日本は明治政府を作ると、速やかに版籍奉還と廃藩置県を実施し
国民国家を作りあげた。これは前回のべました。
この国民国家を形成するのに、中国に日本とは違った障害がありました。
儒教思想による、家族・血族の絆重視の姿勢がそれです。
中国人には家族が最大の優先要素でした。
<家族と儒教思想>
これは儒教思想によります。
+++
ここでまた脇道に入りますが、思想に主導された行動形成については、
日本人は盲目なことが多いです。
自らに理念主導の行動様式がないので、他者が理解できないのです。
日本は理念が個人や社会集団の行動を形成していくことが少ない国です。
その時その時の状況で実利的に他者と調整を取りながら行動していく。
だから鳥瞰図・大局を見通せずに、周期的に大事故・大悲劇に陥る。
そして痛い目に遭ってまた修正していく。
これは歴史観の希薄さと表裏をなしていますが、とにかく自分がそうだから、
他国の理念主導の強さが追体験できない。
これは日本民族の長所でもあり、また、病気でもあります。
(この病気面は、聖句の歴史観を体系的に吟味することによって治癒されます)
+++
話を戻します。
儒教では、国の統治論も隣国の運営論も家族をイメージ基盤にして形成していました。
君主は家父長に相当し、家来はその子供たちでした。
隣国である朝鮮(兄)も日本(弟)もその息子でした。
その理念に主導されて中国では家族、血族が最大の優先要素でした。
「四世同堂(よんせいどうどう)」ということばが中国にはあります。
「四世代の家族が同じ屋根の下に住む」という意味です。
それは「そうして一緒に食事できるのが最高の幸福」というニュアンスにつながっています。
これには自分より前の二代(親と祖父母)と自分より後の二代(子と孫)と共に、
つまり、自分も含めて実質合計五世代が共に食事会を持つこと、という理解もあります。
がともかく、中国人にとって血族の子孫繁栄が最大の幸福という思想が強固でした。
+++
中国人民には国よりも家族と血族が大事だったのです。
血縁重視のこの思想は地縁重視の姿勢にも繋がっていきます。
彼らは、村の外敵には村人と一緒になって戦いました。
この意識がまた地方政府重視、地方分権重視にもつながります。
この地方政府は日本でいったら江戸時代の藩をイメージしたらいいでしょう。
前回述べたように、日本では家族の存在力は藩のように大きくありませんでした。
それは藩の都合に常に道を譲るべき人間集団単位でした。
対して中国では家族の基盤が非常に強固でした。
特に農村ではその思想が染みこんでいました。
そしてそれを支える経済的基盤が、彼らが自ら所有する農地でした。
彼らはその農地の上に何世代にわたって血族を維持してきました。
<儒教思想が支えた私有農地>
中国の農民の所有農地は、時代が近代に入っても安定していました。
多くの国家では経済が近代化して、貨幣経済が進展しますと、
小農民は貨幣的理由で土地を奪われていきます。
英国での「エンクロージャー(囲い込み)」はその一例でした。
経済生活に貨幣が必要な局面が増えますと、
小農民は貨幣の扱いに慣れていないが故に借金をするのです。
その形(カタ、抵当)にするのは農地しかありません。
だが借金の返済はいずれ不可能になり、彼らは農地を取られます。
そして大地主の小作労働者となったり都市の無産階級労働者となっていきます。
+++
だが、中国ではその現象は起きませんでした。
儒教思想がその防壁となってきたのです。
『論語』にある「以徳報怨」はその代表でした。
正確に言うと孔子自身は「徳を以て怨みに報いよ」とは教えていなかったようです。
それは彼への質問「徳を以て怨みに報いるという考えはどうでしょうか?」
の中で用いられている言葉です。
そして孔子自身は「怨みには誠実をもって報い、徳には徳を以て報いるのがいい」
と答えたといいます(憲問第十四の36)。
中国では後に老子が「怨(うら)みに報ゆるに徳をもってすべし」と説いたという。
だが以徳報怨は人間の心底にある人間愛の理想でもあります。
この言葉自体が、人の心に浸透する力を持っています。
それらによって以徳報怨は中国人一般の道徳となりました。
この思想の故に、小農民は私有地を所有し続けられたのです。
貸金者(多くは大地主)は小農民を、土地を取り上げられるところまでは、追い込まなかった。
貧しい農民が食べる糧を失う、その一歩前で許したのです。
例外もあったでしょうが、この儒教の「徳」によって、多くの中国農民たちは
私有農地の上に何世代にもわたって血族を継続させることができたのです。
<私有農地が国民国家の障害に>
ところが歴史とは皮肉なもので、
この麗しき風習が国民国家を作る上での強大な壁になっていました。
そうしたなかで孫文は、まず私有農地制を残したままで、国民国家化を志したのでした。
孫文ほどの人ですから、事態が進めばこの問題に新たな対処を考えたかも知れません。
だが、彼の生きた時代には、そこまで事態は進みませんでした。
蒋介石は、孫文の後継者であり、また、強い反共産主義者でもありました。
それ故に、戦前戦後一貫して私有農地容認の路線を進みました。
だが毛沢東の共産党は、中国人の根っこにある家族重視の意識習慣を解体しました。