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Vol.304『創造主の名はどういう役割を果たすか(1)』(17章11節)
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前の三回で得た結論に沿って、
「父、子、聖霊の名は一つでありイエスであるらしい」と言うのを踏まえてさらに吟味を続けましょう。
17章11章の終盤には、
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「あなたの御名のなかに彼らを保って下さい。それはわたしたちと同様に彼らが一つとなるためです」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
~という聖句があります。
これはどういうことでしょう。
創造主の御名イエスのなかに弟子たちを一つに保ってくれという。そうして弟子たちを一つにしてくれ、という。
難しいなぁ~。
イエスという名がそんな効力を持つのでしょうか?
<記号論を援用する>
それを探求するに、まず、イエスに限らず、「名」というもの一般の持つ効力についてから考えましょう。
それには記号学(記号論)という学問知識が助けになります。
この学問は19世紀に創始され、20世紀前半に公になっています。
創始者はフェルディナンド・ド・ソシュールというフランスの認識哲学者です。
彼は「名」というものが人間の認識活動に果たす役割について、
次のような主旨のことを述べています。
「名という記号(信号)は認識対象を現実から先行的に切り取る」と。
<砕いて言えば>
難し言い方ですが、要するに、言ってることはこうです。
人間は互いにいろんな信号(記号)を発しながら暮らしています。
言葉はその記号の代表的な一つです。
で、その言葉のなかでたとえば「金(ゴールド:gold)という名がさす物質は、
鉱物のなかの一種類のもの」でどういう性質のものかを我々は知っています。
鉱物の内の黄色く輝いて、変質しなくて、一定の柔らかさがあって、様々な形に加工できるものだ。
これはいまや常識ですね。
けれども、この名が世の中に出現する以前にはどうだっただろうか。
その時期には、こういう種類の物質を知っていたか。はっきりとは知らなかったでしょう。
もちろんこの名がない段階でも、人はある程度のぼんやりとした認知はいたします。
なにか黄色で光り輝くものを雰囲気としては心に描く。
だがそれは漠然とした認識です。
時がたてばすぐに消えていきますし、漠然としているから
輪郭というか、境界線がはっきりしない。
境界線が曖昧だから、他の物質と容易に混同されていきます。
だが、そのとき「金」という言葉(記号)がつくられたらどうなるか。
なんと不思議なことに、そのばくぜんとしていた対象が、突然はっきりするでしょう。
それに照らされて、メリハリを持って人の意識に現れるでしょう。
ソシュールはそのことを発見したんですね。
そういう認知作業を人は、直感的に瞬時にしていることを見出した。
それができると認識はさらに進みます。現物を見てもっと様々な属性を詳細に見出していく。そして各々言葉にすると金という概念の定義もできていきます。
が、ともあれ対象に関する最初の明確な認知は「金という名」が出来ることによって可能になっています。
ソシュールが「現実実在(雑多で混沌としている)のなかから「先行的に」切り取る
(この場合は金という物質を)」というのは、要するにそういうようなことなようです。
<もう一つの比喩「名はスポットライト」>
ここで「先行的に切り取る」ということをもう少しわかりやすくしましょう。
「切り取る」というのは比喩表現です。所詮はたとえだ。
いってみれば、皮の表面にいろんな模様を描いたリンゴがあって、
そこから同一の模様だけをナイフで切り取るといったイメージで、たとえです。
比喩はものごとをわかりやすくするために造るものです。
だったらもう一つ作ったっていいでしょう。
名は対象に「スポットライトを当てる」というたとえを追加しましょう。
こういうイメージです。
後に金として認識される物質は、複雑で混沌としたなかに混じり込んでいます。
そこに「金」という名が出現すると、それがライトになってその物質だけを照らし出す。
スポットライトがあたって目の前に金という物質だけが浮上する。
これがその物質を明確に意識させる、というイメージです。
この比喩を加えると、もっとわかりやすくなるんじゃないかな。
がとにかく、名というのはそういう不思議にして素晴らしい効能を持っているんですね。
