中国、唐の百万都市で発展した浄土仏教思想は、玄宗皇帝の思想統制で一時的に衰えたが、しぶとく存続はしました。
日本の平安時代後期に、比叡山でこの仏教思想の集大成者、善導上人の著書に出会って目を開かれたのが法然です。
彼はまさか、それがキリスト教の「言い換え」宗教だなどとは、夢にも思わない。
キリスト教なんて知らないしね。
法然はその思想を元に、日本の浄土宗を確立し、比叡山を下りて人々に説きました。
@@@
親鸞はそれを学んで、庶民に広く伝道しやすい教義に展開しました。
これが浄土真宗です。 教義の根本は全くと言っていいほど浄土宗と同じです。
<蓮如、一大勢力にする>
親鸞の教えは、彼から八代後の教祖、蓮如によって、爆発的に広められました。
彼は信徒を「講(こう)」というグループに組織化し、浄土真宗を一大社会勢力としました。
一向宗とも呼ばれたこの教えは、「死んでも極楽に行かれる」という教義によって、信徒を死を恐れない人にしました。
+++
こうした信徒は戦国時代には一揆勢力をも形成し、戦国大名をも脅かしました。
徳川家康も、若い頃、三河一向一揆を沈めるのに、散々な苦労をしています。
加賀の一揆勢力は、城主を追い出し、自ら戦国国家を形成しました。
大阪の石山本願寺は織田信長とも互角に戦い続けました。
木曽川沿いの三角州に出来ていた農民集落・長島では、長島一向一揆を起こして信長と戦いました。
+++
筆者鹿嶋は、その宗教(浄土真宗)思想圏に完全に含まれる、近隣の農村、蟹江に生まれ育ちました。
子供の頃には、講の人々が毎月、誰かの家の仏壇の前に集まって、親鸞の『正信偈(しょうしんげ)』を経文として唱和していました。
筆者自身も、小学生の時期には、報恩講という冬の時期に、近隣のお寺に行って、お経を習いました。
夕食後に、子供が集まって、毎夜檀那寺の和尚さんのところに行ったのです。
今でも『正信偈』は、かなり暗記しています。
(これらの風習は伊勢湾台風を契機になくなりました)
@@@
後にこの宗派は、京都に全国の浄土真宗の寺院を統括、統治する管理機構も形成しました。
今も京都御所と敷地を接する、西本願寺、東本願寺がそれです。
(続きます)