唐から(宋→元→明)と飛び越えて清(みん)に入ろうと思っていましたところ、
前回のコメント欄に「名を示さない方」からの批判をいただきました。
「カシマさん、少し言い過ぎではないか! 日本人にも立派なオリジナリティがあるぞ」
という旨のご批判です。
もともとコメントが少ないもんですから、いただくとついついうれしくなってしまいます。
今回はそれに関連する脇道に入って、無駄口を書いてみようと思います。
あそびですが、たまには遊びもいいでしょう。
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異国の事柄は、現地に行って現物を見るとみないとで見解が大きく異なってくることがあります。
前回の話も、もし春平太が西安の街に行ってなかったら、別物になっていたでしょう。
中国の持つ特異な底力が感知できなかったでしょう。
unknownさんと同じような認識になっていた、と改めて思いました。
<西安の碑林博物館>
前述したように今の西安の街は唐代の国際百万都市・長安の9分の1模型です。
長安と同じく四方を城塞で囲み、四辺をなす城塞の各々の中央に門があり、守衛が守っています。
城塞の高さは約30メートルで、厚い壁の尾根は通路になっています。
長安の昔には、そこからも兵が外敵を見張っていたのでしょう。
西安の南門(永寧門)から入って右手に行きますと、古文化街がありました。
道路の両脇に店店が軒を連ねています。硯や筆、石碑のレプリカ(縮小版の模型品)、
本物の石碑から写した拓本、文書などが売られていました。
古文化街を抜けると「碑林博物館」がありました。
その場所はかつては孔子廟だったそうです。
そしてその博物館には、漢代から清朝時代までに造られた3000余の石碑が保存されているという。
レプリカ(複製品)もあって、本物が北京に保存されているケースもあるそうですが、
ともあれ代表的なものが入場者のために陳列されていました。
人の等身大の石碑(大きな石の板)が沢山あります。ほとんどが黒い石で黒光りしています。
板には論語の教えなど代表的な文献の文字が彫り込まれています。
論語の石板は漢代に造られたという話でしたが、
孔子の教えが何枚もの石板に連続的に掘り込まれていました。
石碑に墨を塗って、彫り込まれた漢字を紙に刷り込みんでつくるのを、拓本(たくほん)といいます。
拓本作りの作業も周期的になされるということでした。
<大景教流行中国碑>
日本でも様々な書物にその写真が載せられている「大景教流行中国碑」という石碑もありました。
等身大の大きな石碑です。
これは景教(ネストリウス派のキリスト教)が唐の時代に非常に盛んだったことを記しています。
後に玄宗皇帝の国粋主義政策で、キリスト教や仏教など外来文化はことごとく消滅させられます。
そのとき、景教の宣教者たちはかつての大繁栄状況を石碑に記録し、地中深くに埋めた。
後年、それが掘り出されここに展示されているということでした。
中国のこの地域の山地には石が豊富なのでしょうか。
昔から貴重な思想や教えを漢字でもって石の碑に刻印することが、盛んに行われたようです。
ハードディスクなどない時代ですから、石碑は思想を長期的に保存する最大の手段でした。
これを彫る人の意識には、自分の生涯を越えて長期に、この文字を人が読めるようにするという思いが
あったことでしょう。悠久の意識です。
日本人の文化作業には、歴史的長期的意識でやったものはあまり多くありません。
白川静さんの漢字の源を探求する研究は例外的です。
<留学生の衝撃>
長安の街ではこうした知的作品が沢山陳列されていたでしょう。
加えてシルクロードを通って持ち込まれるきらびやか品物が市場で売られています。
様々な国の衣装を着た人々が往来している。
いろんな国からきた目を見張るような美人が、ファッションショーのように次々に街路に登場します。
それらが絢爛豪華な建造物に彩られた、碁盤の目に仕切られた街路の中で展開されています。
そこに日本人留学生は到着したのです。日本海を船で旅して大陸側の港に着きます。
ジェット機はなかったので、そこから長安の都までまた長い長い旅があります。
遂に長安につき、この城壁都市の内側に足を踏み入れたとき、彼らはいかに仰天したことでしょうか。
これは現実なのか、いやこれは夢なのだ・・・。
<初めてのディズニーランド>
この状況を今の我々日本人はどうイメージしたらいいでしょうか。
テレビもない日本の田舎に生まれそだち、そこを出たことのない若者がいたとしましょう。
村の外れに小さな公園は一つあるが、さびれた滑り台とブランコしかない。
実際こういう村は、戦後の日本にも沢山ありました。
この人が、突然ディズニーランドに足を踏み入れたらどうでしょうか。
若者はめくるめく光景とエンターテインメントに圧倒されて呆然と立ち尽くすでしょう。
<初体験の銀座高級クラブ>
ディズニーランドなど行ったことない、という大人の読者には次のような状況が納得しやすいかも知れませんね。
戦後の高度成長期に実際よくあったことです。
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上記の青年も、東京の会社に就職したととしましょう。
上司の世話で結婚して、子供も出来ました。
けれども田舎の無粋さが抜けきらず、女性と話すのも苦手でさっぱりモテませんでした。
その彼が中年になって、取引先の会社から接待をうけました。
場所は夜の銀座。生まれて初めて銀座のネオン街です。
彼は取引先の営業マンに連れられて、一つの小さなクラブのドアをくぐりました。
高級ナイトクラブです。スクリーンに出てくる映画女優に引けをとらない容貌の魅力的な女性が沢山います。
その彼女たちが、なんと、向こうから話しかけてくれるではありませんか!
