鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

<臨時版>聖書ある生活3

2010年09月15日 | ヨハネ伝解読
本日は「学ぶべきものは天然」ですが、前回の記事への追論を少し述べます。

                    


<創造主なら持つべき属性>

前回、鹿嶋は聖書の創造論だけが「存在するもの」が存在する理由を示す、といいました。

するとこういう声も出そうです。
「そんなことないよ、この世のものを造った造物者のようなものがあるのではないか、
という思想は他にもあると思うよ」と。

たしかにそうです。「のようなものがあると思うよ」程度の思想なら、子供でも抱くでしょう。

だが、聖書は違う。
それは創造主に関するディテール(詳細)を述べる聖句も含めているのです。
たとえば、創造主は時間的無限者という思想を込めた聖句がある。
空間的無限者の思想も含んでいる。

そしてそれらの思想は論理的に妥当なのです。


                    

たとえば、自分以外の全ての存在を創造するのなら、
創造者は限りない過去から限りない未来に渡って存在する方でなければならないでしょう。

これに聖句はきちんと論理的に応じています。
「永遠」という概念(無限大という概念の一つ)を用いて応じている。
万物の創造者は「永遠の過去から永遠の未来に渡って存在する無限者」
という属性をもつことを示しているのです。

 空間についても同じです。
 空間は無限です。
自分以外の全ての存在を創造したのなら、創造者は自らも無限の広がりを持った方でなければならないでしょう。
聖書はそうして空間的無限者であるという属性も聖句で示しています。

このようにして、万物の創造主ならば持つべき論理的な属性をに内蔵している本が、
他にあるでしょうか。鹿嶋は知りません。


                    


<学ぶべきは天然>

 さて「学ぶべきものは天然」に入ります。
これは、前後にある「労働すること」と「聖書を読むこと」との両方に関わっています。
両者を共に助けるのです。

                    

<労働への貢献>

まず労働から。
労働とは天然物に人間が手を加えることですよね。
ただし、直接手を使って土をほじくり返すことはなどでは効率が悪い。
手を加える対象である天然物をよく学び、それをもとに道具を造って使うと
同じ労力を投入してもより多くの生産物を得ることが出来ます。
こうして食物もよりたくさん生産することが出来ます。

だから「学ぶべきは天然」と内村は言うのでしょう。


                    

<「聖書を読む」への貢献>

「天然を学ぶこと」は「聖書を読む」に対しても助けになります。
聖書の世界観は深遠にして広大です。
それは見える世界(物質界)だけでなく見えない世界(霊界)にまで及ぶ
壮大にして内容豊かなものです。

ここで述べられる霊界の論理は、人には霊が見えないが故に、理解が困難です。
だが、天然を学び、その知識があると、
これをもちいて霊界の理屈をより明確に理解することが出来るようになります。


                    

天然を学んで得られる知識の代表は、物理学、化学の知識です。

 たとえば聖書には「いのち」という概念が出てきます。
これは物理学のエネルギーになぞらえるとイメージがはっきりしてきます。
鹿嶋などは「いのちエネルギー」と言い換えています。

また創造主のなす創造のわざは、物理学の「エネルギーと物質は相互に転化しうる」
という知識を援用すると、より明確に理解できます。
創造主はいのちエネルギーの源泉です。

このエネルギーを創造主は自ら描くイメージを用いて物質に転化させることができる。
それが被造物を創る創造のわざではないか、と理解することが出来る。

このように「天然を学ぶ」ことは、「聖書を読む」ことの助けにもなるわけです。


                     


<自然でなく「天然」であることについて>

 なお、ここで内村は自然でなく天然という語を使っています。 
自然という語は、聖書の世界観に沿ってないからです。

「然」は「ぜん」とも「ねん」とも読みますがいずれも「その状態で存在する」という意味です。
「学生然としている」といえばそれは「学生そのものの状態でいる」という意味になります。
「自」は「みずから」「じぶんで」の意味です。

そこで自然は「みずからその状態で存在するもの」という意味を持つことになる。
だが、それが指すものは聖書では被造物です。
被造物は創造主によって創られた創造主あってのもので、「自ら存在する」ものではありません。

自然という漢語は、聖書の思想には反する言葉なのです。

では「天然」という語は聖書の思想にぴったり適合しているかというと、そうでもなさそうです。
それは「人の手が加わってない」とか「生まれつきのもの」という意味を持つだけです。
「天然パーマ」などに見られる如くです。

けれども「自然」ほどにはっきりと「自ら存在する」というニュアンスは持ちません。
とはいえこれを「被造物」にして、「学ぶべきものは被造物」というのも変です。
だから内村は天然の語を用いたのでしょう。
「天(創造主)が『その状態で存在するようにせしめたもの』と自分で思うことも出来ますし。
日頃も天然で通していたのではないでしょうか。


                    

 ともあれ、この世の人生を仕合わせに送るに必要なのは、
天然を学び、労働をし、聖書を読む、という三つだけだったのですね。


                    



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