鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.134『良きことは創主のみがなすという世界観』(10章)

2006年04月09日 | ヨハネ伝解読


~~「ヨハネ伝」は読めば読むほどいろんなことを学べますね。
今日は、聖書社会には特有の世界観があることに気づかせてくれます。


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=聖句=
 「私の父なる創り主と私(イエス)とはひとつなのだ」(10章30節)
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 「わたしのもとに来る羊(弟子)たちは、父なる創り主がわたしに下さるものだ。誰もその羊たちを奪い取ることは出来ないのだ」(29節)

 ~~と言いました。これは前回考察しましたね。今回は、次の聖句です。


 イエスは次に~~

 「私と父なる創主とは一つなのだ」(30節)

  ~~といっています。これを聞いたユダヤ人たちは、また、イエスを石で打って殺そうとします(31節)。その彼らに向かってイエスは言います。

 「私は諸君の目の前で、良きわざをした。それは父なる創主が私になさせて下さっているものだ。そのうちのどれを理由に、私を石打ちしようとするのか?」(32節)。

 するとユダヤ人たちはこういった、とヨハネは記しています。

「我々は、君のなしたわざを根拠にして、君に石を投げつけようとしているのではない。君が自分を創り主だというからだ。人間がそんなことを言うのは創り主への冒涜だ」(33節)

                  


 まあ、これはいつも起きる議論のすれ違い(ユダヤ人とイエスとの)ですが、ここでは両者が共通して踏まえている考え方もみておきましょう。

 ユダヤ人たちは「癒しなどのよきわざ(奇跡)は、創造主でしか起こし得ないもの」という点では反論していませんね。彼らもイエスと同じ、旧訳聖書の存在観をに立っているからでしょう。よきわざは万物を創った創造主のみが起こしうるのであって、他の霊的存在には「良き」わざはなしえない、という理解が共通にあるわけです。

こうした面では、ユダヤ人たちへの伝道は比較的楽だったでしょう。彼らの頑固さを別にすれば。


                  


 これがギリシャ人やローマ人となると話は別になります。彼らは様々な神がいるという存在観でした。これに対して聖書思想をのべ伝えていくには、まず、まことの神は創造主だけだ、という存在観から説明していかねばなりません。

 そしてこのあたりは、日本人も同じです。我々日本人は、癒しなどの奇跡は、道徳的に「いいこと」だとは考えますが、それが万物の創り主からくるものとは思いません。そういうイメージがないんですね。

歴史を見ると、ローマ人への伝道は大成功しています。なにせ、後にローマ帝国がキリスト教を国教にせざるを得ないところまでいくのですから。

 紀元後2~3世紀の、初期の伝道者たちはローマ人にどのように伝道して成功したのでしょう。興味のあるところですね。

                  

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ウイロークリーク風礼拝風景

2006年04月07日 | キリスト教活動の歴史
(クリックすると写真が拡大します)

米国の教会での、日曜礼拝の一場面。
福音の知識を、舞台にてミュージカル方式で伝えています。
舞台装置も、衣装も、ドーランを塗ったメーキャップも、音楽、照明も本物のミュージカルそのものです。
俳優はセリフと歌で演じます。

牧師のメッセージ(説教)はこの後でなされます。
参列者は、ミュージカルを観た後のすがすがしさを毎日曜日に味わうことが出来ます。

シカゴで開拓されたウイロークリークという教会がこの方式をとって、多くの若者信徒を短期間で集めました。1998年当時で会員は約2万人と聞きました。日曜礼拝を、何部かに分けてしています。

成功の知らせを聞いて、この方式で教会を開拓する牧師さんが米国のあちこちで発生しました。みな一定の成功を収めているので、この方式をとる教会をウイロークリークスタイルの教会ということが多くなりました。

この写真は、この方式を採用して急成長中のミシガン州の一教会でのものです。
シカゴから車で3時間ほどの、ホランドという小都市郊外のウイロークリーク風教会です。

舞台は開拓期アメリカ農村の住宅の庭先。
狩が好きで野性的な村の若者に、この家の主婦が聖書の世界観を伝えています。
大事なところでは、セリフは歌になってゆっくりと刻銘に伝えられます。


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Vol.133『悪霊が妨げたら「とりなし」の祈りで』(10章)

