鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

随想1.神本主義の世界観

2016年10月13日 | 随想





邦訳書の連載が終わりました。

ここで、鹿嶋の普段思うところを述べさせてください。

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聖書は神本主義の本だ、というと、一般の人も敢えて否定はしません。

クリスチャンの場合は教会で、そのように教わっています。
  
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つまり~

創造神は被造物より絶対的に上位にあるという存在観が聖書の存在観だ。

  創造神が上位に立って、被造物を統治している、という世界観だ

~といいます。

聖書の思想は人本主義(人間本位の人間中心主義)ではないよ、といいます。

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そこまでは漠然とイメージしています。

だが、それが世界の歴史展開にどうつながっているか。

多くの場合、イメージはそこまで繋がってはいません。





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では、創造神が展開する世界史の骨子を述べてみましょう。

聖書の創造神は、父、子、聖霊の三者です。

その創造神が、被造物より上位に立って展開する世界の歴史とはどういうものかを見ましょう。




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創造神の意志は、自らの懐にいる愛する御子イエスのために王国を創り、王座に就かせて統治を続ける状態にすることです。

そういう王国を御子に与えることです。

人間の親が、わが子を他の子よりも愛するように、創造神も御子が一番可愛いのです。



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その王国が、人々の言う天国です。

正確には、天の創造神王国です。

御子がそこの王座に就き、天国を統治していくようにするのが父なる創造神の意志です。

歴史はそれに向かって展開され、意志が完遂したら、骨子は終わりです。





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そのために、御子にさせるべきことがあります。

・その第一が、悪魔の心にある創造神への殺意の証拠を挙げることです。

    創造神は、その時々にやりたい放題をする神ではありません。

     契約(ルール)に則ってことをなしていく「義の神」です。

     裁きは、証拠が挙がらなければ、行えません。

      その証拠を挙げるために、御子を、人間(人の子)としてこの地上に来させます。
 
    人間は「死のある」存在です。

     御子は「人の子」として、この地上に来て、悪魔に用いられた人間に殺されねばなりません。



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・第二は、御子が死を体験して、死を知ることです。

    御子は創造神の子であって、永続者であり、死ぬことの無い存在です。

      だから、そのままの状態では、死を体験によって味わって知ることがありません。

     けれども、御子は天国では天使などの被造物を統治せねばなりません。

        被造物には、死があります。

         その死とはどういうものか?

     それは霊が肉体を抜け出ると起きることですが、御子はそれを味わって、体験的にも知る必要があります。

         それによって、被造物をより完全に統治出来るのです。

    そしてこれも死のある「人の子」として地上に来て、悪魔に操作された人間によって、殺されることで成し遂げられます。

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このようにして、死を味わって知ったら、必要条件は満たされます。

その上で御子は、復活して天に昇って王座に就き、王として天国を完璧に統治するのです。



    

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さらに、もう一つの仕事をプラスアルファとして創造神は御子に課します。

それは人間に対することです。

そもそも、創造神は人間を、御子がこの世に来る道として創っています。

端的には、自分(と御子)の都合で創っています。

しかも人間を、悪魔の支配するこの世に創っています。

だから、人間はだまされ、罪を犯して、悲惨な人生を送っています。

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創造神と御子は、この人間を、あわれみ、深く深く愛します。

そこで、人間が天国に来られるためのチャンスを創ります。

いわゆる「救い」を受けるチャンスです。

これが第三といえば第三の、御子の課題です。




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そのため御子は、悪魔にだまされて人間が抱いてしまっている罪を取り除く手段を創ります。

それは罪の代償として自ら死に、大量の血を死の際に流すことです。

 そして、イエスの死とこの血が罪の代償になると、肯定的に認識した(信じた)ものには、そのようになると定めます。




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この第三の課題の内容は微妙です。

  イエスは十字架刑で殺されて救いの機会を創り、復活してこの方法を弟子に「地の果てまでのベ伝えよ」と命じます。

そして命じて、自分はさっさと天国に昇ってしまいます。

あとは「聖霊が助けるよ」といっていなくなってしまうのです。

つまり、そこまでが、御子が天の王座につくための義務なのです。

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弟子の伝えるところを聞いて、個々の人間がそれを肯定的に受け入れるかどうかは、個々人の自由意志にゆだねられているのです。

人類の全員がこの知らせを信じるようにするのは、御子の義務ではない。

ほとんどの人類が信じなくても、復活した御子は天に入って王座に就くことができるのです。




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これはどういうことでしょうか。

この救いの機会は、創造神からの人間への「プレゼント」だということです。

プレゼントは、受けることも出来るし、受け取らないことも出来るものです。

これが「救い」の実態です。

創造神が御子に命じて与える「救い」(プレゼント)はそこまでです。





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「冷たいではないの!」

「勝手じゃないの、勝手に創っておいて・・・」

「どうして全員救わないのよ!」


人間は最初そう感じがちです。

だが、そのとき、人間は、自分本位に、つまり、人本主義的になって考えているのです。

御子が十字架死するのは、ひとえに人間のためであったと思ってしまう。

するとそれは御子の義務であった・・・と考えてしまいます。


すると「だったら全員救うのが当然でしょ!」と、思っていきます。


だがそうすると、実は、信仰も、純粋なものにならないのです。

賛美も、「ワンランク上の方にしている」という意識でのものにならないのです。

不思議ですけど・・・。





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神本主義では、基本は、人間に何もしないで天国に昇って王座に就くのも、創造神の自由となります。

テレビを作った人間は、テレビ受像器を自由に使って、旧くなったら処分してしまいます。

このようように、「創った側」は「創られた側」より、絶対的に上位にあります。

愛着を持つも持たないも、人間の側の自由です。

創造神はその「創った側」なのです。

そこから出発すると、純化した感謝が湧いてきます。




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本来創造神は自由に出来る。

なのに人間をあわれみ、深く愛して、救いのチャンスを創った。

御子が、拷問を受け、鞭で身を割かれて大量に血を流し、救いの道を作った。

死ぬのは血を流さなくても、窒息死でも、殴られての即死でも、死ぬことが出来るのです。

なのに、御子は血を流した。

そうやって、プレゼントを創った。

天に昇るために必要ではないのに・・・。

それは感謝なことではないか。

・・・こうなってきます。

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そして、そのように神本主義的に認識したときに、実は、信仰も純化し、

創造神賛美も、純化した心で出来るのです。




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御子が王座に就くための必要課題は、厳密に言うと上記の内の第一と第二だけです。

第三の仕事は、人間をあわれみ、深く愛するが故の、プレゼント造りだったのです。

そして、聖書の個々の聖句、個々の出来事、物語は、この骨組みの枠の中に位置づけると、突然明確に理解できてきます。

これが聖書メッセージの神髄に沿った枠組み(骨子)なのですから。


(神本主義の歴史観    完)










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