イエスが独り語り続ける場面はまだ続きますが、15章ではこれが最後です。
長かったですが、この世でのことははじめがありそして終わりがある。
人生かくのごとしでしょうか。
BGMは今回もmariさんのこれを感謝して使わせていただきます。
http://aiai.hukinotou.com/
(クリックして最小化し、もう一つエクスプローラ画面を開いて
春平太チャーチを開くとBGMのある状態で読むことが出来ます)
今回の聖句は短いです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「(聖霊だけでなく)諸君もあかしをするんだよ。始めから私と一緒にいたからね」
(15章27節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「始めから」というのはイエスが宣教を始めた時から、という意味です。
イエスが「時がきた」として宣教を始めてから、十字架刑で殺されるまでの期間を
イエスの公生涯といいます。
12弟子はその最初から最後までイエスと共にいた人々なのです。
前節で、イエスは「聖霊を送る、その聖霊はわたしを証拠する」といいましたね。
ここでは、弟子たち「も」それをせよ、といっています。
その理由が「始めから私と一緒にいたからだ」という。
どうしてそんなことをいうのでしょうか?
<あかしは証言>
ここでイエスが言う「あかし」は、一つには証言ということです。
彼らは、イエスの教えを宣教しますが、そのとき、
「イエスはこのような教えをされ、このような奇蹟を現されたのだよ」
「私たち、その活動の最初からイエスと一緒にいたからこの目で見ているのだよ」
と証言できる人でして、イエスはそれをせよといっています。
<もうひとつの証し>
だが実際には将来、「もうひとつの証言」を弟子たちは(結果的に)することになります。
しるし(奇蹟)を現すことがそれです。
なぜなら、イエスは弟子たちが宣教する際には、
「聖霊を送る、そしてその聖霊は自分を証拠する」と約束していましたよね。
弟子たちがイエスについて証言するのも、宣教の一環です。
ですから、弟子たちのあかしには癒しを始めとする奇蹟は伴う道理になる。
実際、後にそうなった様が、この「ヨハネ伝」の後に収録されている
『使徒行伝』という書物に記録されています。
<「諸君もするんだよ」とだけいう>
もう一つの注意点。
実は、「諸君(弟子たち)も証言するんだよ」どころか、
聖霊が働くのは弟子たちが宣教することが条件です。
イエスは聖霊を「助け手」として送るというのですから。
聖霊が弟子たちの働きを超えて、自分単独でやってしまう、ということはないのです。
もちろん、天使が力づくで証拠してしまうこともありません。
ならば、「(前節で述べた)聖霊が奇跡を起こすのは、諸君が証言するのが条件だよ」
とはっきり言えばいいのに・・・。
でも、イエスはそれまでは言いません。
この時点では、まだ、そういう事態は起きていませんので、
弟子たちの心にはそこまでいってもリアリティ(実在感)が伴わないのです。
その状態でイエスは(前節で)「聖霊を送るよ、この方はあかしの御霊だよ」とはいっている。
この時点でそういわれると、弟子たちは、どうしても
「そうか、我々はもう手放しでいてやってもらえるんだ」と思いがちになるでしょう。
それでは困る。
だから「諸君も証言するんだよ」とまでは言っておこう、というのが今回の聖句です。
驚くべき配慮。この適確な状況把握には驚嘆させられます。
長かったですが、この世でのことははじめがありそして終わりがある。
人生かくのごとしでしょうか。
BGMは今回もmariさんのこれを感謝して使わせていただきます。
http://aiai.hukinotou.com/
(クリックして最小化し、もう一つエクスプローラ画面を開いて
春平太チャーチを開くとBGMのある状態で読むことが出来ます)
今回の聖句は短いです。
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=聖句=
「(聖霊だけでなく)諸君もあかしをするんだよ。始めから私と一緒にいたからね」
(15章27節)
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「始めから」というのはイエスが宣教を始めた時から、という意味です。
イエスが「時がきた」として宣教を始めてから、十字架刑で殺されるまでの期間を
イエスの公生涯といいます。
12弟子はその最初から最後までイエスと共にいた人々なのです。
前節で、イエスは「聖霊を送る、その聖霊はわたしを証拠する」といいましたね。
ここでは、弟子たち「も」それをせよ、といっています。
その理由が「始めから私と一緒にいたからだ」という。
どうしてそんなことをいうのでしょうか?
<あかしは証言>
ここでイエスが言う「あかし」は、一つには証言ということです。
彼らは、イエスの教えを宣教しますが、そのとき、
「イエスはこのような教えをされ、このような奇蹟を現されたのだよ」
「私たち、その活動の最初からイエスと一緒にいたからこの目で見ているのだよ」
と証言できる人でして、イエスはそれをせよといっています。
<もうひとつの証し>
だが実際には将来、「もうひとつの証言」を弟子たちは(結果的に)することになります。
しるし(奇蹟)を現すことがそれです。
なぜなら、イエスは弟子たちが宣教する際には、
「聖霊を送る、そしてその聖霊は自分を証拠する」と約束していましたよね。
弟子たちがイエスについて証言するのも、宣教の一環です。
ですから、弟子たちのあかしには癒しを始めとする奇蹟は伴う道理になる。
実際、後にそうなった様が、この「ヨハネ伝」の後に収録されている
『使徒行伝』という書物に記録されています。
<「諸君もするんだよ」とだけいう>
もう一つの注意点。
実は、「諸君(弟子たち)も証言するんだよ」どころか、
聖霊が働くのは弟子たちが宣教することが条件です。
イエスは聖霊を「助け手」として送るというのですから。
聖霊が弟子たちの働きを超えて、自分単独でやってしまう、ということはないのです。
もちろん、天使が力づくで証拠してしまうこともありません。
ならば、「(前節で述べた)聖霊が奇跡を起こすのは、諸君が証言するのが条件だよ」
とはっきり言えばいいのに・・・。
でも、イエスはそれまでは言いません。
この時点では、まだ、そういう事態は起きていませんので、
弟子たちの心にはそこまでいってもリアリティ(実在感)が伴わないのです。
その状態でイエスは(前節で)「聖霊を送るよ、この方はあかしの御霊だよ」とはいっている。
この時点でそういわれると、弟子たちは、どうしても
「そうか、我々はもう手放しでいてやってもらえるんだ」と思いがちになるでしょう。
それでは困る。
だから「諸君も証言するんだよ」とまでは言っておこう、というのが今回の聖句です。
驚くべき配慮。この適確な状況把握には驚嘆させられます。