ヨハネ伝解読17章に戻ります。
この章は前篇イエスが創造主に語りかける言葉です。
本日は7節と8節にまいります。
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=聖句=
「いま彼らは、あなたがわたしに下さったものはみな、あなたから出ていることを知っています。
それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。
彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出てきたことを確かに知り、
また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました」(17章7~8節)
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いろんな言葉がでてきますね。
ここはまず、弟子たちが「いまや知っていること」を取り出しましょう。
それは次の三つです。
<弟子たちが知るに至った三つのこと>
①「あなた(父なる創主)がわたし(イエス)を遣わされた(この世に)」こと(8節)。
②「あなたがわたしに下さったものはみな、あなた(創造主)から出ている」こと(7節)。
具体的にどうかというと、たとえば前の6節では、「創造主は弟子をイエスに与えた」とありましたね。
この弟子は被造物で、被造物は根本的に創造者のものです。
創造主なる父は、これを世から取り出してイエスに与えた。このことも前の節の解読で示しました。
他の代表は、癒しを行う権威でしょう。これは癒しを実現する「いのちエネルギー」といってもいい。
これらはみな創造主から出ているということですね。
③「あなた(創造主)がイエスにことばを与えた」こと(8節)。
これはつまり、「イエスが語る言葉は創主から出たもの」ということですね。
<鍵は「言葉」に>
本日の聖句を整理する鍵はこの「言葉」にあります。
③の「言葉」は①も②も内容に含んでいます。
そしてその言葉を弟子たちは受け入れた(8節)という。
それによって、①②③は真理だということを「知った」とここではいっています。
どういうことでしょうか?
<「信じる」と「知る」>
ここで留意しておくべきは「信じる」「知る」との関係です。
結論から言いますと、 ここでは「信じる」と「知る」とは一体になっているのです。
なぜなら、
右の①②③が真理であるかどうかを人間は、見たり聞いたり触ったりして知ることは出来ません。
これらはもう人間の経験認知能力の外のことだからです。
だが、それを知る方法はあるとイエスはいっているのです。
それは「信じることによって知る」という方法だ、と。
世界には「信じることによってしか知ることの出来ないものがある」ことを
ここでイエスは明示しているのです。
ここはもう「信じる」ことによって知るしかないところです。
では信じるとはどういうことか。
それがここでは「父なる創主がイエスに与えたことばを受け入れること」となっています。
これも一つの奥義です。
そういう奥義を創造主の前に出して、イエスは語りかけ祈っているわけですね。
この章は前篇イエスが創造主に語りかける言葉です。
本日は7節と8節にまいります。
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=聖句=
「いま彼らは、あなたがわたしに下さったものはみな、あなたから出ていることを知っています。
それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。
彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出てきたことを確かに知り、
また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました」(17章7~8節)
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いろんな言葉がでてきますね。
ここはまず、弟子たちが「いまや知っていること」を取り出しましょう。
それは次の三つです。
<弟子たちが知るに至った三つのこと>
①「あなた(父なる創主)がわたし(イエス)を遣わされた(この世に)」こと(8節)。
②「あなたがわたしに下さったものはみな、あなた(創造主)から出ている」こと(7節)。
具体的にどうかというと、たとえば前の6節では、「創造主は弟子をイエスに与えた」とありましたね。
この弟子は被造物で、被造物は根本的に創造者のものです。
創造主なる父は、これを世から取り出してイエスに与えた。このことも前の節の解読で示しました。
他の代表は、癒しを行う権威でしょう。これは癒しを実現する「いのちエネルギー」といってもいい。
これらはみな創造主から出ているということですね。
③「あなた(創造主)がイエスにことばを与えた」こと(8節)。
これはつまり、「イエスが語る言葉は創主から出たもの」ということですね。
<鍵は「言葉」に>
本日の聖句を整理する鍵はこの「言葉」にあります。
③の「言葉」は①も②も内容に含んでいます。
そしてその言葉を弟子たちは受け入れた(8節)という。
それによって、①②③は真理だということを「知った」とここではいっています。
どういうことでしょうか?
<「信じる」と「知る」>
ここで留意しておくべきは「信じる」「知る」との関係です。
結論から言いますと、 ここでは「信じる」と「知る」とは一体になっているのです。
なぜなら、
右の①②③が真理であるかどうかを人間は、見たり聞いたり触ったりして知ることは出来ません。
これらはもう人間の経験認知能力の外のことだからです。
だが、それを知る方法はあるとイエスはいっているのです。
それは「信じることによって知る」という方法だ、と。
世界には「信じることによってしか知ることの出来ないものがある」ことを
ここでイエスは明示しているのです。
ここはもう「信じる」ことによって知るしかないところです。
では信じるとはどういうことか。
それがここでは「父なる創主がイエスに与えたことばを受け入れること」となっています。
これも一つの奥義です。
そういう奥義を創造主の前に出して、イエスは語りかけ祈っているわけですね。