鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

<臨時版1> 『久方のニッポンキリスト教』

2010年04月11日 | ヨハネ伝解読
本日久方ぶりに近所の教会礼拝に出てきました。


                    

<霊領域に踏み込まない>

メッセージを聞いていて、再確認したのは、
日本の牧師さんは霊の領域に踏み込むことを全くしないということでした。

福音の奥義は霊といのちの論理にあります。
それに触れると人の心底は感動するのです。心が芯から熱くなる。

ところが論理がその前で留まってしまうもんだから、
福音の有り難さは罪と十字架の許しの一点だけになってしまう。

そこでメッセージはそれを繰り返すことになる。
そのため罪を様々な面から述べて、
「ほらこの深い罪が十字架でゆるされたんですよ、なんとありがたいことでしょうか」と繰り返す。
ガンで死ぬ間際になって、生前の罪が気になって仕方なくなり、見舞いに来た牧師さんに告白した。
「神様は許して下さってますよ」と言ってあげたら、えもいれぬ平安な顔になった
~云々の体験などあげて罪と許しを繰り返す。


                    

<罪の問題は解決済み>
 
だけど考えてみてください。人間の罪の問題は、イエスの功労で「すでに解決ずみ」なのですよ。
すでに解決すみのことをなんでくどくど繰り返すんですか。

人間の罪業の深さをあれこれ分析してほじくり出すんですか?
答えは簡単、霊の領域に入らないからです。だからその門前で足踏みするしかなくなるんです。

その結果、信徒の思考は停止し、「信じるか信じないか」だけのところに追い込まれていく。
福音は信じたら終わりで、もう思考しない活動になってしまいます。


                    

<囚人のジレンマ>

日本の牧師さんはみんなそうですから、誰かが霊の領域に踏み込むと一斉に異端呼ばわりする。
だからだれも出来ない。ゲーム理論でいう「囚人のジレンマ」状態のようになっています。

これでは若い人は教会にくる気なくすでしょう。
私が行った教会も中年もほとんどいなく、老人ばかり一桁人数でした。

この状態を何とも思わず日々惰性でやっているのが日本の牧師さん。その律儀さには頭が下がります。
ある意味で尊敬します。けど、ニッポン人って不思議だなあ・・・・。

で、鹿嶋はどうしたか?
「罪と十字架の繰り返し」が始まりますと「ホラきた」と聖句を読んだり、
入り口に並べてあったパンフレットの類を通読しました。
日本のクリスチャン人口が0.5%から離陸するには、新しい教会を増やすしかありません。



                    



コメント (10)
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