鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

54.最悪感には「血の代償」の実在感で

2018年06月07日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 

 

前回、量子論のおかげで、ヨハネ15:7の「「諸君(弟子たち)が私イエス)の内に留まり、かつ、私が諸君の内に留まる」という聖句を物理的にイメージできるようになった~ことをみてきた。

だが、それでもこの聖句は「我々が意識に留める」には実際上難しいところがある。

今回は、その「実践上の障壁」を取り除く方策を考えておこう。

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「創造神が我々の内に入る」ときくと我々の心には恐れ生じるのだ。


これ、クリスチャンも例外でないよ。

・聖なる創造神様が、こんな私の(霊の)内に入って住まわれるなんて」、そんな恐れ多いことが起きるはずがない!

・私はこれまでの人生で、自分の汚れを沢山認知してきている。

・私の良心が、それを体験してきている

・「神様が内住して下さっている」なんて、「平気で」言ってる人は神を恐れぬ傲慢な人間だ・・・。


~こう反射的に思って、人はフリーズする。

顔も身体も萎縮して固まってしまって、イエスのこの言葉を考えるのをやめてしまう。

その結果、この聖句は放念してしまったりもする。
 
 
 

 

<自然の情には聖句で対処する>

これは生きとし生きるものが抱く、自然の情だ。

でも、この壁を崩さないと「夢の果実」には至れない。

どうしたらいいか?

産まれながらの情に対処するには、やはり、聖句でもって対応するしかない。

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まず、思考を小休止する。

そして黙想し、聖句の波動を聞く。

すると、事態を打開する聖句が浮上してくるだろう。

有用な一つは、次の聖句(イエスの言葉)だ。

・・・・・・・・・・・・・・
「これは契約の血です。罪を許すため、多くの人のために流されるものです」
    (マタイによる福音書、26章28節)
・・・・・・・・・・・・・・

 



<「イエスの十字架で許された」はアバウトな認識>


聖書は「私のような汚れたものに・・・」という「汚れ」の源は、「罪」だとしている。

罪があるから汚れが生じている。

そしてその罪を相殺するのは「イエスの十字架」とか「十字架死」だとか漠然と思っている人は多い。

だがそれはアバウトな認識だ。

Sサイズの人に、Lサイズの洋服をあてがうような認識で、間違いではないが、いいかげんなところがある。

上記聖句は、罪を許すのは「イエスの血」だとズバリ言っている。


 
 


<ピンポイントは「血」>


これは、イエスが十字架死をする前に受ける拷問の際に流す血だ。

大量の血が流れ出る。

十字架に釘付けされるときも、兵士が槍でイエスの脇腹を刺すときにも、イエスの血は噴き出す。

これらの血が、ずばり「信じる者の罪を洗い流す実体」というのが聖書の正確な論理なのだ。


 
 
 

<旧約聖書との照応>

そのことは旧約聖書と照応させると浮上してくる。

旧約では、エホバ神が~モーセを通して~イスラエルの民にこう命じている~。


~(幕屋(神殿の前身)には、聖職者が罪の赦しを祈る聖所がある。

その奥に至聖所があって、そこは究極の祈りの場所である。

そこには毎年、選ばれた一人の祭司が入ることが出来る。

その祭司はそこで、屠ほふ)られた動物(若い雄牛や子羊)の血をで七度降りそそげ)~と。


・・・・・・・・・・・・・
「・・・会衆の長老たちは、エホバ神の前でその雄牛の頭の上に手を置き、その雄牛をエホバ神の前でほふりなさい。
油注がれた祭司は、その雄牛の血を会見の天幕に持って入り、祭司は指を血の中に浸して、エホバ神の前、垂れ幕の前に、七たび振りかけなさい。・・・・」
   『レビ記』4章15-17節
・・・・・・・・・・・・・


~といった如くに。

この血が、直前の一年間にわたる、民が犯してきた罪の贖い(代償)になるというのである。


 




<影と本物>
 


旧約聖書に書かれていることは、新約聖書に書かれている真理の影である。

これは聖書の鉄則だ。
 
今みたように旧約聖書では、殺される動物(子羊など)の血が、罪の代償として振りかけられている。

それが本物であるイエスの影のだとすると、本物の生け贄はイエスであり、罪の代償はその血だということになる。

+++

ちなみに、これは次のような論理にも繋がっていく~。
 
すなわち、旧約における動物はイエスの影だから、その血は、毎年流されねばならない。
 
だがイエスは本物だから、その血は一度流されたら永遠に有効となる。
 
このようにイエスの血は永遠の贖いの力を持つ、と。
 
~聖書全体では、そういう論理構造になっている。

 
 
 
 

<物理的イメージは>
 
 
これには、次のような論理も繋がっている。
 
~旧約聖書には「血はいのち」とある。(『申命記』12章23節)

そしてイエスの血は「いのち(エネルギー波動)の凝集体」だ。

イエスのその "いのち”は、宇宙を含む被造物のすべてを存在たらしめた、巨大なエネルギーでもある。


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他方、人間の罪は、「いのち」概念を用いて言えば、「マイナスのいのちエネルギー体」だ。

人間は宇宙からしたら塵にも及ばないサイズの存在だ。

その塵以下の内にある「マイナスのいのちエネルギー」など量的には微々たるものだ。

それは、創造神の御子イエスの巨大な「プラスのいのちエネルギー」にあたれば
ロウソクの火が吹き消されるように消滅する。

当人が、後悔してもしきれないと悩み苦しむ罪も、この巨大なエネルギーによればあとかたなく洗い流されることになる~と
 
 
 
 
 
<傍証する聖句たち>


・・・聖書には、それらを傍証する聖句もある。

・「人の子」として地上に現れた創造神の御子イエス。

・その十字架死までの生涯と死のありさま。

・復活し500人の前に現れた、という記録。

・福音の宣教命令とそれに伴うしるし(奇跡)。

・イエスの昇天の様

     ~などなど。

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これらが形成する意識波動群は、人間の人生経験のなかで蓄積された罪悪感と当初は~当人の心の中で~激しい戦いを繰り広げるだろう。

だが結局は聖句にある力が勝る。

その波動が罪悪感の波動を凌駕していく。

「自分はイエスの血で完全に聖められている」という確信が心の中に満ちるだろう。

そのとき、創造神(のことば)が「自分の内に住まわれる」という理念への恐れは消滅する。

それに併行して、「私の言葉が諸君の内に入って住まう」というイエスのことばは、人間の平安な心のうちに内住していくだろう。


今回は、ここまでにしよう。


 








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