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Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

私の「魯迅」事始めと仙台

2014年08月25日 15時07分31秒 | 読書
   

 東北大学資料館「魯迅記念展示室」の感想を書く前に、私の魯迅体験から。

 少し長いが「藤野先生」からこの場面を引用してみる。

 中国は弱国である。したがって中国人は当然、低能児である。点数が六十点以上あるのは自分の力ではない。彼らがこう疑ったのは、無理なかったもしれない。だが私は、つづいて中国人の銃殺を参観する運命にめぐりあった。第二学年では、細菌学の授業が加わり、細菌の形態は、すべて幻燈で見せることになっていた。一段落すんで、まだ放課の時間にならぬときは、時事の画片を映してみせた。むろん、日本がロシアと戦って勝っている場面ばかりであった。ところが、ひょっこり、中国人がそのなかにまじって現われた。ロシア軍のスパイを働いたかどで、日本軍に捕らえられて銃殺される場面であった。取り囲んで見物している群衆も中国人であり、教室のなかには、まだひとり、私もした。
 「万歳!」彼らは、みな手を拍って歓声をあげた。
 この歓声、いつも一枚映すたびにあがったものだったが、私にとっては、このときの歓声は、特別に耳を制した。その後、中国へ帰ってからも、犯人の銃殺をのんきに見物している人々を見たが、彼らはきまって、酒に酔ったように喝采する-ああ、もはや言うべき言葉はない。だが、このとき、この場所において、私の考えは変わったのだ。
 第二学年の終わりに、私は藤野先生を訪ねて、医学の勉強をやめたいこと、そしてこの仙台を去るつもりであることを告げた。彼の顔には、悲哀の色がうかんだように見えた。何か言いたそうであったが、ついに何も言い出さなかった。
                 「藤野先生」(1926年10月、岩波版魯迅選集、竹内好訳)

 この幻燈事件は魯迅が医学をやめ、仙台という土地を離れるという決心をする重要な場面である。そして藤野先生のノートの添削と試験問題の漏洩を関連付ける料簡の狭い級友の振舞いや、このような場面を中国人の前で行う日本と日本人のあり様と、藤野先生の対比がこの小説の眼目でもある。それはアジアの「近代」のあり様と病理を浮き上がらせるものでもある。魯迅の回心の原点としてとらえられている。
 私が初めてこの小説を読んだのは確か中学二年生の教科書に載っていたものである。ところが肝心のこの場面は割愛されていた。魯迅が医学をやめる理由が今ひとつ理解できないもどかしさを中学二年生ながら感じいてた。当時の国語の先生が割愛されているところをプリントで配布してくれた、と記憶している。そして私なりに合点がいった。国語の先生の説明が14歳の私なりに飲み込めたのだろう。

 また「吶喊自序」では次のように記されている。

 ‥講義が一くぎりしてまだ時間にならないときなどには、教師は風景やニュースの画片を映して学生に見せ、それで余った時間をうめることもあった。時あたかも日露戦争の際なので、当然、戦争に関する画片が比較的多かった。私はこの教室の中で、いつも同級生たちの拍手と喝采とに調子を合わせなければならなかった。あるとき、私は突然画面の中で、多くの中国人と絶えて久しい面会をした。一人がまん中にしばられており、そのまわりにおおぜいたっている。どれも屈強な体格だが、表情は薄ぼんやりしている。説明によれば、しばられているのはロシア軍のスパイを働いたやつで、見せしめのために日本軍の手で首を斬られようとしているところであり、取りかこんでいるのは、その見せしめのお祭りさわぎを見物に来た連中とのことであった。
 この学年がおわらぬうちに、私は東京へでてしまった。あのことがあって以来、私は、医学など少しも大切なことではない、と考えるようになった。愚弱な国民は、たとい体格がどんなに健全で、どんなに長生きしようとも、せいぜい無意味な見せしめの材料と、その見物人になるだけではないか。病気したり死んだりする人間がたとい多かろうと、そんなことは不幸とまではいえぬのだ。されば、われわれの最初に成すべき任務は、彼らの精神を改造するにある。そして、精神の改造に役立つものといえば、当時の私の考えでは、むろん文芸が第一だった。‥
                 「吶喊自序」(1922年12月、岩波版魯迅選集、竹内好訳)

