~~「ヨハネ伝」は読めば読むほどいろんなことを学べますね。
今日は、聖書社会には特有の世界観があることに気づかせてくれます。
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=聖句=


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「わたしのもとに来る羊(弟子)たちは、父なる創り主がわたしに下さるものだ。誰もその羊たちを奪い取ることは出来ないのだ」(29節)
~~と言いました。これは前回考察しましたね。今回は、次の聖句です。
イエスは次に~~
「私と父なる創主とは一つなのだ」(30節)
~~といっています。これを聞いたユダヤ人たちは、また、イエスを石で打って殺そうとします(31節)。その彼らに向かってイエスは言います。
「私は諸君の目の前で、良きわざをした。それは父なる創主が私になさせて下さっているものだ。そのうちのどれを理由に、私を石打ちしようとするのか?」(32節)。
するとユダヤ人たちはこういった、とヨハネは記しています。
「我々は、君のなしたわざを根拠にして、君に石を投げつけようとしているのではない。君が自分を創り主だというからだ。人間がそんなことを言うのは創り主への冒涜だ」(33節)

まあ、これはいつも起きる議論のすれ違い(ユダヤ人とイエスとの)ですが、ここでは両者が共通して踏まえている考え方もみておきましょう。
ユダヤ人たちは「癒しなどのよきわざ(奇跡)は、創造主でしか起こし得ないもの」という点では反論していませんね。彼らもイエスと同じ、旧訳聖書の存在観をに立っているからでしょう。よきわざは万物を創った創造主のみが起こしうるのであって、他の霊的存在には「良き」わざはなしえない、という理解が共通にあるわけです。
こうした面では、ユダヤ人たちへの伝道は比較的楽だったでしょう。彼らの頑固さを別にすれば。

これがギリシャ人やローマ人となると話は別になります。彼らは様々な神がいるという存在観でした。これに対して聖書思想をのべ伝えていくには、まず、まことの神は創造主だけだ、という存在観から説明していかねばなりません。
そしてこのあたりは、日本人も同じです。我々日本人は、癒しなどの奇跡は、道徳的に「いいこと」だとは考えますが、それが万物の創り主からくるものとは思いません。そういうイメージがないんですね。
歴史を見ると、ローマ人への伝道は大成功しています。なにせ、後にローマ帝国がキリスト教を国教にせざるを得ないところまでいくのですから。
紀元後2~3世紀の、初期の伝道者たちはローマ人にどのように伝道して成功したのでしょう。興味のあるところですね。
