らに注いだ天の愛で、
互いに愛することが出来るようになります。
今回の聖句は、イエスの命令を守って、そういう能力が
弟子たちの心の内に形成されることを踏まえてのものです。
それを踏まえて、
イエスは彼らに「自分が諸君を愛してきたように(天の愛で)愛し合え」といっている。
そして、命令を守れば、弟子たちはこういう愛で愛し合うことが出来るのだから、
「これは命令だよ」と言うことになるのですね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/usagi.gif)
これは一つの奥義だと思われます。
ヨハネは、信徒に対する手紙でもその奥義を伝えています。
「・・・創主の命令とは、御子イエスの名を信じることと、
我々が互いに愛し合うことです」(ヨハネの第一の手紙、3章23節)
~がそれです。
いうまでもありませんが、彼はここで「自分たちが(天の愛で)互いに愛し合う」のは、
奨励ではなく「創主の命令」だと伝えています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cocktail2.gif)
BGMは今回もmariさんのこれです。
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(クリックして最小化し、もう一つエクスプローラ画面を開いて
春平太チャーチを開くとBGMのある状態で読むことが出来ます)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cherry_red.gif)
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=聖句=
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kirakira.gif)
諸君は互いに愛し合いなさい」(15章12節)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kirakira.gif)
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cherry_blue.gif)
これまでにイエスは弟子たちに
「諸君がわたしの命令を守れば、私の愛の中に(しっかり)とどまることができる」(15章10節)といい、
「そうすればイエスの喜びが弟子たちの内にも(しっかり)と宿る」(15章11節)といいました。
それを踏まえて、イエスは具体的な命令を与える、それが今回の聖句です。
イエスは「自分がこれまで愛してきたのと、全く同じように諸君も互いに愛し合いなさい」と言っています。
「イエスが愛してきたと同じように」とはどういうことでしょうか?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/nezumi.gif)
そこには愛にも「天の愛、と、世の愛」とがあるという思想が背景になっています。
そして、イエスがそれまで弟子たちに注いできた愛は「天の愛」だということを意味しています。
イエスの愛は、天の愛、創造主の愛なのです。
イエスは父なる創主の命令を守ることによって、創主の愛を自らにも持つようになっているのです。
その愛は、この世の人間が産まれながらに持つ愛とは違います。
人間生来の愛は「世の愛」であって、
それは例えば相手が愛でもって応えてくれることを期待するものです。
その愛は、応えてくれないとわかり、もう応えられる期待はできないとなると、出てこなくなります。
それ故、世の人間は敵を愛することは出来ません。
敵は愛しても愛でもって応えてはくれませんから、世の愛の感情は流出してこないのです。
ところが、天の愛、創主の愛は、一方的に与えるだけの愛です。
これをアガペの愛ということもあります。英語ではグレース(grace)といっています。
その愛は、敵に対してさえも流出してくる愛です。
それがイエスの内から流出してきたので、
彼は自分を十字架にかけて、侮蔑の言葉を投げかけている人間に対しても
「父よ彼らを許してください。彼らは自分が何をしているかわからないでしているのです」
と祈ることが出来たわけです。
イエスが「私が諸君を愛してきたように愛し合いなさい」という時の愛は、そういう愛であります。
そういう「天の愛」で弟子たちが互いに愛し合うことを求めています。
そんなこと弟子たちに可能でしょうか?
そんな愛が、弟子たちの心の内に生じるでしょうか?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyoko_thunder.gif)
それはイエスの命令を守れば生じることになります。
イエスは「諸君がわたしの命令を守れば・・・・・私の喜びが弟子たちの内にも(しっかりと)宿る」
(15章10~11節)といっていましたよね。
同じように、命令を守れば、イエスに同化した弟子たちの内には、イエスの愛も流れ込んでくるはずです。
イエスが父なる創主の命令を守ることによって、
創主の内の「天の愛」がイエスの内にも存在するようになっていると同じように、
弟子たちにも存在するようになる道理です。
そうなれば弟子たちは、もうイエスが彼らに注いだ天の愛で、
互いに愛することが出来るようになります。
今回の聖句は、イエスの命令を守って、そういう能力が
弟子たちの心の内に形成されることを踏まえてのものです。
それを踏まえて、
イエスは彼らに「自分が諸君を愛してきたように(天の愛で)愛し合え」といっている。
そして、命令を守れば、弟子たちはこういう愛で愛し合うことが出来るのだから、
「これは命令だよ」と言うことになるのですね。
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これは一つの奥義だと思われます。
ヨハネは、信徒に対する手紙でもその奥義を伝えています。
「・・・創主の命令とは、御子イエスの名を信じることと、
我々が互いに愛し合うことです」(ヨハネの第一の手紙、3章23節)
~がそれです。
いうまでもありませんが、彼はここで「自分たちが(天の愛で)互いに愛し合う」のは、
奨励ではなく「創主の命令」だと伝えています。
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