 この吶喊自序は藤野先生よりも4年前にかかれている。吶喊自序は魯迅の最初の小説集の序であり、魯迅の思想の出発点を探る上で大切な文章である。私はこの序を高校時代に読んだ。あの「藤野先生」を読んでから魯迅という作家が気になっていたのである。この吶喊自序は私は違和感があった。引用の後半の段落部分には抵抗があった。しかしそれは当時はよくわからなかった。

 「吶喊自序」の後ろにはさらに魯迅には文学を始めるまでに紆余曲折・挫折の時期があって、「見知らぬ人々の間で叫んで相手に一向反応がない場合、‥あたかも涯(はて)しれぬ荒野に身をおいたように、手をどうしていいかわからぬのである。これは何と悲しいことであろう。そこで私は、自分の感じたものを寂漠と名づけた。‥この経験が私を反省させ、自分を見つめさせたからである。つまり私が、臂を振って一呼すれば応ずるもの雲の如しといった英雄ではないということである。」とも記されている。

 こうしてみると、「吶喊自序」に従えば、仙台で医学を辞め文学を志したときの思いと、挫折して寂漠を経験したときの思いと、そして小説を実際に書き始めたとき、「吶喊自序」を書いた1922年、と魯迅の思想は少しずつ変化してきている。さらに4年後に「藤野先生」が書かれている。

 「中国人という愚弱な国民」の「精神を改造する」という文学運動をこころざしてから、しかし国民は、笛吹けど踊らずという挫折を経て知識人の運動の限界を体験したうえで、「鉄の部屋に閉じ込められて窒息すると分かっていても熟睡している人を起こす」ことの「希望」にかけるに至る。

 今の私の年齢になってみれば、若気の至りの血気盛んな思い入れから少しずつの変化が読み取れる。
 そしてさらに「藤野先生」で扱われる幻燈事件を契機とした仙台の体験と、藤野先生という存在を前面に持ってきた構成では、中国にかぎらずアジアがこうむった「近代化」のいびつな構造そのものを射程にいれ、それを止揚しようとする思考・指向を私は読み取ることができると思っている。
 「藤野先生」では現実の先生のあり様は別にして、アジアの近代化の中で「救い」としての人格者が藤野先生である。藤野先生というあり方にアジアの悲劇からの救いを見ているという解釈が成り立つ。そのすぐれた人格者とは声高な扇動者ではない。
 やっかみで自分たちよりも「遅れている中国人」を蔑む日本人という名の「ちょっとだけ近代化を先に行った」人間にも、「遅れた中国人」と同じような付和雷同の人間が存在していることを見抜いている。
 「藤野先生」を書くことで、魯迅という作家は「吶喊自序」執筆時の魯迅を超えて、「アジアの近代化」を射程に入れて考察する「世界性」を獲得したと私は思う。近代化によってもたらされるいびつな構造、社会のいびつな発展段階の解剖の端緒と成り得たのだと思う。だから魯迅は読み継がれるのである。言い方を変えれば、「藤野先生」に至るそれまでの小説だけでは魯迅は「先駆者」「扇動者」「目覚めた人」の作った警告の書で終わった可能性がある。
 だが、付け加えるならば作品としての出来は、吶喊収録の作品など初期の作品の方が後期の作品よりも群を抜いて完成度は高い、と私は思える。作品の評価と、思想の深化と、影響力の拡大は、相関関係にはない。

