鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

36. 「エデンの誘惑」は長期を見据えた罠だった

2019年01月23日 | 鬱を打破する聖書の論理


前回、聖霊が究極の真理に導く前の罪認識は、暫定的で不完全だと述べた。

だが日本の教会は、その罪理論に則って活動している。
日曜礼拝で、「過ぎたこの一週間にこれこれの罪を犯しました」と信徒が順番に悔い改めの祈りをしている風景は、それを示している。

今回は、その罪認識のもう一つの側面を示す。
それは暫定的で不完全なだけでなく、巧妙な罠に誘い込まれた結果であることを示す。

 
<十の戒め>

律法に示された罪は創造神からモーセを通して与えられた「戒め(命令)」に反することだ。
旧約聖書に記されたその戒めは超大量だが、モーセにはそれを代表的に示す十の戒め(「十戒」)も、与えられている。
それは次のようになっている~

・・・・・・・・・・・・
1.創造神以外の神を拝んではならない。
    (俺以外の存在を神として拝むな)
2.偶像を造ってはならない。
    (オレを像に刻むな)
3.創造神の名をみだりに唱えてはならない。
    (この段階では、創造神の名は「エホバ」となっている)
4.安息日を守れ。
    (週の中の一日はいかなる仕事もせずに、俺を思い拝する日とせよ)   
5.父母を敬え。
6.殺すな。
7.姦淫するな。
8.盗むな。
9.偽証をするな。
10.隣人のものを欲しがるな。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 
 
 
<対神的戒めと対人的戒め>
 
~このうち前半の四つは、創造神にどう対すべきかの戒め(命令)である。
対・創造神への戒めで、いわば対神的戒め。
後半の六つは、人間が人間に対するとき守るべき戒め(命令)である。
対・人間への戒めで、いわば対人的戒めだ。
 
+++

我々はここで、人間が自力でその違反を感触できるものを考えておくことが必要だ。
それは良心が働く対象だけである。
つまり後者の6つの「戒め」に反する罪、対人的な罪だ。


前者の4つの対神的罪は、人は自力では実感出来ない。
良心がうずいて実感させてくれることはないからだ。

 
 
 
<対人罪認識に集中し対神罪を放念>
 
もう一つ重要なこと~
 もし人間が罪認識を自力ですべき状態に置かれたらどうなるかも考えておこう。
 
この状態だと人の罪認識は、時と共に後者の六つの戒め、すなわち対人的戒めに集中していくだろう。
それらは実感(良心の)を手がかりに認識できるからだ。

+++

対して、前の四つの対神的罪は実感認識できない。
その結果、人はまもなく後者の戒めを、放念していく。
さらにすすんで関心を払わなくなり、実質的に無視するようになるだろう。


<最重要は対神的戒め>

だが、十の戒めの中で第一に大切なのは、この対神的戒めの方だ。
人間は被造物である。
創った側の創造神の方が、絶対的に上位の存在価値を持っている。

なのに、その創造神に対する罪を考慮に入れないような罪認識は、実質上ほとんど空虚である。
 
 
 
<「エデンの誘惑」の奥義>

そこには聖書の全体像のなかでの深い奥義が秘められているのだ。
人類はいつからそうした罪認識を持ち始めたか。
聖書の歴史物語の中に尋ねていくと、それは浮上してくる。
なんとそれは、今の人類の始祖アダム(とイブ)にもうすでに始まっているのだ。

+++
 
エデンの楽園において、イブが悪魔に誘惑されたのは、有名な話だ。
悪魔は蛇を通して語りかける。
「この木の実を食べると賢くなって、善悪判断を自分で出来るようになるよ」と。
     (『創世記』3章5節)


<善悪判断は罪認識の別名>
 
ここでもうひとつ考えておくべきことがある。
善悪判断とはなにか、についてだ。

それは罪の語を用いて言い換えれば「罪で有るか無いかの判断」なのだ。
「罪(戒め違反)でなければ善であり、違反であり罪であれば悪」だからだ。
つまり、善悪認識とは、後にモーセの律法にでてくる「罪認識」と実質的に同じものなのだ。


<善悪判断を自分ですれば>
 
だからアダム(とイブ)がその善悪認識を自力でやれば、それすなわち罪認識を自力でやることになる。
さすればその罪認識はいま見た通り、時とともに対人罪に集中していく。
対神的罪は無視されていくのだ。

+++

このことは通常見逃されてきている。
だが、聖書は『創世記』の冒頭からすでに、罪に関して、一貫した体系の一端を構成している。
聖書は、驚くべき、論理体系の書でもあるのだ。
 

