鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.18<中国論(9)>「孫文、中華民国政府を樹立」

2012年09月17日 | 政治見識のための政治学

(Vol.16 が抜けていましたので追加挿入しました)






清朝政府は列強ピラニア諸国になすがままにされていました。
そうした中で、中国の再生を目指して立ち上がる政治革命家も出てきました。
草分けは孫文(1866 - 1925)でした。







<孫文>


彼は、香港で医学を学びポルトガル植民地だったマカオで医院を開業する医師でした。
だがそのかたわら帝制の清朝を倒して共和制中国を実現することを志すようになっていきました。

孫文は漢民族です。
清朝は満州民族政府で、この少数派民族が多数派の漢民族を支配下に置いていました。

革命家となった彼は1985年、武装蜂起(広州蜂起)を計画しましたが、
密告され日本に亡命しました。
日本では頭山満や犬飼毅を始め多くの日本人からの援助を受けています。

貿易商・梅屋庄吉は、革命を志す孫文に、
現在価値に換算すれば1兆円にのぼるといわれる援助をしたといわれています。







孫文の日本との関わりは深く、1902年には日本人の大月薫と
駆け落ち的な結婚をしたとも伝えられています。

1904年、彼はハワイでアメリカ国籍を獲得し、世界をめぐって革命資金を集め始めました。
1905年には、日本にきて中国同盟会を結成しました。
このとき日本に留学中だった蒋介石とも出会っています。





<武昌蜂起>

1911年、孫文の同志が中国武昌にて蜂起しました。
これが成功して辛亥革命に発展していきました。
革命派は南京に中華民国政府を設立しました。

北の北京には清朝政府が存続していました。

革命政府ではリーダーがなかなか決まりませんでした。
そこにアメリカから孫文が帰国した。
人々の彼への信頼は絶大でした。上海に上陸すると革命派は熱狂して迎え、
全会一致で彼をリーダーにしました。

孫文は翌1912年の元旦に臨時大統領となって、南京政府が南京に成立に至りました。

そして新国家・中華民国が宣言されたわけです。






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Vol.17<中国論(8)>「魯迅と『阿Q正伝』」

2012年09月17日 | 政治見識のための政治学


(Vol.16 が抜けていましたので追加挿入しました)




<愛国心のために>

 列強諸国の覇権時代での中国は、沼にはまってピラニアに食いちぎられる牛そのものでした。
そんな惨憺たる目に遭いながらも、中国の一般人民たちからは愛国心はなかなか燃え上がりませんでした。
(理由は後述します)

そうしたなかで魯迅(1881-1918)は、物語(小説)でもって自国民に愛国心を訴え始めました。





魯迅は医学生として日本の仙台医学専門学校(今の東北大学医学部)で学んでいました。
ある日、日露戦争における中国人露探(ロシア側のスパイ)処刑の記録映画を見たそうです。

そのなかで中国人民衆が銃殺に喝采している場面があった。
それを見て魯迅は衝撃を受けました。 自分らと同じ中国人が殺されるのに・・・。

まあ民衆の拍手は今流に言う「やらせ」の可能性が大きいしょう。
日本国内向けのプロパガンダ用の映画ですから。

けれども若き魯迅にはこの映像は胸のつぶれる思いを抱かせるものでした。
彼は医学を止め、中国人の愛国心発揚に小説という手段で貢献する決心をしました。

彼の『阿Q正伝』(1921)は中国人民に、知識と愛国心をもつことを訴える愛国小説です。
後年、毛沢東は折に触れこれを評価したといいます。
それもあって魯迅の仕事は多くが知るところとなっています。





<上海、魯迅記念館>

 上海に魯迅記念館があります。
春平太はあまりにあちこち行っていて記憶がこんがらがっているかも知れませんが、
たしかここに一人の中国人の老人を日本軍人が斬首しようとしている写真があったのではないかと思います。

引き立てられている老人はロシア側スパイかも知れません。真っ白な白衣を着ていました。
死装束かも知れません。

そこには日本人たちが2~30人ほど集団写真を撮るようにして、二段か三段かになって
カメラに向かって並んでいます。 記念写真そのものです。

中国の老人はその前に引き立てられています。
最前列の右端には、剛毅で傲岸そうな一人の日本軍人が膝を大きく開いて座っています。
膝の間に軍刀を杖のようにたてて、両手をその上に置いています。

彼は処刑をいかにも楽しそうにみています。

これもおそらくプロパガンダ用のやらせ写真でしょう。
日本軍はかくも強いのだと日本国民に宣伝するための。





だがこれをみたら中国人の自尊心がいかに傷つくか、を考えてみる必要があります。
追体験できない読者は、写真での日本人と中国人を入れ替えて想像したらいいでしょう。

そうすれば、上記の処刑記録映画を見たときの若き魯迅の心が想像できるでしょう。
彼の心に沸き上がった悲しみと決意がわかるでしょう。






<英国は試合巧者>

こういう写真を後世に残すのが日本軍の国際政策の幼稚なところです。
英国はこんなことはしない。
彼らはアヘン戦争という、日本軍よりもっともっとあくどいことをしました。
だが、相手国の人民の自尊心を個人ベースで害するようなものは、いっせつ残しませんでした。
一対一での攻撃はしなかったのではないでしょうか。