 さて私の学生時代(1970~1975)、仙台の川内の今の魯迅記念碑のあるあたりだったか、さらに奥の方だったか、白い木造の小さな洋館風の建物がひっそりと建っていて、そこに魯迅の遺品や仙台時代のことを展示してあった。この建物は確かに1970年から1974年までは存在していたと思う。私は2回ほど中に入り、また幾度かは前を通り過ぎた。ここの前を通って、荒巻という地名のところから川を渡って畑の中を登り、向山にある安アパートに帰ったことを覚えている。展示品までは記憶はしていないが、とても寒々しくて人が訪れている気配は感じられなかった。
 私はながらくそれが魯迅記念館というものだと思っていた。今となってはそれが市の施設だったか、大学の施設だったかもわからない。今の仙台市博物館には魯迅の展示は無いので、大学の施設だったのかもしれないが、ネットで検索する限りこの施設のことはどこにも見当たらない。どなたかご存知の方がこの記事を見ていたら是非とも教えていただきたい。
 1年生のときに初めてその建物を訪れた。冬の寒い雪の日の翌日であった。高校生の頃から親しんでいた魯迅の小説に惹かれて、一般教養の授業で魯迅の詩を解説した授業(確か講談社新書だったかが教科書であった)を選択した。200名も入る大教室での授業はしかしとてもざわついていて聞き取りにくい授業であった。何故か3回も出ているうちにつまらなくなって出席しなくなってしまった。年末になり冬支度が始まる頃には専攻の物理の授業にも、このような一般教養の講義にも興味は失せていた。来館者もいない建物で、展示している魯迅の遺物や記念品を眺め、とぼとぼと下宿にもどって独り物思いにふける時間がどんどん多くなっていた。不思議なことに1年生の後期の授業はおおむね順調に試験は及第したものの、政治的な活動の坩堝に吸い込まれる直前の一瞬の静寂の時期が私にはたしかにあった。
 そして嵐のような2年が過ぎた1973年3月に岩波書店から13巻本の「魯迅選集」が店頭に並び始めた。毎月むさぼるようにこの選集を揃えた。当時の金額で1冊380円。学食で定食が75円~150円の時代。1日分の食事代は痛かった。
 何かにすがるようにこの13巻を読んだ記憶がある。これを読むことは2年間の凝縮した時間を反芻し、消化する過程であったかもしれない。そして魯迅のように仙台から逃れ出ることを夢想していたのかもしれない。
 この魯迅選集はボロボロになっているし、変色もしている。箱も日焼けしている。しかし手放すことができない。新しい訳も出ているらしい。だが、竹内好という訳者の思想も含めて、忘れることができない書物である。
 私にとっては、魯迅の思想そのものはインテリの先駆性理論のようなもので、当時まだまだ影響力のあった毛沢東思想と並んで評価される時代でもあり、受け入れがたかった。しかも魯迅を政治的に祭り上げて利用する中国共産党という組織も信用ならなかった。しかしこのいびつな社会を前にたじろがない精神のあり様にはとても惹かれた。魯迅が東北大学の前身の仙台医学専門学校の一部の級友と当時の日本人の多くに、そして自国の民衆に幻滅したように、私は自分自身に幻滅して仙台を離れた。仙台にいるのがとても嫌だったことを覚えている。東北大学という組織がどうしても私には厭わしかった。
 今、当時の魯迅を記念する建物はなくなり、魯迅の立派な像が立ち、階段教室がきれいに整備され、「魯迅記念展示室」が存在する。魯迅が中国という国家や中国共産党に政治的にどう評価されるか、それには私は興味はない。
 しかし東北大学が「魯迅記念展示室」の展示でもしも魯迅をおとしこめることがあるとすれば、私はとても残念だと思う。当時の魯迅を取り巻いた日本人のあり様、大学のあり様はキチンと考えなおさないといけないと思う。これは次回に述べたい。

'97の「生誕120年記念ブラマンク展」

2014年08月24日 22時40分48秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 昨日1997年の「生誕120年記念ブラマンク展」の図録をめくっていたら、当時のチラシが間に挟んであった。
 チラシの表には1908年、32歳の時の「シャトー橋」が使われている。代表作でも壮年期の作でもないものを使うというのがなかなか斬新というか、思い切ったことをしていると思った。
 この時期フォーヴィズムから次第に遠ざかり、セザンヌの技法にこだわり始めた時期の出発点にあたる作品らしい。しかし色彩はなかなか強烈である。晩年にはこのような原色は花瓶の花を描く以外はあまり使っていないように私は思う。
 さらに1918年第一次世界大戦終了後からもう一度新たな展開がはじまり、ブラマンク独特の世界が開かれていくそうである。題材も道とその両側の家、厚い雲と雪などの世界が現れてくる。
 折角見つけたチラシなので、記念にブログに掲載してみる。同時期にBunkamura Galleryで開催された「ブラマンクとパリを愛した作家たち」展のチラシも出てきた。こちらは販売価格付である。





