臨時版を差し挟む~。
日本人は、神とか、見えない世界のことになると、その存在を「ゼロか百か」という思考パタンでしか考えられない。
~この危険性を、鹿嶋はこのブログでも警告してきた。
だが、こんな程度の警告ではおっつかない。これはもっと繰り返し警告せねばならない。
そう痛感させられる事態を、最近も友人から耳にした。

<チャーチスクールの迷走>
彼も聖書の探求者だ。
探究するにつれ、この書物の持つ深い知恵に感銘し、それを取り入れて人生を送っている。
教会には所属していないが、外見的にはクリスチャンとみられている。
+++
その友人のお孫さんは、チャーチスクールに通う小学生だった。
一般にチャーチスクールには愛があり、自由がある。
また、聖書に基づいた世界理念、人間理念も教えられている。
(これは貴重なことである。特に戦後日本の学校教育は無理念教育だから)
+++
だが、あるときスクールの現場の先生は「生徒にもっと信仰を!」との情熱に燃え始めた。
子どもを集めて賛美歌を延々と合唱させて、もっともっと感覚的にキリスト教理念で包もうとした。
子どもたちには、長い賛美の繰り返しが終わると、ボーとしてしまっている姿がみられるようになった。
それを見て親(友人の娘)は考えた。
~小学生は、まだ、教科書の学問知識を用いて知力を育成していく段階だ。
なのに、学問文化は「世のもの」だとして軽視し、「天のもの」を歌う賛美歌に没入させようという。
善意なのはよくわかるが、これはもう洗脳ではないか。

<キリスト教観も悪化>
母親の考えは展開した。
~これでキリスト教会の正体もわかった。
やはり宗教なのだ。
人を洗脳して妄想に取り込もうとする。
そう考えた母親は、教会に、さらにキリスト教に失望した。
しばらくして子どもを居住区の公立学校に移した。
同時に鹿嶋の友人(祖父)からも孫を遠ざけようとし始めた。
子どもがキリスト教の影響を受けないように~と。
とにかく宗教的・キリスト教的なあらゆるものから、自分らを隔絶せねばならない、と。
~そういう話を友人はしていた。

<日本では起きるべくして起きる事態>
これは、(日本では特に)起きるべくして起きる事態だ。
根底に横たわる原因は、「見えない影響者」である神を認識する考え方にある。
「絶対的に信じるか、全く信じないか」の二つしか認識方法がないと、暗黙に思っていることにある。
こうなると、教会員は信じたら100%信じなければならない、という思いになる。
外部の一般人もまた「信者は100%盲目的に信じている妄想者だ」と思うしかなくなる。
「鰯の頭も信仰」というけど、全くその通りだなぁ~と思う。
+++
で、当の信仰者はどうかというと、「100%信じないといけない」という恐怖感に内心さいなまれれて暮らすことになる。
スクールでボランティアとして奉仕する先生方(教会員で信徒さん)も「子供たちの信仰を100%にせねばならぬ」という思いを内心もつことになる。
それが何かの契機で今回、発露した。
スクール生の母親は、そういう状況に抑圧感を直感した。
子どもをスクールから離し、自分も教会から離れた。
+++
繰り返すが、根底原因は「宗教は100%信じるか、信じないか」というものだ、という通念にある。
信仰者、未信仰者を問わず、日本人の99.99%はそういう暗黙の通念に落ち込んで暮らしている。

<在物神宗教しか知らなかった>
日本でそうなった理由は、歴史の中に在る。
日本人は歴史的に、(このシリーズで述べた)在物神宗教~物質の中に染み込んでいるとイメージされた神を信仰する宗教~しか持ったことがないからだ。
在物神には「神とはどういう存在なのか」を述べる理論がない。
ただ、物質(墓石や骨や像や建物や山や空などの)から受ける感慨だけがある。
感慨には論理はなく、漠然とした手がかりにしかならない。
これでは「信じるか信じないか」の選択~それは実質上百パーセントかゼロパーセントかの心理になる~に行くしかなくなる。
+++
だが日本人は、在物神宗教の経験しかないので、それ以外の認識方法を持たない。
その結果、「宗教とはそういうものだ」という思考が慣習になり、かつその思考が心底深くに染み込んでいる。
キリスト教会に通う信徒さんたちも~そして牧師さんも~そうだ。
だから、突然「世は悪魔のもの」という聖句をがぶ飲みして~詳細に吟味することなしに~福音賛美歌に子どもたちを没入させようともするのだ。
大人自身も教会で説教を聞いても、「これは100%信じねばならないもの」だとして、考えることをしないのだ。

<創造神宗教には神の理論がある>
日本には明治になってようやく、教典を伴ったキリスト教が入ってきた。
キリスト教は創造神宗教だ。
教典には「創造神とはどういう神か」を述べている理論がある。
そこには神を理性で吟味するという「知」の介入する余地がある。
理性というのは、創造神という「見えない影響者」の存在可能性を、まず、五分五分と考える。
だって、見えないのだからね。
見えないものを「存在する」と断言できないが、同時に、「存在しない」とも断言できない。
見えないのに「存在しない!」というのもおかしい。
「理性・知性」は自由にされていたら~恐怖感にさらされたりしないで~そういう風に働く。
それは「まずは五分五分だね」という風に働く。

<信仰に「知性」を>
使徒パウロの「信仰に知性を」も、そう認識すべきことを言っている。
それが~理性、知性という能力を与えられた~人間が採るべき、最適な姿勢という姿勢だ。
五分五分からはじめて、聖句と、生活体験とをつきあわせて探究をすすめる。
すると、心理的な確率が六分四分になったり、七分三分になったりするだろう。
また、逆に四分六分になったりもするだろう。
それでいいのだ。
それが理性を与えられた人間の採るべき道だ。
+++
ところがそれが日本では、「百かゼロか」の思考になってしまっている。
この暗黙の思考習慣が「信仰に知を」にカバーをかけて、見えなくしてしまっている。
そういう事態がもたらす悲喜劇が、今度の友人の話でまたまた露呈したのだ。
+++
友人は、日本には0.01%しかいない、希なる聖書吟味者だ。
「見えない世界」の存在可能性を五分五分から思考開始している。
世界には創造神が存在するという「オレの確信はいま70%くらいかな・・・」などといっている。
ところが、孫の親(娘)には「100%の妄想信者」としか見えない。
「当面、これは手が付けられないなぁ」・・・と彼はいう。
+++
それを聞いて鹿嶋は、日本人は危険な爆弾を抱きながら生きる民族だなぁ・・と、改めて思い知らされた。
「五分五分から始める思考」がいかに大切かを、もっと宣べ伝えねばならない、と痛感した。

<知の希薄な民族>
こんな思考状態が続けば、日本人の知性は、純朴なままだろう。
「見えない世界」への思考様式は、「見える世界」への思考にも影響する。
純朴な知性は、人民の政治見識にも現れる。
日本は世界でも珍しい、「政治見識の低い、経済だけの先進国」~との評が国際社会で定着しつつある。
この印象を終わらせる鍵も「五分五分思考」にある。