<余談>
ここで一服、余談です。
言葉だけでなく仕草や造形物や音楽なども人間が発信する記号であり、信号なんですね。
人間の認識構造をそういう人間が使う記号から明かしていくという仕事は、
19世紀になって初めてなされたものです。
これは偉業と言っていいんじゃないかな。
ギリシャ以来多くの哲学者が様々な認識論を展開してきましたが、
ソシュールがとったこの視角には誰も気付きませんでした。それを彼はやった。驚くべきことです。
ついでに記しておきますと、彼はこれを論文にも本にもしなかった。
真に独創的な人というのは、発見の面白さや興奮に満足してしまうんでしょうか。
超越的な知識(当初はそうです)を凡人にわかりやすく言葉を費やして説明する仕事は、
これに比べればあまりに面倒くさくて面白くない仕事なんでしょうか。とにかく、書かなかった。
で、大学で講義だけした。それでおしまい。
そうしたら聴講した学生が後年、とった講義ノートを印刷、出版したんですね。
講義がなされたのが19世紀の終盤、ノートを冊子にしたものが出版されたのは1913年だそうです。
この聴講生がそれをしなかったらどうなったか。
ソシュールの画期的な仕事はこの世から消えてしまっていたでしょうね。
なんともドラマチックなことです。
<普通名詞による「名」>
話を戻します。記号論のこの知識を援用させてもらいましょう。
それでもって創造主の「名」が提供する認識上の役割を浮上させていきましょう。
まず、日本人に馴染みの「神」から。神も「金」と同様に、名を示す言葉です。
われわれは、この語があるおかげで、現在神の語が指している対象を即座に、直感的にイメージ出来ます。
ただし、日本語の神が指す対象は、多岐にわたっています。
「八百万(やおよろず)の神」というくらいですから。
日本語の「神」は不思議な力を持つ全ての存在を指していまして、
死んだ人間も、動物も、山も大木なども様々なものを対象に含めます。
もちろん、創造神も含みます。
生きた人間も含みます。松下幸之助さんなど、生きてる時から「経営の神様」といわれました。
それだけではない。「山の神」というのもあるという。どんな神さんかと聞いたら、自分の奥さんだといってました。
まさにやおよろずです。
こういう名で照らし出される認識対象はひどく漠然とします。
境界線も明確でない。
偶像も容易に含んでいきます。
だから、聖書のゴッド(ヘブライ語のエロヒム)の邦訳語としては、不適切きわまりないんですね。
<創造神も普通名詞>
では、創造神(創造主でもいい)をもってきたらどうでしょうか。
こちらはの語は、神よりもずっと狭く限定的な対象を指しています。
聖書のゴッドに重なるところが遙かに多いでしょう。でも完全にピタリとまではいかない
。
これも神と同じく、普通名詞だからです。
普通名詞は、依然として複数のものを含みうる広い概念なのです。
創造神は英語ではクリエーターです。
だがこのごろ、広告表現を造る人もクリエーターと言います。
<固有名詞の力>
そのものズバリを指すにはやはり固有名詞です。
普通名詞は、一定の属性を示唆していますよね。
固有名詞はそうした属性の全てを併せ持つ対象全体を指します。
指し示す対象はそれそのもので、その意味で別格の記号ですね。
そこで聖書の創造神を「イエス」と明示したらどうでしょうか。
すると人間は、万物を創造した唯一者とそれに関して聖書が述べていることをすべてまとめて一気に意識するようになります。
イエスという名は、聖書の伝える神の全体像を人間に効率的に意識させる最大のものなのですね。
これに比べると、「創造主」という語は「いまいち」ということになります。
<聖書を読む目的達成の鍵>
聖書を読む最大の目的は、万物の創造神がどんな方かをよく認識することです。
御子イエスを知るのも、父なる創造主を知るためだと、御子イエス自身が教えています。
そしてそれに最初のスポットライトを当てるには、創造主という名をもってきてもある程度は行きます。
だが、イエスという固有名詞でもって照らすと最もトータルな形でシャープに浮上する。
まずこの名を心に浮かべることが、万物の創造主で唯一者で、みずから御子および聖霊と一体になった存在であること等々のもろもろの属性を含む存在そのものを
直感的に先行認知する鍵だったのです。
言い換えると、イエスの「名を意識して」スタートすることが、聖書が伝える神の全体像を浮き彫りにしていく鍵だったのですね。
+++
そしてこの「名」が、この地上で弟子たちを一つに保つと、17章11節ではいっています。
父と御子が一つであると同様に、弟子たちも一つに保つという。
どうやって?