本日の作業

2014年08月24日 13時23分45秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 午前中は東北大学資料館の感想を記載するために撮影した写真の整理やリーフレットをスキャナーで取り込んでいるうちにお昼を過ぎてしまった。
 「魯迅記念展示室」の展示内容と「歴史の中の東北大学」の展示があまりにひどいのだが、ガイドブック「歴史の中の東北大学」並びに「魯迅と東北大学」の2冊にも目をとおした方がいいと思う。また「東北大学百年史」の第2、4、8巻を閲覧して公式の見解を手に入れなければと思った。
 とりあえずは、展示についての感想を早急にまとめることが先決である。明日明後日までにはアップしたいと思う。そして再度仙台に行くことも考えないといけない。

 午後からは、退職者会のブロックの会報第11号を作成しないといけないので、そちらの作業を優先する。




仙台・カメイ美術館「カメイコレクション展」

2014年08月24日 06時21分05秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 21日の朝に訪れたカメイ美術館は初めて訪れた。生涯学習と社会教育の振興を目的に1994年に開館したということであるので、開館して20年。
 蝶のコレクションでは、16万頭を超える前カメイ会長亀井文蔵の蝶コレクションの内、約4千種1万4千頭が展示されている。こけしのコレクションでは、前カメイ社長亀井昭伍が収集した戦前の古作こけしなどが展示されている。絵画・彫刻では、カメイが収集した日本の近現代の具象絵画を中心に寄贈・寄託された作品が展示されている。
 絵画については藤島武二「瀬戸内風景」(1932)、和田英作「松島」(1921)、佐伯祐三「バリ風景」(1925)、荻須高徳「シャトー・デ・ブルイヤール」(1961)、三岸好太郎「少女像」(1931)、香月泰男「かきつ」(1972)など気に入っている作品が並んでいた。
 坂本繁二郎の「風景」(1903)は初めて目にする作品である。青木繁と上京したばかりだが、すでに坂本らしい筆致がうかがえる。というもののまだ習作段階の作である。香月泰男の「かきつ」ははじめて見るが、晩年の作品で落ち着いた感じの私の好みの作品である。とても気に入った。
そして何といっても私が嬉しかったのは、ブラマンクの5点である。「平原への道」「森」「ノルマンディの雪」「赤い屋根」「積み藁」はどれもブラマンクらしさがそのまま伝わる風景画である。
 ブラマンクは1989年に「没後30年展」(日本橋三越)、1997年に「生誕120年展」(ザ・ミュージアム)が開催されていづれも私は感銘を受けた。
 日本のも多数の収蔵品があり人気の画家のひとりとなっている。
 なんといっても道、雪、積み藁、花瓶の花がブラマンクの主要な題材である。またミレーの「晩鐘」を念頭に置いた「晩鐘」(1944)も、また「林檎の木と燕麦の畑」(1943)も印象に残っている。
 ブラマンクと佐伯祐三が1924年にバリで接点があったということ、1997年の図録で読んで本日初めて知った。また集団や「指導者」を信用しなかったブラマンクという生き方にはとても興味を覚えている。いつかじっくりと生涯を追ってみたい画家の1人である。
 ブラマンクを5点も見ることができたのは大変うれしかった。デュフィの「雨晴れる」(1941)、ルオーの「道化音楽士」(1932)も好みの作品である。

 21日にも掲載したが、コレクション作品の図録とまでは言わないが、この美術館の目的である「生涯学習と社会教育の振興」のためにこれらの素晴らしい作品のポストカードを販売してもらいたいものである。採算の点からの困難も想像できるが、美術館の重要な事業ではないだろうか。


広瀬川灯ろう流し&花火大会

2014年08月23日 12時20分19秒 | 山行・旅行・散策
   

 スマホからも20日の夜にブログにアップしたが、下手な写真を添えて再度掲載してみる。
 今年で25周年を迎えるという灯ろう流し&花火大会は、妻も私も初めて見ることになった。たまたまホテルのチェックインをしているときに、前に並んでいた宿泊客が話しているのを聞いて、急きょ行ってみることにした。
 1978年頃には、広瀬川の仲の瀬橋と大橋の間で花火大会をしていたのを記憶している。今の国際センターのあたりの土手で鑑賞したことがある。

