「ヨハネ伝解読」これから16章に入ります。
今回の聖句はこれです。
BGMは相変わらずmariさんのこれを感謝して使わせていただきます。
( 今流れている賛美曲、春平太の好きな一つです)
http://aiai.hukinotou.com/
(クリックして最小化し、もう一つエクスプローラ画面を開いて
春平太チャーチを開くとBGMのある状態で読むことが出来ます)
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=聖句=
「私がこれらのことを語ったのは、諸君がつまずかないようにするためためだよ」(16章1節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「つまずく」というのは、聖所特有の用語で、「信頼を放棄してしまう」という意味です。
回心してイエスの言葉を信頼するようになった。それがまた、逆回心してしまう状態を言っています。
「これらのこと」とはイエスが14,15章で述べたことです。
それらのことには、この時点では奇想天外としか弟子たちにも思いようがない話が含まれています。
世の人々が、弟子たちを「理屈抜きに」憎んでくる、という。
「ホントかいな?」 こういう事態は、その場に遭遇しないことにはわからないでしょう。
さらに後になって起こることもそうです。
聖霊が下って弟子たちの口から自分でも聞いたことのないような言葉がほとばしり出る。
この様など、その場になってみないとわからない。前もってイメージせよというのは無理な話です。
<理解不可 → 信頼崩壊>
人間には、従来の体験と大きくかけ離れた事態を理解することは、少なくともとっさにはできません。
その結果混乱し、いわゆるパニックに自然に陥ります。
するともう、途方に暮れ、これまでのこともなにもかも信じられなくなる。
この時点までにイエスから教わったことへの信頼をも保てなくなります。
だがそれに一応の理解ができると、そういう事態は回避できるのです。
新事態が自分の思考枠に収められると、
それが自分のこれまでの経験、知識と関連づけられて、混乱しなくなる。
人間の心理はそういうふうに出来ています。
<仮説として聞いておけ>
イエスがここで言っているのは、弟子にとってはこれから起きることへの「仮説」です。
弟子たちはまだ体験していないから仮説以上のものにはなりえません。
けれどもイエスは仮説にしかならないことをわかっていて述べているのです。
現に事態が生じたときに、理解が出来なくて、混乱し、イエスと創主への信頼すら失ってしまうことがないために。
仮説としてでいいから耳に留めておくのだよ。イエスはここでそう言っている。
これも考えてみると、人類史にまれな凄い場面ではないでしょうか。
今回の聖句はこれです。
BGMは相変わらずmariさんのこれを感謝して使わせていただきます。
( 今流れている賛美曲、春平太の好きな一つです)
http://aiai.hukinotou.com/
(クリックして最小化し、もう一つエクスプローラ画面を開いて
春平太チャーチを開くとBGMのある状態で読むことが出来ます)
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=聖句=
「私がこれらのことを語ったのは、諸君がつまずかないようにするためためだよ」(16章1節)
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「つまずく」というのは、聖所特有の用語で、「信頼を放棄してしまう」という意味です。
回心してイエスの言葉を信頼するようになった。それがまた、逆回心してしまう状態を言っています。
「これらのこと」とはイエスが14,15章で述べたことです。
それらのことには、この時点では奇想天外としか弟子たちにも思いようがない話が含まれています。
世の人々が、弟子たちを「理屈抜きに」憎んでくる、という。
「ホントかいな?」 こういう事態は、その場に遭遇しないことにはわからないでしょう。
さらに後になって起こることもそうです。
聖霊が下って弟子たちの口から自分でも聞いたことのないような言葉がほとばしり出る。
この様など、その場になってみないとわからない。前もってイメージせよというのは無理な話です。
<理解不可 → 信頼崩壊>
人間には、従来の体験と大きくかけ離れた事態を理解することは、少なくともとっさにはできません。
その結果混乱し、いわゆるパニックに自然に陥ります。
するともう、途方に暮れ、これまでのこともなにもかも信じられなくなる。
この時点までにイエスから教わったことへの信頼をも保てなくなります。
だがそれに一応の理解ができると、そういう事態は回避できるのです。
新事態が自分の思考枠に収められると、
それが自分のこれまでの経験、知識と関連づけられて、混乱しなくなる。
人間の心理はそういうふうに出来ています。
<仮説として聞いておけ>
イエスがここで言っているのは、弟子にとってはこれから起きることへの「仮説」です。
弟子たちはまだ体験していないから仮説以上のものにはなりえません。
けれどもイエスは仮説にしかならないことをわかっていて述べているのです。
現に事態が生じたときに、理解が出来なくて、混乱し、イエスと創主への信頼すら失ってしまうことがないために。
仮説としてでいいから耳に留めておくのだよ。イエスはここでそう言っている。
これも考えてみると、人類史にまれな凄い場面ではないでしょうか。