「聖書は人間永続の確信を与えるか」の答えを目指して進んでいるのだが、ともあれその書物を開いてみよう。
するとそれが旧約聖書と新約聖書の二部が合わさって成っていることがわかる。
いま筆者の手元にある邦訳の聖書では全体が2070ぺーじにわたる大冊だ。
そのうち旧約と新約の割合がほぼ3対1で、旧約の方が全体の4分の3を占めている。
旧約聖書にはたくさんの書物(分冊)が収納されている。
最初の五冊は、『創世記』『出エジプト記』『レビ記』『民数記』『申命記』となっている。
これらの著者はモーセという超霊感者で、「モーセ五書」と呼ばれている。
先頭の書物『創世記』には冒頭に、我々の住むこの世界がどのようにしてつくられたかが記されている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「はじめに創造神が天と地を創造した。地は茫然として何もなかった。
やみがおおみずのうえにあり、神の霊が水の上を動いていた。
創造主は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。」
(『創世記』1章1-3節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
~というがごとくだ。
<六日の創世と一日の安息>
その後、創造主は6日間をかけて天地を創り、7日目には安息された、とある。
これを聞くと、「そんな短期間に世界を創ったなんてありえない。やはりこれはおとぎ話の本だ」~と思うのは無理もないだろう。
+++
でも、考えてみよう。我々はこのとき1日は地球が太陽を一周する時間と考えている。
けれども、この創世の時点では太陽も地球もまだできていない。だから、そういう時空概念はあてはまらないはずだ。
+++
それは次のように考えるのが妥当だろう。
創造神はまずモーセに深い眠りを与えた。
そして「夢現(うつつ)併存」状態を形成し、彼にひとまとまりの創造の様を見せた。
「ひとまとまり」といっても、今現在の我々の時間感覚からすると、超々長期的な期間のわざだが、これがモーセには幻として与えられた。
終わると、また、モーセは深い眠りに帰った。
その「眠り ⇒夢現併存 ⇒眠り」の最初のセットを創造主はモーセに第一日目と示した。そう考えられるだろう。
<二日目から六日目>
二日目も同じだ。深い眠りの中でモーセは夢現併存状態を与えられ、次のまとまりの創造の幻を現の中でみて、終わると眠りの中に帰る。
このセットが二日目である。
以下、第三日から第六日まで同様だ。
<安息の日>
そして次の日には、創造主は創造のわざを行わず、安息された。これが7日目だ、と。
こういう風に考えると、少なくとも人間、既成概念に縛られなくなり、想像力が飛躍し、頭がよくなるよ。
(続きます)