前回、量子論のおかげで、ヨハネ15:7の「「諸君(弟子たち)が私イエス)の内に留まり、かつ、私が諸君の内に留まる」という聖句を物理的にイメージできるようになった~ことをみてきた。
だが、それでもこの聖句は「我々が意識に留める」には実際上難しいところがある。
今回は、その「実践上の障壁」を取り除く方策を考えておこう。
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「創造神が我々の内に入る」ときくと我々の心には恐れ生じるのだ。
これ、クリスチャンも例外でないよ。
・聖なる創造神様が、こんな私の(霊の)内に入って住まわれるなんて」、そんな恐れ多いことが起きるはずがない!
・私はこれまでの人生で、自分の汚れを沢山認知してきている。
・私の良心が、それを体験してきている。
・「神様が内住して下さっている」なんて、「平気で」言ってる人は神を恐れぬ傲慢な人間だ・・・。
~こう反射的に思って、人はフリーズする。
顔も身体も萎縮して固まってしまって、イエスのこの言葉を考えるのをやめてしまう。
その結果、この聖句は放念してしまったりもする。
<自然の情には聖句で対処する>
これは生きとし生きるものが抱く、自然の情だ。
でも、この壁を崩さないと「夢の果実」には至れない。
どうしたらいいか?
産まれながらの情に対処するには、やはり、聖句でもって対応するしかない。
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まず、思考を小休止する。
そして黙想し、聖句の波動を聞く。
すると、事態を打開する聖句が浮上してくるだろう。
有用な一つは、次の聖句(イエスの言葉)だ。
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「これは契約の血です。罪を許すため、多くの人のために流されるものです」
(マタイによる福音書、26章28節)
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<「イエスの十字架で許された」はアバウトな認識>
聖書は「私のような汚れたものに・・・」という「汚れ」の源は、「罪」だとしている。
罪があるから汚れが生じている。
そしてその罪を相殺するのは「イエスの十字架」とか「十字架死」だとか漠然と思っている人は多い。
だがそれはアバウトな認識だ。
Sサイズの人に、Lサイズの洋服をあてがうような認識で、間違いではないが、いいかげんなところがある。
上記聖句は、罪を許すのは「イエスの血」だとズバリ言っている。
<ピンポイントは「血」>
これは、イエスが十字架死をする前に受ける拷問の際に流す血だ。
大量の血が流れ出る。
十字架に釘付けされるときも、兵士が槍でイエスの脇腹を刺すときにも、イエスの血は噴き出す。
これらの血が、ずばり「信じる者の罪を洗い流す実体」というのが聖書の正確な論理なのだ。
<旧約聖書との照応>
そのことは旧約聖書と照応させると浮上してくる。
旧約では、エホバ神が~モーセを通して~イスラエルの民にこう命じている~。
~(幕屋(神殿の前身)には、聖職者が罪の赦しを祈る聖所がある。
その奥に至聖所があって、そこは究極の祈りの場所である。
そこには毎年、選ばれた一人の祭司が入ることが出来る。
その祭司はそこで、屠ほふ)られた動物(若い雄牛や子羊)の血をで七度降りそそげ)~と。
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「・・・会衆の長老たちは、エホバ神の前でその雄牛の頭の上に手を置き、その雄牛をエホバ神の前でほふりなさい。
油注がれた祭司は、その雄牛の血を会見の天幕に持って入り、祭司は指を血の中に浸して、エホバ神の前、垂れ幕の前に、七たび振りかけなさい。・・・・」
『レビ記』4章15-17節
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~といった如くに。
この血が、直前の一年間にわたる、民が犯してきた罪の贖い(代償)になるというのである。
<影と本物>
旧約聖書に書かれていることは、新約聖書に書かれている真理の影である。
これは聖書の鉄則だ。
今みたように旧約聖書では、殺される動物(子羊など)の血が、罪の代償として振りかけられている。
それが本物であるイエスの影のだとすると、本物の生け贄はイエスであり、罪の代償はその血だということになる。
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ちなみに、これは次のような論理にも繋がっていく~。
すなわち、旧約における動物はイエスの影だから、その血は、毎年流されねばならない。
だがイエスは本物だから、その血は一度流されたら永遠に有効となる。
このようにイエスの血は永遠の贖いの力を持つ、と。
~聖書全体では、そういう論理構造になっている。
<物理的イメージは>
これには、次のような論理も繋がっている。
~旧約聖書には「血はいのち」とある。(『申命記』12章23節)
そしてイエスの血は「いのち(エネルギー波動)の凝集体」だ。
イエスのその "いのち”は、宇宙を含む被造物のすべてを存在たらしめた、巨大なエネルギーでもある。
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他方、人間の罪は、「いのち」概念を用いて言えば、「マイナスのいのちエネルギー体」だ。
人間は宇宙からしたら塵にも及ばないサイズの存在だ。
その塵以下の内にある「マイナスのいのちエネルギー」など量的には微々たるものだ。
それは、創造神の御子イエスの巨大な「プラスのいのちエネルギー」にあたれば
ロウソクの火が吹き消されるように消滅する。
当人が、後悔してもしきれないと悩み苦しむ罪も、この巨大なエネルギーによればあとかたなく洗い流されることになる~と
<傍証する聖句たち>
・・・聖書には、それらを傍証する聖句もある。
・「人の子」として地上に現れた創造神の御子イエス。
・その十字架死までの生涯と死のありさま。
・復活し500人の前に現れた、という記録。
・福音の宣教命令とそれに伴うしるし(奇跡)。
・イエスの昇天の様
~などなど。
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これらが形成する意識波動群は、人間の人生経験のなかで蓄積された罪悪感と当初は~当人の心の中で~激しい戦いを繰り広げるだろう。
だが結局は聖句にある力が勝る。
その波動が罪悪感の波動を凌駕していく。
「自分はイエスの血で完全に聖められている」という確信が心の中に満ちるだろう。
そのとき、創造神(のことば)が「自分の内に住まわれる」という理念への恐れは消滅する。
それに併行して、「私の言葉が諸君の内に入って住まう」というイエスのことばは、人間の平安な心のうちに内住していくだろう。
今回は、ここまでにしよう。