次回にそれを考えましょう。
Vol.304『創造主の名はどういう役割を果たすか(1)』(17章11節)
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前の三回で得た結論に沿って、
「父、子、聖霊の名は一つでありイエスであるらしい」と言うのを踏まえてさらに吟味を続けましょう。
17章11章の終盤には、
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「あなたの御名のなかに彼らを保って下さい。それはわたしたちと同様に彼らが一つとなるためです」
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~という聖句があります。
これはどういうことでしょう。
創造主の御名イエスのなかに弟子たちを一つに保ってくれという。そうして弟子たちを一つにしてくれ、という。
難しいなぁ~。
イエスという名がそんな効力を持つのでしょうか?
<記号論を援用する>
それを探求するに、まず、イエスに限らず、「名」というもの一般の持つ効力についてから考えましょう。
それには記号学(記号論)という学問知識が助けになります。
この学問は19世紀に創始され、20世紀前半に公になっています。
創始者はフェルディナンド・ド・ソシュールというフランスの認識哲学者です。
彼は「名」というものが人間の認識活動に果たす役割について、
次のような主旨のことを述べています。
「名という記号(信号)は認識対象を現実から先行的に切り取る」と。
<砕いて言えば>
難し言い方ですが、要するに、言ってることはこうです。
人間は互いにいろんな信号(記号)を発しながら暮らしています。
言葉はその記号の代表的な一つです。
で、その言葉のなかでたとえば「金(ゴールド:gold)という名がさす物質は、
鉱物のなかの一種類のもの」でどういう性質のものかを我々は知っています。
鉱物の内の黄色く輝いて、変質しなくて、一定の柔らかさがあって、様々な形に加工できるものだ。
これはいまや常識ですね。
けれども、この名が世の中に出現する以前にはどうだっただろうか。
その時期には、こういう種類の物質を知っていたか。はっきりとは知らなかったでしょう。
もちろんこの名がない段階でも、人はある程度のぼんやりとした認知はいたします。
なにか黄色で光り輝くものを雰囲気としては心に描く。
だがそれは漠然とした認識です。
時がたてばすぐに消えていきますし、漠然としているから
輪郭というか、境界線がはっきりしない。
境界線が曖昧だから、他の物質と容易に混同されていきます。
だが、そのとき「金」という言葉(記号)がつくられたらどうなるか。
なんと不思議なことに、そのばくぜんとしていた対象が、突然はっきりするでしょう。
それに照らされて、メリハリを持って人の意識に現れるでしょう。
ソシュールはそのことを発見したんですね。
そういう認知作業を人は、直感的に瞬時にしていることを見出した。
それができると認識はさらに進みます。現物を見てもっと様々な属性を詳細に見出していく。そして各々言葉にすると金という概念の定義もできていきます。
が、ともあれ対象に関する最初の明確な認知は「金という名」が出来ることによって可能になっています。
ソシュールが「現実実在(雑多で混沌としている)のなかから「先行的に」切り取る
(この場合は金という物質を)」というのは、要するにそういうようなことなようです。
<もう一つの比喩「名はスポットライト」>
ここで「先行的に切り取る」ということをもう少しわかりやすくしましょう。
「切り取る」というのは比喩表現です。所詮はたとえだ。
いってみれば、皮の表面にいろんな模様を描いたリンゴがあって、
そこから同一の模様だけをナイフで切り取るといったイメージで、たとえです。
比喩はものごとをわかりやすくするために造るものです。
だったらもう一つ作ったっていいでしょう。
名は対象に「スポットライトを当てる」というたとえを追加しましょう。
こういうイメージです。
後に金として認識される物質は、複雑で混沌としたなかに混じり込んでいます。
そこに「金」という名が出現すると、それがライトになってその物質だけを照らし出す。
スポットライトがあたって目の前に金という物質だけが浮上する。
これがその物質を明確に意識させる、というイメージです。
この比喩を加えると、もっとわかりやすくなるんじゃないかな。
がとにかく、名というのはそういう不思議にして素晴らしい効能を持っているんですね。
<余談>
ここで一服、余談です。