+++
 
ともあれ、「良心の咎め」ベースの罪認識は、被造界をあらしめ、それを統治しておられる創造神へのほとんど冒涜でもある。
いまはそれに立ち入らないことにしても、とにかく空虚だ。
だから、それをベースにした罪の告白、悔い改めの祈りも、また、空虚で創造神を喜ばせるものにならない。
 
なのに日本の教会の礼拝では「自分の罪を言い表すという」という信徒の「悔い改めの祈り」~牧師のリードによる~が盛んだ。だが、これでは創造神と親しく相まみえる礼拝にならないのだ。

この種の悔い改めの祈りは、ほとんど空振りなのだ。
 ニッポンキリスト教会では毎日曜日、(野球の)空振り練習のようなことやっているのだ。


 
 
<罪意識の奴隷に陥れられる>
 
それだけではなく、もう一つ重要なことがある。

・・・これによって人間は、「良心がもたらす罪責感によって永遠に自分を責めたてる生涯を送る」ことになってしまっているのだ。
良心がうずく事柄は、過去を思い出せばいくらでも出てくるよ。
またそれは生きていく間にも尽きない。

人は良心が生み出す罪責感につきまとわれて生きているのだ。
イエスはこれを「諸君(人間達)は罪の奴隷なのだ」といっている。
 
 
 
 
<イエスとの同一化をブロックするもの>

これまで見てきたように、それではイエスとの同一化は可能にならない。
罪責観がイエスへの恐れと、後ずさりを産む。
それはイエスと人間との間に割り込んで、同一化をブロッキングし続けるのだ。
 
+++
 
今見たようにその罪認識(善悪認識)の仕組みは、人類の始祖の心に、悪魔によって挿入されている。
そして聖書では、人間の霊的資質は男親(アダム)を通して遺伝していくという思想だから、この罪意識は今の全人類にも浸透していることになる。

驚くべきことだ。
悪魔は巧みな悪知恵によって、人類を長期にわたる罪意識の奴隷に陥れるのに成功しているのだ。
これを無垢なイブに向けて、軽いタッチでやっている。
 
 なんと深い読みか!
これは(悪)知恵の極致といっていい。
 

 
 
<イエスはこの世でも人間を救出する>

以後、イエスが出現するまでの4000年間、人間の罪意識の奴隷状態につけいって、悪魔は人類に不幸の仕掛けを仕掛け続ける。人類をいびりつづける。
 
そして、4000年後に御子イエスが「人の子」として地上に現れるのだ。
イエスは、地上を去るに際して、罪の究極の真理を導入する。
そのため、最後の晩餐で葡萄酒を杯に注ぎ、自分がこれから流す血こそが、真の罪消去特効薬でであると宣言する。

イエスは罪意識の大転回(回心)を仕掛けているのだ。
だが、この宣言をしている時点では、イエスはまだ血を注ぎだしていない。
 
 
そこでその認識に導き入れることを、聖霊に委ねる。
この罪認識が究極の真理であることを、聖霊を送って悟らせるようにしておく。
いま聖霊は、従来の罪認識は、究極の知識でないことを悟らせるべく働いているのだ。

 
 
 
<「救い主」とは?>

クリスチャンは「イエスは救い主」と言うが、それはおもに死後の救いを言っている。
その内容だってバクゼンとしている。
よく「救うのは十字架」だとイメージしたりする。
だが、十字架は極刑の道具だよ。
呪いの木だよ。
これがどうして救いなんだよ。

+++

イエスの十字架死、というのはもう少し具体的だが、それだって漠然を含んでいるよ。
その死が、どうやって人類の罪を許すんだよ。

+++

あのひげを生やしたハンサムな人の絵を連想する人もすくなくない。
だけど、聖書にはイエスの容貌描写は一言も記されていないよ。
あれは後世の絵描きが勝手に描いた想像図だよ。

 
 
 
<奴隷状態から運び出す>

救いとは、デリバランス(deliverance:運び出すこと)であって、それは死後にだけでなく、地上においてもなされる。
罪のもたらす「死からの運び出し、救い出し」だ。

+++

それは「いのちエネルギー」でもって、死のエネルギーを相殺、消滅さすことによってもたらされる。
そのエネルギーの凝集体が、イエスの血だ。
救いの中核は、この血であり、救い主とはそれを流しておかれる方だ。
イエスを信じるとは、この血を流しておかれた御子を信じることなのだ。

+++

死ぬのは、窒息でも死ねる。
 
だがイエスは血を流す。
そして血を流す際に、イエスはむち打たれて、肌も肉も裂ける。
地獄の責め苦を受けるのだ

これをしておいてくださったことを知ると、われわれのイエスへの感謝と愛はつきなくなる。
その愛がイエスとの同一化を可能にしていくのだ。

今回はここまでにしておこう。






コメント
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