鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

<臨時版3>『もう一つの真理観』

2010年04月24日 | ヨハネ伝解読
臨時版をもう一ついきましょう。

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存在論が濃厚な宗教の教典では、実践論よりも存在論の部分が大きな比率を占めます。
一つには実践論は存在論から自然にでて来るところが多いからです。
「現実(存在)がこうなっているから、人はこう実践(行動)すべき」
というつながりになることが多いので、実践論を一から詳細に述べる必要が無くなる。
その意味では濃存在論宗教では存在論が主役であるとも言えます。


                    

<対象に適合する理論が真理>

存在論では、理論(理屈)が「存在しているもの(実在)」に適合しているかどうかが問題になります。
当てはまっている理論を真理といいう。
こういう認識の型は科学と同じです。ただ、認識対象が科学より広範囲にわたっているだけです。
科学では認識対象が基本的に人間の五感で認識できる範囲(これを経験界ということもある)に限定していますが、
宗教では霊界とかの五感では認識できない領域(これを形而上領域とも言う)にも対象範囲が拡大しているのです。
認識の型は同じで、宗教でも対象に適合している理論は真理です。


                    

<「真理は一つ」のはずなのに>

この真理に関連して「もう一つの宗教」では特有の障害が出現します。
人間には「真理は一つ」という願望的な常識感覚があり「永遠の真理」とでもいうべき真理観が出てきます。
ところが「もう一つの宗教」では、個々人が個人流に納得したものでいいという方法をとる。
すると解読者の数だけ納得した理解があってそれが各々真理だということにもなります。
だがそうすると「それでは『真理は一つ』に反するではないか、そんなものを真理と言えるか?」
という思いがでる。これは自然の情です。

この問題に解答を与えておく必要がある。
それがないと人々は聖句の自由解読がだんだんと怖くなって、萎縮していきます。
ひとつの解釈を得ても、「これはもしかしから真理ではないのではないか」という恐怖感に襲われるのです。
これも積もり積もると宗教アレルギーに繋がってゆきます。
解を得るには「真理は一つ」という思想について考えておくことが必要です。


                    

<「永遠の真理」は到達可能か>

この思想は砕いて言うと「認識対象(例えば人間の霊)に絶対的に当てはまる理論(聖句解釈)があって、
それを絶対的で永遠の真理だとする」という真理観です。
そういう絶対的真理があるだろうことは、鹿嶋は否定しません。
そしてあるとすればそれは永遠不変で不動な理論であり、動かないから静態的でしょう。

だが、問題はそういうものを人間が短い生涯のうちに見出せるかということです。
見つかれば結構なことでしょうが、聖書が論じている認識対象の範囲は無限です。
対して認識者である人間の認識能力は有限です。

ですから、「永遠の真理」究極の静態的真理を人間が見出すことは実際には不可能です。
万一、霊感的にかすかに感知したとしても、それを「言葉で表現することは出来ない」でしょう。
人間界の真理とは言葉で表現したものであることが必要ですので、
「真理は一つ」の真理は、「見果てぬ夢」として夢見るだけのものとなるのです。


                    

<もう一つの真理観>

これを聖書についていえばこうなります。
その存在論は濃密で内容豊富であって、論及する世界は霊界も含み、時間的にも永遠の過去から永遠の未来に渡っています。
こういう書物の記述内容を吟味するには聖句そのものを解読せねばなりません。
ところがやってみるとわかるのですが、聖句は様々に解読される余地をもっています。
絶対の正解どころか、人間だけの間で衆目一致する解読にいたることも困難です。

それでも探求するとなれば、ひとりひとりがその時点で
「これはまこと(真理)だ」と思った解釈を信頼して進むしかないでしょう。そしてこれは意外に実用的な方法です。

実際、我々はそうやって生きているのです。
人間は、「生きて行動して人生を進みつつある」存在です。
英語ではこれをゴーイングコンサーン(going concern:活動態)といいますが、
活動態は生きて進むその時点ごとで「まことだ」と思ったことを信頼し、これを踏まえて生きている。

これは有限な人間にとっての現実的な真理です。見果てぬ夢としての真理とは別の、「もう一つの真理」です。
この真理は生きるわれわれにとって、各段階で変化する動態的なものです。
永遠の真理には生きてる間に到達することはないのだけれども、それでも絶対的で究極の真理に向かって進む。
その進行プロセスにおいて各段階で修正された知識となって得られる現実的な知識を真理とする。

 この方法をとる人々は、人間にはそれしかないと確信し、かつそれを人間精神の誇りとしている。
一見傲慢なようですが、そこには「人間を創造者と混同することを戒め、
自らを創られたものを発見するだけの存在とし、その手がかりを聖句に求める」という謙虚さもあります。
「全存在を知るに、聖句に全面的に頼るしかない」という自覚も謙虚といえるでしょう。


                   

<聖句主義の真理観で>

 実はこれが聖句主義の真理観なのですが、鹿嶋もこの思想に立って「ヨハネ伝解読」を書いています。
キリスト教活動自体は様々に展開します。これを薄存在論宗教に変形していってしまう例も多い。
人間は本来そういう風に宗教を展開していく性質をもっています。
そうしたなかで、キリスト教の本質を存在論が濃厚である点にとらえ、
その存在論の探求を「もう一つの真理観」のもとで一貫して行おうとする。
その素材として「ヨハネ伝」を選んでやっているわけです。

                    


コメント (2)
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