隣にぴったり座って酒もついでくれるし、おしぼりも開いてくれるし、香水の香りもプ~ンと包んでくるし、もう大変・・・。
さらに次にいったときにはおぼえてくれていた!
「ア~ラ、ケンさんしばらくじゃないの~」なんて鼻声で腕に巻き付いてきます。
こういう世界を歳取ってから経験すると、心酔してしまう人が多いようです。
とりわけ常々「もてない」中年男などイチコロでしょう。
「世の中こんな楽しいところあったのか・・・」とクラブ遊びに目覚めてしまいます。
「これまでなんとつまらない人生送ってきたことか」と新境地を開き一念発起いたします。
そのうち、どこかの店の優しくしてくれる女の子のところに泊まり込んでしまう。
もう家に帰らなくなります。
定期預金は崩すし、生命保険は解約してしまう。
遂に奥さんが連れ戻しにきます。
そういうケースが高度成長期には結構ありました。
今でもあるんではないでしょうか。
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長安の門をくぐった留学生には、街のきらめきは
ディズニーランドや銀座のナイトクラブ以上の衝撃だったのではないでしょうか。
奈良、平安時代の日本から来て、長安の門をくぐった留学生は、こんなんだったでしょう。
彼らは圧倒され、ただ、この街にある文化成果をいただくのみだったでしょう。
これすなわち、コピー学習、なぞり学習です。
これによって、日本人は知識の「なぞり輸入→改良」屋たるを決定づけられたのです。
<櫻井よしこは中国に行ってない?!>
話は変わりますが、櫻井よしこという評論家をご存じでしょうか。
ジャーナリストと言ったらいいか、手厳しい対・中国政策提言でも知られた人です。
そのよしこさんについて「彼女は中国に行ったことない」とのべていた中国人がいました。
筆者には、耳学問をさせてくれる中国人経済学者が二人います。
ともに日本の大学で教鞭を執っています。
その内の一人の方が、先日そんな指摘をしていました。
「まさか?」と鹿嶋は応じました。
「昔のことをいちいち調べたわけではないが、2~30年間はないだろう。
入国しようとしても許可がおりないだろう」と彼はいっていました。
鹿嶋も他者の渡航履歴など細かに調べる暇はありませんので、
これは仮定をおいて考えざるを得ないのですが
~そして仮定で語るのは良くないところがあると承知しているのですが~
やってみます(よしこさん、間違ってたらごめんなさい)。
彼女が中国に行ったことない、とするならばそれは鹿嶋には衝撃的なことです。
普通の人ならとにかく、あれだけ多くのことを中国について評論しながら、
しかもそれがメディアを通して散布される立場にありながら、現場に立たないで書いているならば、
それは衝撃を通り越して恐怖でもあります。
ものには言い様ですから、相応の理由は立つでしょう。
現場に立つとかえって客観的で鳥瞰的な見方が出来なくなる~等々と。
でもそれは詭弁でしょう。
現場に立ったらそのまま鳥瞰図がなくなるのではない。
帰国したりしてそこを離れてたら、改めて鳥瞰できるのです。
そして、歴史的現場に立たないことには認識できないこと、それによって見解が変わることはあるのです。
~だが、以上のことは仮定が事実だった時だけにいえることです。
もし事実でなかったら、よしこさんごめんなさい。
<日本人の宗教音痴も「上澄み知識なぞり」習性による>
知識の「上澄み」部分を素早くなぞり習得するという習性は「プリンシプルへの鈍感さ」を産む
と前述しました。
この習性は、日本人に宗教音痴の資質をももたらしています。
儀式だけの宗教もありますが、多くの宗教は言葉にした教典をもっています。
教典は物事の基底に流れる共通則の知識も含んでいます。
だが、日本で始まった長安からの輸入知識は、そこを省略した知識でした。
日本人はそれを最高の知識だとして学びました。
その習性が宗教への認識にもおよび、宗教教義の持つプリンシプル、共通則への目をふさいでしまいました。
それが宗教への「知的には幼稚な」姿勢を生みました。
その結果日本人は宗教というと、単純な行動原則だとか、
教義のない霊感だけの営みだと思うようになりました。
思想一般への姿勢についてもそれがいえます。
つまり、ある思想を聞いてもその基底にある存在論・存在哲学に目を注がないのです。
そして、言葉が示唆する行動論の部分だけを思想の本質と考えます。
そして疑い少なくして、単純な行動に出て行くのです。
長安で日本人留学生がせざるを得なかった極度な輸入コピー学は、そういう思考の型も生みました。
そういう事実も、歴史的現場でその時点の状況を追体験しないと、
なかなか認識できないものなのです。