ここで考えておかねばならぬ言葉がある。
「信じる」がそれだ。
前述したように、イエスの説く「救い」は、とても深く、詳細な論理をもっている。
だが、そこではイエスのこの贖罪の教えを「信じたものは、その通りに救われる」という言葉がでてくる。
これにぶつかると、我々は「やはり信じるものは救われるというのか」、「イエスの教えも結局は,いわゆる宗教なんだな」~と思う。
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もちろん、それでも相応の心理効果は考えられる。
当人の心に平安が生じるとか、また、それによって病気が治ることもあるかもしれない~とか。
だが、結局はキリスト教もまた、そういう気休めの宗教なのだ、~と我々は思うだろう。
<量子というとらえ方>
けれども、昨今、物理学の領域で量子力学という分野が発展してきている。
この知識のなかでは、「信じる」という意識にはもう少し手応えのある実体が伴っていそうに見えてくる。
(量子力学の思想は、我々に馴染みの少ない用語が多く、わかりにくい。
言ってることがピンと来ない人は今回はパスしてもかまわない)
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量子とは、最小の物質単位とされてきた素粒子の別名である。
物理学では、我々が目にする物質は分子によってできており、分子は、原子が組み合わさって出来ていることが明らかになった。
そして、その原子がさらに素粒子という小さな微粒子で出来ていることもわかった。
陽子、中性子、電子、光子などがそれである。
これら素粒子は、発見されたときには、粒子(つぶつぶの塊)だと思われてきた。
素粒子〔素になる粒子)という名はそのことに由来している。
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ところが後に、物質もこれくらいに微少になると、
従来考えられなかった不思議な現象をも起こすことがわかってきた。
理由はよくわからないが、どうもこれらの素粒子には波動のような性格もあって、それが予想されなかった現象を引き起こしているらしい。
物理学者はそう推定した。
そこで、これらの極小物質を新しく量子(りょうし:quantum)と呼んでとらえ直すことにした。
粒子と波動の集まりとの二つの面を重ね持つ存在と認識したのだ。
そしてこれを探求する学問を量子力学(りょうしりきがく)と呼ぶことにした。
<量子力学>
量子力学は、物理学の一つである。
物理学はニュートン以来、重力、磁力などの力の探求が主要課題になっている。
その意味で「物理学=力学」というう関係がほぼ成り立つ。
そこで、量子物理学と言わずに、むしろ量子力学と呼ばれることになった。
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量子力学が現れると、従来のニュートン物理学もアインシュタイン物理学も、古典物理学といわれることになった。
これらの物理学はみな、物質を、それ自体意識を持たない「モノ(物質)」として研究している。
ところが、量子力学は物質の最小単位を、波動という運動エネルギーと重なった量子としてみる。
すると、後述するように、それは人の意識活動の実体でもある可能性を持つことになる。
人の意識も波動を発する運動エネルギーだからだ。
これが最新の、いわば現代物理学だ。
けれども、ここまでくるとよくわからないことが多い。
「量子力学がよくわかっている人は誰もいない」とさえ言われることがある。
そういう不思議な物理学が量子力学なのである。
<粒子は波動の凝集体?>
そんななかで、「量子の粒子の面と、波動の面とは、どちらが根源的か」という問いも出てきた。
そのなかから結局、波動が根源なのだ、という思考が出た。
具体的には、波動を「ブルブルと高速で震えている超微小な輪ゴムのようなもの」イメージする。
そしてこれら超微小輪ゴムに、「超ひも」という名をつける。
すると粒子は、波動(超ひも)の凝集体で構成されている~とイメージできるようになる。
つまり、超微少な輪ゴムは、運動体であってブルブル震えて動いているのだが、それがあちこちで凝集することもあるだろう。
その凝集状態が、外目には、一つのかたまり(つぶ、粒子)にもみえる、というわけだ。
あるいは、波動の凝集体を手で感触出来たとイメージする。
するとそれは一つの粒子のように感じられるだろう。
<波動量子>
波動をベースとして量子をみていることを自覚するために、あえて波動量子という語を使ってもいいかもしれない。
ともあれ、ブルブル震えている波動量子はエネルギーでもある。
そして人の思い〔意識)もまた、エネルギー運動である。
すると、意識の実体は波動量子であるという認識も可能になる。
あるいは、意識は波動量子の凝集体ととらえることもできる。
<従来は電子の働きだった>
余談だが、人が意識活動をするとき、波動が出ている、ということは以前からわかっていた。
ただ、従来それは電子の活動によるという理解だった。
すなわち、人が意識活動をするとき、脳神経系に電子が流れることが、脳生理学でわかっていた。
他方、電子が流れるところでは波動が出ることが、古典物理学で明らかになっていた。
~それを組み合わせると、意識活動有るところには波動が出ている、となる。