 19時から花火大会が始まると聞いたので19時20分頃に地下鉄河原町駅すぐ傍の宮沢橋に着いたが、灯ろう流しは19時、花火大会は19時45分開始であった。見物人が多数で宮沢橋とその下の河原はごった返していた。愛宕大橋あたりでも十分に見ごたえはあったと思う。あるいは大年寺山からの見物も良かったかもしれない。

 三脚もなしに夜の灯ろう流しを橋の上から撮影するのは無理な話で、手ぶれは容赦してほしい。あくまでも雰囲気を知ってもらうだけの写真。

 久しぶりに打ち上げ場所の直ぐ下で花火を見ることができた。時間としては35分ほどの長くない時間であったが、音が大年寺山に反射して、夜空に音が轟いていくのがわかり、十分に花火を楽しむことができた。

      

            








































古代史セミナーの後期受講決定

2014年08月23日 10時34分29秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 昨日帰宅したらいつも受講している「古代史セミナー」の9月期講座の受講当選ハガキが届いていた。ありがたく受領。

 なかなか面白くて、刺激的な講座である。予定表にすでに書き込んでおり、6回とも出席できることになっている。
 特に初回と第3回と第5回はテーマが興味と合致しており、楽しみにしている。

 6回通しで3000円というのはとてもありがたい。

仙台朝市で蟠桃・黄金桃・キャンベル購入

2014年08月22日 21時40分24秒 | 山行・旅行・散策
 19時に無事横浜の自宅にたどり着いた。先ほど新幹線の中から福島駅を出発した直後の様子をブログにアップしたが、15時半過ぎに福島駅を出て5分もしないうちに日が差し始めたる変わりやすい天気にビックリした。そして郡山駅に着いた時にはすっかり晴れあがっていた。12分遅れて東京駅に着いたが、西日がまぶしくきつかった。
 その後ずっと家に着くまで晴れていた。家に着いてニュースを聞いたところ18時時点で前橋などは雷雨がすごかった。また福島駅で停車していた頃福島市内では雹が降ったとの報道もされていた。
 天候が局地的に極端な違いがある。ほんの少しの時間の違いでも大いに様相が違っているようだ。ひどい状況をうまくかわしてほんの少しの遅れだけで帰宅出来たようだ。

 仙台を訪れている間に撮った写真をいくつか。

 本日はまず、私の恥から披露。



 仙台駅前の朝市で見つけた福島産のモモから。両サイドが「黄金桃」、真ん中が「蟠桃」。黄金桃は東京・横浜の店先でも見たことがあるが、「蟠桃」は私も妻も初めて目にした。
 とてもいびつな桃である。写真のとおり扁平で上下に押しつぶされている。色はいつも食べる桃と同じである。そしてへたの部分が美しなくない。傷んでいるようにも見えるが、身はしっかりしている。
 私は品種名から仙台藩ゆかりの「山片蟠桃」を思い出したので、そのゆかりの桃かと思って買うことを主張した。しかしこの妻との会話は店の人に聞こえたかもしれない。頓珍漢なものであった。
 ホテルに帰ってからネットで調べてみると、蟠桃という桃の種類名が先で、山片蟠桃は番頭をもじってつけたらしい。
 「旬の食材百科」というHPでは、「蟠桃(バントウ)は中国が原産とされる桃の品種で、日本で一般的な比較的丸い桃とは違い、平たい形をしているのが大きな特徴で、それらにはいくつもの品種があり、「蟠桃(バントウ)」はそれらの総称として使われています。この「蟠桃(バントウ)」という呼び名は別名「座禅桃(ザゼンモモ)」とも呼ばれ、中国では古くから不老不死の「仙果」として扱われてきたと言われています。あの孫悟空と猪八戒が食べた不老不死の桃、それがこの蟠桃と伝えられています。」とある。平桃と云われる種類の桃で中国伝来の桃のようである。
 ちなみに「山片蟠桃」を調べると「1748-1821。播磨国の農家出生。幼時から大阪の両替商升屋に仕え、若くして番頭となり傾いていた経営を再建。さらに財政破綻した仙台藩に建議し、財政を再建で大名貸しの金を回収した。また大阪町人・大阪商人の学塾である懐徳堂で中井竹山・履軒兄弟に朱子学を、先事館で麻田剛立に天文を学ぶ。晩年に失明という障害を乗り越え、五十半ばから著作にとりかかった主著『夢の代』を死の前年に完成。唯物論的な立場を取り、天文、宗教、経済、歴史等を百科全書的に論じ、無鬼論(無神論)の主張、地動説の支持、応神天皇以前の日本書紀の真実性の否定など先進的な持論を展開した点が特筆される」(ウィキペディア、要約)となっている。
 名前はすぐに思い出したが、伊達藩の歴史の中で名を聴いたことと、地動説を唱えたというだけの知識しかなかった。いい加減な知識は恥じをかくものである。