言葉だけでなく仕草や造形物や音楽なども人間が発信する記号であり、信号なんですね。
人間の認識構造をそういう人間が使う記号から明かしていくという仕事は、
19世紀になって初めてなされたものです。
これは偉業と言っていいんじゃないかな。
ギリシャ以来多くの哲学者が様々な認識論を展開してきましたが、
ソシュールがとったこの視角には誰も気付きませんでした。それを彼はやった。驚くべきことです。
ついでに記しておきますと、彼はこれを論文にも本にもしなかった。
真に独創的な人というのは、発見の面白さや興奮に満足してしまうんでしょうか。
超越的な知識(当初はそうです)を凡人にわかりやすく言葉を費やして説明する仕事は、
これに比べればあまりに面倒くさくて面白くない仕事なんでしょうか。とにかく、書かなかった。
で、大学で講義だけした。それでおしまい。
そうしたら聴講した学生が後年、とった講義ノートを印刷、出版したんですね。
講義がなされたのが19世紀の終盤、ノートを冊子にしたものが出版されたのは1913年だそうです。
この聴講生がそれをしなかったらどうなったか。
ソシュールの画期的な仕事はこの世から消えてしまっていたでしょうね。
なんともドラマチックなことです。
<普通名詞による「名」>
話を戻します。記号論のこの知識を援用させてもらいましょう。
それでもって創造主の「名」が提供する認識上の役割を浮上させていきましょう。
まず、日本人に馴染みの「神」から。神も「金」と同様に、名を示す言葉です。
われわれは、この語があるおかげで、現在神の語が指している対象を即座に、直感的にイメージ出来ます。
ただし、日本語の神が指す対象は、多岐にわたっています。
「八百万(やおよろず)の神」というくらいですから。
日本語の「神」は不思議な力を持つ全ての存在を指していまして、
死んだ人間も、動物も、山も大木なども様々なものを対象に含めます。
もちろん、創造神も含みます。
生きた人間も含みます。松下幸之助さんなど、生きてる時から「経営の神様」といわれました。
それだけではない。「山の神」というのもあるという。どんな神さんかと聞いたら、自分の奥さんだといってました。
まさにやおよろずです。
こういう名で照らし出される認識対象はひどく漠然とします。
境界線も明確でない。
偶像も容易に含んでいきます。
だから、聖書のゴッド(ヘブライ語のエロヒム)の邦訳語としては、不適切きわまりないんですね。
<創造神も普通名詞>
では、創造神(創造主でもいい)をもってきたらどうでしょうか。
こちらはの語は、神よりもずっと狭く限定的な対象を指しています。
聖書のゴッドに重なるところが遙かに多いでしょう。でも完全にピタリとまではいかない
。
これも神と同じく、普通名詞だからです。
普通名詞は、依然として複数のものを含みうる広い概念なのです。
創造神は英語ではクリエーターです。
だがこのごろ、広告表現を造る人もクリエーターと言います。
<固有名詞の力>
そのものズバリを指すにはやはり固有名詞です。
普通名詞は、一定の属性を示唆していますよね。
固有名詞はそうした属性の全てを併せ持つ対象全体を指します。
指し示す対象はそれそのもので、その意味で別格の記号ですね。
そこで聖書の創造神を「イエス」と明示したらどうでしょうか。
すると人間は、万物を創造した唯一者とそれに関して聖書が述べていることをすべてまとめて一気に意識するようになります。
イエスという名は、聖書の伝える神の全体像を人間に効率的に意識させる最大のものなのですね。
これに比べると、「創造主」という語は「いまいち」ということになります。
<聖書を読む目的達成の鍵>
聖書を読む最大の目的は、万物の創造神がどんな方かをよく認識することです。
御子イエスを知るのも、父なる創造主を知るためだと、御子イエス自身が教えています。
そしてそれに最初のスポットライトを当てるには、創造主という名をもってきてもある程度は行きます。
だが、イエスという固有名詞でもって照らすと最もトータルな形でシャープに浮上する。
まずこの名を心に浮かべることが、万物の創造主で唯一者で、みずから御子および聖霊と一体になった存在であること等々のもろもろの属性を含む存在そのものを
直感的に先行認知する鍵だったのです。
言い換えると、イエスの「名を意識して」スタートすることが、聖書が伝える神の全体像を浮き彫りにしていく鍵だったのですね。
+++
そしてこの「名」が、この地上で弟子たちを一つに保つと、17章11節ではいっています。
父と御子が一つであると同様に、弟子たちも一つに保つという。
どうやって?
次回にそれを考えましょう。