従来、そういう思考でもって、意識活動をするとき波動が出ると、考えられていた。
アルファー波、ベーター波などの概念はこの思考の線上にある。
<言葉は波動凝固体>
だが、量子力学の世界では量子自体が波動である。
波動が凝集すると、まとまった波動体となる。
そしてそれは意識そのものともなるのだ。
すると、言葉〔概念)も波動量子群の凝固体となり、理論や思想はその連なり(体系)ということにもなる。
<光子での実験>
量子力学では、もうひとつ、驚くべき事象が発見されている。
「量子は認識されることによって変化する」というのがそれである。
ここで詳しくは述べられないが、光子という量子についてある実験がなされた。
光子(こうし)は 我々の目に入ってくる素粒子の一つで、それは量子でもある。
ここで、人に新しく認識される前の光子と、それが認識された後の状態とが比較された。
すると、人に認識される前の光子の状態と、認識された後の状態は、異なっていた。
つまり、光子という量子は、認識されることによって、変質することが確かめられたのだ。
<意識が対象量子に変化をもたらす>
さて、これからは筆者の推察である。
もし光子でわかったことが、量子一般についても言えるとなれば、こうなる。
つまり、意識を形成する量子群は、他者に認識されることによってその状態が変化するのだ。
ならばそれはまた、その認識のされ方によっても、異なっていくのではないか。
そこまでは実験で確かめられてはいないが、筆者には妥当であるように思われる。
<「信じる」という認識方法>
さてここでいよいよ「信じる」という言葉の意味を考えよう。
「信じる」とは何か?
認識論的に言えばそれは、「見えない存在に対して“存在する”と、肯定的に認識する行為」である。
人間は逆に、見えないものに対して「そんなものは存在しない」と否定的に認識することも出来る。
こうみると、「信じる」とは見えないものへの認識の一方法であることがわかる。
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これを筆者の認識、つまり、「量子は認識されることによって、その状態が変化するらしい」を組み合わせるとどうなるか。
おそらく量子は、それが肯定的に認識される場合と、否定的に認識される場合とでも、異なって変化するだろう。
イエスの贖罪の教えも、一つの思想であり、その実体は量子群である。
量子であるから、それが肯定的に認識されるか、否定的に認識されるか、で変化の状態が異なるはずだ。
つまり「信じられる」ときと「信じられない」ときとでは、この贖罪の思想の量子群は、異なったものになるはずだ。
イエスは「その信じられたことで変化した状態の量子群だけが、贖罪の力を発揮する」ことを示したのではないか。
こう受け取ると、「信じる」という意識活動も、量子的実体を持った物理事象だとますます思えてくる。
<「イエスの言葉が裁く」とは?>
余談だが、この量子力学的認識は、従来ハッキリしなかった一聖句にも明確なイメージを形成する。
イエスに~
「私を拒み、私の言うことを受け入れない者には、その人を裁くものがある。
私が話した言葉が、終わりの日にその人を裁くのだ」(ヨハネによる福音書、12章58節)
~という聖句がある。
この「言葉を受け入れない人を、その言葉が〔終わりの日に)裁く」という聖句の意味は、従来わかりにくかった。
「言葉が裁く」とは、どういうことか。
イエスは自分が話した言葉が裁きのルールになることを示すために、そういう言い方をしているのでは?~というような解釈が従来なされてきた。
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だが、量子力学の世界では解読はもっと率直になる。
イエスが語った言葉は、波動量子群という実体になっている。
それは肯定的に認識されれば、相応に変質する。
否定的に認識されれば、また別の様式に変質する。
二つの結果は、別物になる。
そして、否定的に認識された場合、その変質体は、人格を持った意識体として、受容を拒否したものを裁き、有罪判決をする。
~こういう認識になる。
他方、肯定的に認識された場合には、その量子群は、認識者の霊を活かす強力な量子群となって働くだろう。
このようにして、イエスの上記の言葉は、明確に理解できるようになるのである。
<物質と意識を融合させる>
量子力学は、「十分にわかっている人はいない」といわれるほどに、まだ発展途上である。
だが、そうした中でも、すでに量子コンピューターが実際に完成し作動している。
それは量子力学の理論で製造したもので、従来の、古典物理学理論をベースにしたスーパーコンピューターの何万倍という速度の計算能力を持っている。
そういう事象が実際に起きている。
量子力学は単なる、空想理論ではないのだ。
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アインシュタインまでの古典物理学では、認識される対象は、「認識のされ方」に影響されることのない、独立した存在と思われてきた。
そうであれば、「信じる」とは単なる当人の「思いよう、考えよう」となる。
さすれば、「信じれば救われる」は、当人の心に主観的で感情的な「気休め」を与えるだけの言葉となる。
だが量子力学の世界では、「信じる」という意識は、量子群という影響力を持った実体となるのである。