 そして妻がとうしても購入したいといったのが、山形産のブドウのキャンベル。東京・横浜の店先には最近はキャンベルを見かけることがないという。そういわれればここ数年キャンベルを食べたことがない。あの黒い大粒のブドウである。珍しいからということで、8房も購入した。

 まず蟠桃は、平べったい分容積は小さいのだが、甘いくて水分も十分あり現代でも十分通用する味である。ただし体積が小さいのと見た目が美しさに欠けるので、市場では敬遠されるのかもしれない。扁平な分、食べやすいともいえるかもしれない。しかし歴史的な桃を味わったようでうれしかった。
 黄金桃は熟していてとても美味しかった。蟠桃よりも実は柔らかい。この桃のおいしさは読者も十分知っているはずだ。
 キャンベルは懐かしく食べた。しかし果物というもの、こんなに流行り・廃りがあるのかとあらためて思った。

 一晩では食べきれず食べ残した、蟠桃4つと黄金桃3個、キャンベル7房は本日ぶつけないように用心しながら、自宅まで待って帰ってきた。

福島でも雷雨

2014年08月22日 16時29分50秒 | 山行・旅行・散策
 白石蔵王駅で長時間停車。蔵王や南西の吾妻山方面の雲が低い。山肌沿って千切れた雲が登ってゆく。雨は降っていないが、かなりあやしい天気である。
 つばさ号の連結遅れがこのあやしい雲の動きと関連しているのか、いないのか、判然としない。イライラ・・・。

 間もなく福島駅だが吾妻山は姿を隠している。少し降っているようだ。ずいぶん暗い。雷光が一瞬見えた。列車に落ちないでほしい。

 福島駅を出発したところで激しい雨と雷光であったが、次第に落ち着いてきた。

大学病院

2014年08月22日 12時22分06秒 | 山行・旅行・散策
 友人を見舞うために初めて東北大学の医学部付属病院に行ってみた。広い建物にびっくり、病室まで2度も職員に訪ねてしまった。
 昨日はJR仙台病院の立派なのに驚いたが、さらに大きい。大病院の密度は仙台は高いように見えた。
 このところ先輩・友人の見舞いが重なっている。しかも同じ病気というのがなんとも言いようがない。この病気の耳学問だけは豊富になってしまった。

 本日はこれから元実家を見てから、東京へ戻る。帰宅したら、仙台の感想を少々詳しく記載してみたい。

仙台で中華料理

2014年08月21日 23時20分11秒 | 山行・旅行・散策
 本日の夕食は節約命令に従って、泰陽楼という古くからの店(だと思う)。確か私が学生の頃は同じ位置で木造の店であったと思う。当時は入ったことはなかった。
 当時はかなり安い店にしか入れなかったし、中華料理は選択の範囲からはずれていた。安い定食屋でチャーハンや餃子は食べたが、私のそれ以外の中華料理の知識も乏しかったし、欲求がわかなかった。
 ジャージャー麺、焼きビーフン、餃子はどれも質量とも満足出来た。
 コンビニで見つけたのが、ラ・フランスの酎ハイ(サントリー-196℃)。よく知らないがご当地商品かと思った。

 仙台朝市で福島産の桃(黄金桃・蟠桃)2種とブドウを購入した。また朝食用にサラダ仕立ての野菜を1パックも。外食が続くと野菜と果物が不足と感じる。桃の宣伝は写真付きでこれも帰ってから・・・。

