鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

随想6.聖書に対する二つの姿勢

2016年10月31日 | 随想






聖書という書物にわれわれ人間が取り組む際には、ふたつの姿勢があります。




一つは、これでもって心の平安を得ようとする姿勢です。

これは、現時点で悩みがあって、苦しむと、この姿勢をとりやすいです。

この場合には、たとえばイエスの次の言葉が心にしみます。




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「すべて,疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところにきなさい。

わたしがあなたがたを休ませてあげます。
 
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしからまなびなさい。

そうすれば、たましいに安らぎがきます。

わたしのくぎきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」

(マタイによる福音書、11章28-9節)

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苦しいときには、このことばが実際に心の平安を与えてくれます。

すると人は、これに繋がる聖句をさらに味わっていきます。





<全存在界を知りたいという姿勢>


第二は、、見える世界(物質界),見えない世界(霊界)をも含む、存在界全体を知ろうとする姿勢です。

こちらは比較的知的な姿勢です。

物質世界を認識する際に用いられるのが五感覚(五感・・・視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)です。

この人はそれに、霊感をも積極的に加えます。

この両者でもって認識世界を霊界にも拡大して、世界の全体的認識を得ようというのです。





<姿勢はアプローチとも言われる>

ちなみに、この「姿勢」のことを英語ではアプローチと言います。

アプローチは接近という意味ですが、この場合は対象に接近していく姿勢、といったニュアンスで用いられます。




<豊かな思想内容>

第二のアプローチは、聖書という教典でこそとれる、ともいうべき、独特の姿勢です。

もちろん、他の宗教経典にも探求さるべき内容は皆無ではありません。

けれども、教典は日常語に訳されていないと、内容の探索はむずかしく、当面、本格的に訳されている教典は聖書のみです。

また、探求する毎にその豊かさが感銘を与える世界を、聖書メッセージは持っています。





<在物神信仰に混ざっていく可能性>

これに対して、第一のアプローチは、それだけを続けていると、在物神信仰と混じり合う可能性を持ってきます。

在物神は、鹿嶋の造語で、「物的な存在物の中に染み込んでいるとイメージされる神」です。

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石や木材や金属でつくった像に祈る人は、そのなかに神様が染み込んでいるとイメージして拝んでいます。

つくられた建物のなかにいるとイメージされる神様もいます。

さらに、空や川や海や山にも神様の内在がイメージされることもあります。

奈良の三輪神社のご神体は、三輪山という山です。

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なお、神とは「見えない影響者」と理解しておいていいでしょう。

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ところが聖書の神は、それらのもの全てを創った創造神なのです。

この神のイメージを在物神イメージと混同していったら、聖書メッセージの核心と外れることになってしまいます。


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けれどもわれわれ人間は、在物神にとにかく願い、求め、すがるという心理を持っています。

そして、日本では在物神信仰がとても盛んなのです。

そこで、日本人は特に、在物神的なイメージを抱いて,聖書の神に祈り求め易くなります。




しかし、中には、第一のアプローチを採っていて、そのうちに第二の道にも入っていく人もでます。

そうすると、その人の願いは知的にも霊的にも豊かなものになっていきます。




<アプローチには二つがあることをまずとにかく知る>


鳥瞰してみると、これら二つの取り組み姿勢(アプローチ)は、基本的にはどちらをとってもいいものです。

ではありますが、まずは我々は、こういう二つのアプローチを聖書という書物は許容するものだということを、自覚することが大切だと思います。






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