彼らは法的制度的に、社会システムとしてかじり取ることに徹しました。
システムとしてやれば人民は傷つきません。
一般人民にはそういう仕掛けは判りませんからね。

英国は侵略巧者だったのです。
日本軍人のように、個人ベース、対人ベースで屈辱をあたえる行為をしなかった。

+++

日本人の行為は恨みをかいました。だが、歴史とは奥深いものです。
日本人が与えたこの刺激が、中国人の一人また一人と怒りと愛国心をかき立てました。
その人たちは、抗日運動に加わっていきます。

それは日本人の意図したものではなかったのですが、結果的にそういう効果を与えたわけです。

そして、それを記録した上記のような現場写真が残りました。
ずさんだったのか、世界世論への効果に無知だったのか、とにかく残りました。

これが日本人への恨みを、後世に延々と続けさすことになりました。





韓国でも同じことが起きています。
北朝鮮でもおそらくそうでしょう。

韓国人の大半の若者の対日本感情を知るには、訪れるべきところがあります。
ソウル郊外の「独立記念館」がそれです。
ここを見ないで現代韓国人の対日本心理を語るのは空虚です。

鹿嶋は内部展示物を回覧しながら、英国は試合巧者だったとつくづく思いました。





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Vol.16<中国論(7)>「ピラニアに食いちぎられる牛」

2012年09月17日 | 政治見識のための政治学


(この回を抜かしてしまいました。遅ればせながら挿入します)





時代は、宋→元→明(みん)と飛び越えて清(しん)に至ります。
唐に続いて今の日本の政治に強く関わっているのは清王朝時代です。

清王朝は、漢民族でなく、満州民族による統治者でした。
18世紀にはモンゴル、チベットを含む一大帝国となりました。





<清王朝、翻弄される>

だが、19世紀以降の清王朝の中国は、近代化した西欧列強の食い物になっていきました。
英国はインドでアヘンを作って、中国に密輸しました。

アヘン中毒患者の急増に驚いた清王朝は、輸入を禁止します。
英国はそれを理由にアヘン戦争(1840-42)を起こしました。
(これがあまりに悪辣な政策なので、英国議会でも反対が多く、議決は僅差だったそうです)

英国軍は、近代的な兵器と軍隊技術を持っています。
清朝の軍隊は苦もなく敗戦、「南京条約」を結ばされました。

清朝は、没収したアヘン代金を含めた賠償金を支払わされ、香港を割譲させられました。
さらに広東、厦門、福州、寧波、上海の開港を認めさせられました。

翌43年には虎門寨追加条約で治外法権、最恵国待遇条項を承認させられ、
関税自主権の放棄もさせられました。

+++

するとポルトガルも1845年に「マカオ自由港」の成立を宣言して清の税関官吏を追い出し、
統治権を獲得しました。
1887年になるとタイパ島とコロアネ島も占領し正式に植民地にしてしまいました。

ポルトガルは、明の時代の1557年にすでにマカオに居留権を獲得していました。
フランシスコザビエルもこの居留地を拠点にして日本にやってきていました。

それを清朝時代に、植民地化したのです。

すると他の列強諸国も類似の条約を要求してきます。
王朝政府は断れなくてアメリカ、フランス、ドイツ、ロシアにも利権を与えるに至ります。





<中国の立場でみると>

 この時代の中国は、沼にはまった牛がピラニアに食いちぎられていくかのような状態でした。
中国の立場に立ってみれば、日本も一歩遅れてピラニア集団に参加したと言っていいでしょう。

我々日本人は自国中心の観点から見ますから、そういうと「言い過ぎ」との評もでるでしょう。
だが、中国本体に焦点を当ててみれば、以後の日本もまた中国を食いちぎっていったという光景は否定できないのです。

儒教思想を心底に持つ中国は、自らを親とし、朝鮮と日本を我が子と認識してきました。
長安の都で文字(漢字)を寛大に学ばせたのも、親として与えるべき恩恵としてやってきました。
この視角からすると、以後の日本は親の恩を仇で返す風景でした。

+++

日本は列強仲間を追いかけるようにして中国をかじり取りはじめました。
現在日本では国益主義気風が高まりつつありまして、そういう見方は非難されそうですが、
中国の立場に立ってみたらそういうことです。



話は飛びますが、その中国の立場からの見方が1972年に毛沢東の言動に表れました。
この年、田中角栄(当時の日本首相)は大平外相を伴って日中国交回復条約のため北京に出向きました。






周恩来に伴われて毛主席に謁見した角栄さんらに、毛沢東は
「日本が漢字をもっていって(中国から!)ひらがなを考案したのはよくやったと褒め」ました。
だが、それは日本がそういう恩恵を受けてきていることへのやんわりとした指摘でもありました。




話を戻します。中国の立場に焦点を当ての話を続けますよ。
(国粋主義者のみなさん、ごめんなさい)

日本はまず、日清戦争(1894-)に勝利し、多額の賠償と領土を奪取しました。
これはピラニア軍団への参加宣言でもありました。

1932年には満州国を建国させ、自国の傀儡国家としてかじり取りました。
事実上の亡命状態にあった清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀を皇帝につかせる
という方式でそれをおこないました。






「五族(日本族、漢族、朝鮮族、満州族、蒙古族)協和」の建国理念を掲げてやりましたが、
実質上日本が支配する領土に満州はなりました。

1937年には日中戦争を起こしました。
これは中国全土を我が支配下に置こうという夢の試みです。

日本軍は進軍しました。
中国人の立場からすればこれは、自分たちの住む村々、町々に他国の軍隊が力を誇示しつつなす進軍でした。
一般人民はこれを呆然とみるしかなかったでしょう。
だが、中には悲しみや怒りを抱いたものもいたでしょう。

その人たちは、抗日運動に腰を上げていきました。









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