松島の瑞巖寺

2014年08月21日 17時13分45秒 | 山行・旅行・散策
 昼前から雨も上がり、曇り空の中を仙石線で本塩釜駅まで。寿司海道を売りにしている街並みを5分ほど歩いて、妻が40年前に両親と行ったことがあるという亀喜という寿司店へ。立派な店に変わっていてびっくりしたとのこと。満席で2組待ってカウンター席に案内された。
 いい値段の店で、ランチが無かったので安い方から2番目のにぎりとちらしで我慢。

 松島海岸駅から瑞巖寺まで往復は蒸し暑かった。帰りに甘味どころでずんだ餅とずんだシェークを注文して妻はご満悦。
 やはり松島の人気は高い。大勢の人が訪れていた。

 帰りの仙石線では多賀城駅付近でかなりの強い雨であったが、仙台に近くになると晴れ上がって蒸し暑さが戻った。



カメイ美術館

2014年08月21日 12時13分22秒 | 山行・旅行・散策
 小雨で昨日の酷暑が嘘のような朝である。
 朝10時にカメイ美術館1番乗り。世界の蝶の収集、こけしの収集そして西洋画の収集の美術館。仙台駅から5分くらいのところにあり、静かで新しいビルの7階・6階を占めている。300円は赤字では?と心配してしまう。
 荻須高徳、佐伯祐三も良かった。各作家1点の展示だが、ヴラマンクだけは5点も展示されている。どれもが収蔵品である。とても得したような気分。
 残念なのは図録もポストカードも無かったこと。収蔵・展示だけでなく優れた作品の普及にも力を発揮してほしいと思った。図録とまでは言わないが、ポストカードは欲しいところ。
 気に入った作品を安価で手元で見たいという欲求を、特に若い人の思いを開拓してほしい。採算が取れないのかな?


 仙石線で松島の瑞巖時に向かっている。


広瀬川灯籠流し&花火大会

2014年08月20日 20時57分01秒 | 山行・旅行・散策
 思いもかけず「広瀬川灯籠流し&花火大会」の夜であった。仙台朝市そばのビルの地下の居酒屋でビールとお酒、美味しい刺身とカンパチのカマ焼きを食べた後、地下鉄で河原町駅そばの宮沢橋で見学した。
 橋の上から灯籠流しを見ているうちに花火の打ち上げが始まった。打ち上げ会場の直ぐ横の橋の真ん中にいて、最高のロケーションであった。私も妻もこのイベントは知らない。25周年ということがうたわれていた。NHKのニュースでは灯籠流し自体は江戸時代の災害の後に始まったとのこと。
 写真は後日。

 

墓参・魯迅記念展示室そして広島市内の土砂災害

2014年08月20日 17時36分03秒 | 山行・旅行・散策
 本日は墓参りの後に、市内の戻り東北大学資料館の中にある魯迅記念展示室を見てきた。同時に資料館の展示も見た。言いたいことが溢れてきた。感想は帰宅後にまとめたい。

 東京・横浜を脱出したつもりだったが、仙台の最高気温は35.4℃と横浜・東京よりも暑い。湿度も高い。日差しが痛かった。持参したペットボトルの水では足りなくて一番丁に戻り喫茶店で水分を補給し冷気に当たりやっとひと息。今年の横浜と違い風が無く厳しかった。

 広島市内の今朝未明の土砂災害、同じ政令指定都市の関連部所に長年在籍していたものとして、救助関係者の苦労は他人事には思えない。消防職員の犠牲も出てしまっている。残念である。注目していきたい。


東京脱出

2014年08月20日 10時27分21秒 | 山行・旅行・散策
 朝から30℃越えのような横浜を8時過ぎに脱出、まもなく宇都宮。晴れていて外は暑そうである。多分横浜より暑いかもしれない。
 東京駅の、ことに新幹線のホームは異常な暑さであった。出張に出るサラリーマンで混雑するホームを、一週間遅れの帰省ような親子連れも多い。若いグループも多い。ちいさな子供が顔を赤く火照らせて、足早な親に引きずられるように歩かされているのを見ると、過酷な国だなと思う。
 車窓に見える雲は真夏の雲で、西にそびえる山並みがほとんど見えない。今年の8月は山は全体として天候に恵まれなかった。来週以降山日和が続いて欲しい。