鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

<臨時版2>『もう一つの宗教』

2010年04月19日 | ヨハネ伝解読
本日も臨時版です。

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<日本人は宗教アレルギー>

日本で福音を伝道して行くには、あらかじめ考えておくべきことがあります。
日本人には宗教アレルギーとも称すべき意識が顕著です。
日本人の意識の底には、「キリスト教だろうが仏教だろうが、とにかく宗教は嫌い」
という意識が出来上がっている。
日本に福音を根付かせようとするならば、なによりもまずこのアレルギーの構造をつかんでしまわねばならない。
そしてそれには宗教なるものに含まれる領域を知ることが必要です。


                    

<存在論と実践論>

どの宗教も理論(理屈)を持っていますが、その基本的なところは二つの分野に分けられる。
一つはこの世界がどうなっているかを示す理論です。

聖書でみれば~
「世界は創造主の言葉によって創られている」
「世界存在には物質と霊という二つの形態がある」
「人間は肉体と霊からなっている」
「霊は永続する」
~などがそれです。

これは存在するものを説明するのですから存在論と言いましょう。
もう一つは、存在するものがそうなっているならば
「人間はそこでどう生きどう行動したらいいか」をしめす理屈です。

聖書で言えば~
「まず霊の永続する幸福を確保し、次にこの世での肉体の幸福を得ようとすべきだ」
~などがそれです。

これは実践論ということにしましょう。


                    


<濃存在論宗教と薄存在論宗教>

前者の存在論のあり方をみていると、個々の宗教の二つのタイプが浮かび上がってきます。
一つは世界や人間がどうなっているかという存在に関する理論が豊富な宗教です。
キリスト教や仏教はこれです。鹿嶋はこれを濃(のう)存在論宗教と名付けています。
理論が濃厚で深遠だという意味です。

もう一つは、この存在論が簡単というか、理論と呼べるところのほとんどないものです。
日本の神道はその代表です。これには神様がどういう存在かを論ずる理論はほとんどない。
こういうと「いや、二礼二拍手一礼とか、榊の枝を捧げる向きとか、理論は色々あるよ」
と言われるむきもあるかも知れませんが、
これはいわば神を拝する作法のとりきめでして、実践論の領域のものです。

存在論はその神様はどういう方か、それはなぜか等をのべる理論です。こちらのものはほとんどない。
神様は感慨として感じているだけのものです。

ですから山に神を感じたらそれをご神体として拝む。
大きな木に神を感じれば周りにしめ縄を張って俗世と隔離した存在であるとして、
そのご神体を拝む。そういうことになるわけです。

存在論が無いなら無存在論宗教といってもいいかも知れませんが、
単純な理屈はあるとみてもいいでしょうから、薄(はく)存在論宗教と鹿嶋は呼んでいます。
存在論が希薄という意味です。

                    

<日本人の宗教アレルギー>

日本の歴史を概観すると「民衆は伝統的に薄存在論宗教の体験しかもってきていない」ことがわかります。
古来から広く行われているものに神道がありますが、
これは原始宗教を儀式的に洗練させたものでして、前述のように存在論は希薄です。
後に輸入される仏教も、奈良時代までは為政者の学問という面が強く、庶民に伝えることは禁じられておりました。
行基という和尚が庶民布教をはじめて政府から迫害を受けたとつたえられています。

鎌倉時代に輸入された浄土仏教も
(釈迦の創始した仏教は涅槃仏教:涅槃~ねはん~は心の平安なこと)
存在論の部分が入念に伝えられたという形跡は少ない。
庶民はただ「南無阿弥陀仏を唱えればよい」という実践論だけを教わっていた。
さすれば「罪人であっても極楽浄土に死後行かれる」というのが教えでしたが、
なぜにそうなるかという霊界の存在論は乏しかった。

こういう宗教しか体験してきていませんので、日本人には宗教とはそういうもの、
理屈はほどほどで信じるべきものという感覚が骨身に浸み込んでいます。
ですからキリスト教が輸入されても存在論の部分を詳しく吟味するなど思いも至らない。
結論的なところを聞いて実践に走ろうとするのみです。

大衆は実践論だけを単純な形で示されるのみ。
たまに理由を聞くと「不信仰者 !」とえらい人から折檻されて、結局神妙に受け入れてきました。

話を戻します。
薄存在論宗教もへいぜい冠婚葬祭などに関与してくる程度なら「緩やか宗教」でよろしいのですが、
明治大正の戦勝以来政府は神道を道具として使いはじめました。
国家宗教として人民を戦争遂行に向けて鼓舞する用具にした。
若者たちはもともと単純な存在論の宗教しか知りませんので、まともに信じて死地に赴きました。

その仕掛けが敗戦でばれてしまいましたので、
大衆はもう「宗教は怖いもの、つきあうと乗せられ利用されるもの」と肝に命じて現在に至っている。
これが現代日本宗教アレルギーの構造です。


                    


<個々人が探求する宗教もある>

日本ではこれにまず、対処せねばなりません。それには次のことを知らせます~

「結論を与えて信じさせるだけの宗教」は怖いが、そうでない宗教もある。
この世界はどうなっているか、を個々人が探求する宗教もある。

キリスト教では聖書という教典に世界のあり様が詳しく書かれている。
その内容が深遠広大なので、各々がそれを解読して、個人流に納得していくしかない。
それを許す宗教なら乗せられ利用される心配はない。

~そうしたことを最初に入念に知らせ納得させる必要があります。
 
そして納得した人に聖句解読の事例を示していく。これしか方法はありません。
これをしないと、キリスト教でも「賢者から結論を与えてもらって信じて行動するだけの宗教」に
日本ではなっていってしまいます。



                    

コメント
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