鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

32.愛は意志で創成・強化もできる~自然愛と創成愛~

2019年01月11日 | 鬱を打破する聖書の論理

 

前回、イエスの「夢の(約束の)言葉」
 
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「(Ⅰ)「諸君がわたしの言葉に留まり、(II)わたしの言葉が諸君の内に留まるなら、(III)求めるものはすべて与えられます」
(ヨハネによる福音書、15章7節)
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~の、(I)から(II)に移行するには、イエスとの同一化が必要であり、同一化を実現する鍵は「イエスを愛すること」だと述べた。

これは一見容易にみえるが、現実はそう簡単ではない。

             

<自然愛と創成愛>

愛には二種類ある。

一つは「心に自然に発生する愛」で、①「自然愛」とでもいうべきものだ。
もう一つは「意志の力で創り出す愛」で、これは②「創成愛」といっていいだろう。

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新約聖書でイエスが教えている愛は、ほとんどがこの創成愛である。
 
たとえば、「山上の垂訓」と通称される教えで、イエスは次のように述べている。

 
 
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「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』といわれたのをあなた方は聞いています。
しかし、わたしはあなた方に言います。自分の敵を愛し、迫害するもののために祈りなさい。
それでこそ、天におられるあなたがたの父の子供になれるのです」
   (マタイによる福音書、7章43-45節)
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「自分の隣人を愛する愛」は自然の情として心に生じるもので、①の自然愛だ。
「だが敵を愛する」というのは、自然発生はしない。
これは意志の力で創生し、増強しようとしてはじめて出来る②創成愛なのだ。
 
ここでイエスが教えている愛も、並大抵の努力では出来るものではない。
それこそ「死ぬ思いでの」決心をせねばならないだろう。
そういう愛を持続する過程で、心を開いて相手に接近することによって、その開いた心を傷つけられることも多々起きる。
それにも耐え続けねばならないのだ。

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イエスと「同一化」するとは、ズバリ言えば「自分も(ほとんど)イエスになってしまう」ことだ。
そういう愛は、意志の力で創成し、強め、深化させる愛でしかありえない。
 
その実践にはもとより大努力が必要だが、今のわれわれ日本人には、そのタイプの愛に気づくこと自体からして困難になっている。

 


<戦後日本人の習慣的感性>

現代人は、愛とは①の自然愛のことだと、ほとんど思うに至っているのだ。

特にわれわれ戦後日本人は、創成愛などほとんど眼中にない心理状態で暮らしてきているのだ。

敗戦後の日本ではハリウッド映画の恋愛物語に触れる機会が激増した。
また、昭和30年代にはTVが出来て、米国の医師や米国兵士の欧州戦線での働きを描くドラマが日常的に茶の間で見られるようになった。

彼らの行為は人間愛に満ちていた。

そこでの登場人物の愛は自然愛だが、それは概して、戦前の日本人よりも大きく強い。
それには、福音の影響するところが大きいだろうが、ともあれ、登場人物達の行動は見ていて心地いいものだった。
好感が持て、学ぶところも多かった。

それらが創成愛をベールで覆った。日本人の自然愛重視の精神風潮を形成した。
その中で育った、戦後の日本人には、愛を人為的に意志の力で創成することは、カッコわるくて、偽善的でダサいといいう感覚が先立つようになった。

そういう習慣的感性をもってしまっている我々が、強大な愛を意志の力で創成する状況をイメージすること自体が容易ではないのである。

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だがイエスとの同一化を志すには、すくなくとも、その言葉の大半を暗記してしまうことが前提となるだろう。
 
そしてそれに乗り出せるのは「イエスの夢の言葉を実現して人を助けたい」という意志、強く激しい実践意志を抱くことによってのみ可能になるだろう。


 
 
<イエスと同一化できる愛>

その愛を示唆するイエスの言葉がある。

 
 
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「『心(heart)を尽くし、思い(soul)を尽くし、知力(mind)を尽くしてあなたの神である主を愛せよ』。
これが第一に大切な戒め(命令)です。
第二は『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』です。
これも同様に大切です。
律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっています。
  (マタイによる福音書、22章37-40節)
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これは、律法の専門家がイエスを試そうとして発した質問へのイエスの答えだ。
この学者は「先生、律法の中で大切な戒めはどれですか?」と問うている。

イエスはここで結果的に、イエスと同一化出来る愛はどういう愛かの示唆をもしているのだ。

「心(heart)を尽くし、思い(soul)を尽くし、知力(mind)を尽くす愛」がそれだ。
なぜならここでの「あなたの神」とは創造神であり、イエスもその創造神であるからだ。
 
そしてくりかえすが、そういう愛をイメージでき、かつ、実践できるのは、イエスの夢の言葉を実現して人を助けたい、という強く激しい実践意志を抱くことによってのみだろう。

(筆者もそれに気づいて「エラいテーマに取り組んでしまったなぁ」と改めて思にいたっている。筆者の福音へ取り組み方は、大きく変えられてきている。今までのオレの聖書解読は一体なんだったのだ・・・)
 
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余談を一つ。

律法の法文の中には、イエスが上記に述べたような「戒め」はない。
イエスは条文をあげないで、それらが完全に成就するための奥義を示しているのだ。
 
聖句の中の「かかっている」は、「それで全ての成否が左右される」という意味である。
「今日の(野球の)試合の勝敗は、君のピッチングにかかっている」というがごとしだ。
 
これが何故奥義かは次回以降に追求する。

今回はここまでにしておこう。






コメント
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