2006年04月06日 | ヨハネ伝解読







~~さあ、今日も「ヨハネ伝」。
ヨハネは次々にイエスの新しい側面を伝えてくれます。

                  


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=聖句=
 「諸君が信じないのは、私の羊でないからだ。・・・・(中略)・・・私の羊は私の声に聞き従う。・・・(中略)・・・私は彼らに永遠のいのちを与えます。・・・・(中略)・・・誰も私の手から彼らを奪い取ることは出来ない。彼ら(羊:弟子たち)を私に下さった父はすべてに勝る方です」(10章26~29節)
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~~今回も、聖句は前回と同じです。
 これについて、今少し実践的に考えましょう。


 前回、イエスの教えに真理があると期待し、これをもっとわかろうとすれば、自然に「祈り」の心が生じる、と言いました。だから、「祈り」は創り主に関心を持ってもらって、イエスの羊に加えてもらうに有効な手段、と解しました。

 この祈りについて、実践的な観点から今回、若干の追加をしておきます。

                  

 聖書では、人間の意識は悪魔、悪霊などによって霊的な影響を受けることにもなっています。では、それによってイエスの羊になりたいという思いを持つこと、や、そのために祈ろうという思いが妨げられていたらどうなるでしょうか。悪しき霊の発する意識波動が、その人の意識を大きく覆ってしまっていたら・・・。

 覆われた人は、イエスの教えていることがバカバカしくみえるでしょう。あるいは、イエスに若干の関心を持っても、祈ろうという気にはなれない。祈ろうとしても祈れない。そういうことって、現実の場ではよく起きるようです。そういう環境もあるのです。

 するとその人には、羊になる道は、環境条件によっては事実上閉ざされていることになります。そういう境遇にたまたま生まれ育った人は、絶望的なのか? こういう疑問が生じます。

 <「とりなし」の祈り>

 福音が提供している、それへの打開の道は他者の行う「とりなし」の祈りです。すでにイエスの羊になっている人が、悪霊の影響に覆われてしまっている人のために、創主に向かってとりなす。そういう祈りが効力を持つという余地が、福音には含まれています。

 よくあるのはこんな例でしょう。ある羊(信徒)が、自分の愛する人を羊の群れに加えたいと切望します。愛された人は、ぜ~んぜん望まないのですが、羊の方は一生懸命だ。

 その場合、どうしたらいいでしょうか?
 羊はその人が自分の愛する人であることを創主に訴えます。そして、彼(または彼女)が、被造物でありながら、自らの創り主を知らないでいることを、代わりに詫びます。次に、「自分の故にその人をあなた(創主)の関心の内に入れて下さい」といったように祈り求めるわけです。

 そうすると、創主はその人物に関心を注ぐ可能性が出る、というのが福音なんですね。関心を持つと創主は、力ある天使を送ります。天使は悪霊を追い払い、創主を意識できるように影響を与えます。天使も霊ですから、そういう影響を与えうる~~これも聖書の論理なんですね。

                  

 もひとつおまけ。
 そういう友人なり、肉親なりを持たない人はどうか。う~ん、むずかしいなあ。しかたありませんので、「いい友達を持つようにしなさい」、とでも言っておくことにしましょう。

 ともあれ聖句は、イエスは自分の羊になる人には、永遠のいのちを与える、と明言しています。そして、何者もその羊をイエスの手から奪いうる者はいない、と断言しています(28節)。

 なぜなら、「それは万物の創造主がイエスに与えられた者であり、父の御手からそれを奪うことは誰も出来ないからだ」とイエスは言っています(29節)。

                  
     
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Vol.132『創主がイエスに与えた人間だけが羊(弟子)となる?』(10章)

2006年04月02日 | ヨハネ伝解読

~~しばらくお休みいただきました。
「ヨハネ伝解読」今回も深いところです。

                    

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=聖句=
  「諸君が信じないのは、私の羊でないからだ。・・・・(中略)・・・私の羊は私の声に聞き従う。・・・(中略)・・・私は彼らに永遠のいのちを与えます。・・・・(中略)・・・誰も私の手から彼らを奪い取ることは出来ない。彼ら(羊:弟子たち)を私に下さった父はすべてに勝る方です」(10章26~29節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                    


 ヨハネは次に、イエスのこういう言葉を記録しています。

 「あなた方が信じないのは、私の羊でないからである」(26節)。

 私の羊というのは、この章の前半でイエスが述べたたとえを受けています。「イエス牧場」の柵の中にいるイエスの羊ですね。

 この羊は、イエスの声に聞き従います(27節)。牧者の声を知っているから。そしてイエスもまた彼らをよく知っています。


                    

 
 ここで羊とは、弟子という意味です。ではイエスの羊になるにはどうしたらいいか。この答えは~~

 「羊は私の父が私に下さったもの」(29節)

  ~~というイエスの言葉に含まれています。創造主によってイエスに与えられた人が、イエス牧場の羊、弟子になれる、という。これは意味深いところです。

 弟子とは、イエスの言葉に真理があると期待して、彼から学ぼうとする者でしたね。教えを理解し切れていなくても、学ぶために付き従う者、これが弟子でした。

 それはいいでしょう。しかしここで、イエスは弟子になるのは父なる創主が私に与えて下さることが必要だ、といっています。

 この言葉は問題ですよね。では、創り主が「この人はイエスに与えない」と判断されたら、イエスの羊になれないか、というと、そうだということになるのですから。

 なにやら話は「予定説」めいてきます。つまり、イエスを信じて救われる人は、創造主の方であらかじめ予定されている人に限られる、となるような・・・。

                    

 もしこの予定が当人の生まれる前からなされているのでしたら、これは文字通りの予定説ですよね(こういう見解は、米国南部のバプティストにも結構多いです。それで非予定論者との間で論争するんですね。これがまた結構面白いです)。

 だが、それでしたらたとえば、弟子たちが後に行う福音伝道の意味がおかしくなりませんか。

 イエスは後に、弟子たちに宣教命令を下しています。それで、使徒たちは命をかけて伝道活動をいたします。で、彼らが懸命に福音を述べ伝えていた相手が、実は父なる創主がイエスに与えると予定していなかった人だったとしたらどうでしょう。

 そういうことは、創主のみにわかっていることですよね。すると創主はそのむなしい努力をじっと見ていることになります。見方によっては使徒の行為は滑稽にもなりましょう。これでは話がおかしいです。

                    

 ではどうしたらおかしくならないでしょうね。
 この場合の創り主の選びは、その人間のスタンスを見てのものだ、と解したら筋が通ります。

 イエスの教えは、最初はみんなわからないです。生前にすべてをわかる人間もいないでしょう。その意味では、みんな五十歩百歩です。

 だけど、その教えを聞いた人に、二つの姿勢があり得ます。一つは、「こんなもの話にもならない、自分は真理を別に知っている」というスタンスです。もう一つは、「この話に真の真理があるのではないか」と期待するスタンスです。

 父なる創り主は、これについてはわかるのです。そして前者のタイプは、イエスの弟子(羊)にさせません。後者は羊にします。そういうふうに見えない力を与える。~~こう考えたら意味が通ります。

                    

 これを創り主の意識からもう少し広く言えば、「創り主が関心を持つ存在になる」ということでしょう。関心を持ってもらうように、被造物たる人間の方からも一定の関与が出来る、働きかけが出来る、そういう余地がある、と解するべきでしょう。

 「祈り」というのも、その一手段という側面をもつんですね。そもそも「祈る」というのは、イエスの教えに期待しなかったら出来ないですから。「もっとわかるようになりたい」と思うと、自然に自分の力を超えた存在に「何とかしてくれ」と願いかける気持になる。これすなわち、「祈り」ですからね。

 あるいは「選び」に焦点を絞る祈りもあり、かもしれません。
 「イエスの羊になるには、父なる創主によってイエスに与えてもらわなければならないならば、まずそうして下さるように祈る」という祈りですね。

                    

 本日の話は~~、

 「父は私より大きい」(ヨハネによる福音書、14章28節)

 ~~というイエスの言葉ともつじつまが合っていますね。イエスの行うことは、父なる創主の御手の内においてである、というのは聖書の基本論理です。イエスの羊になるには、創主によってイエスに与えられることが必要というのは、筋の通ったことのように見えます。

 創造主において「子のするところ、父の関心と働きが常にある」という構図は、聖書のイメージを温かくもしてくれますね。

                    


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