Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

枯野・枯園・枯れる

2018年12月27日 11時39分17秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 スケジュール帳には2日までの予定は空白。しかし記載はしていないが少しだけ予定はある。まず本日は図書館に先週借りた本の一端返却、そして理髪店。正月2日は親族との会食。これは特に記載はいつもしていない。

 図書館近くの喫茶店でサンドイッチでも食べながら、借りた本の第1部までのあと数ページは読んでしまいたい。返却後は特に読書の予定はない。これより本棚を漁ってみることにする。

★吾が影の吹かれて長き枯野かな       夏目漱石
★土手を外(そ)れ枯野の犬となりゆけり   山口誓子
★つひに吾も枯野の遠き樹となるか      野見山朱鳥
★わが胸を暖かかにして枯るる園       阿部みどり女


 枯れる、枯野、語の響きも、風景も好きな季語である。枯野と対する人の感慨は不思議である。枯野の蕭条とした風景がそのまま意識に作用する人、逆に心が温かくなる人、凛とした雰囲気を思い浮かべる人、さまざまである。時間軸を放り込めば、春を待つ心境になるし、衰えの道行を想定することもできる。それが枯野の魅力である。

更待月

2018年12月26日 23時43分55秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 明日よりは繁華街もすっかり正月用品の販売でにぎわうようになるのだろう。本日の夜のウォーキングで立ち寄ったドラッグストアも正月飾りが店の外まで並んでいた。ドラッグストアと正月飾りというのも変な取り合わせではあるが、23時まで営業している実質スーパーのようなものである。
 本日は更待月、月齢で言うと19日の月で月の出は20時36分。ずいぶん遅くなった。空は一面厚い雲に覆われてしまっていた。団地の入り口でたまたま本の一瞬月が雲の間から顔を出した。思っていた個所とはズレガあり、それがまた楽しい。
 29日が下弦の半月で月の出はほぼ24時である。

★雀らは地を啄みて年用意       小川匠太郎
★痩せて行く月に追われて年用意    庄司たけし
★特賞の鐘に買い増す年の市      菅原 涼

今年もブラック企業大賞

2018年12月26日 21時06分19秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 今年も恒例となった「ブラック企業大賞」が発表された。
 ブラック企業大賞は2012年にスタート。長時間労働、セクハラ・パワハラ、いじめ、低賃金――などの観点から、弁護士やジャーナリストなどで構成される企画委が各賞を選考している。
 ホームページでは「ブラック企業大賞企画委員会の担当者は『本当はこのようなイベントをやらなくてもいい社会になってほしいが、やらざるを得ない状況だ。今後もこの取り組みを続け、ブラック企業をなくしていきたい』」と記載されている。

2018年のブラック企業大賞
【⇒http://www.itmedia.co.jp/business/articles/1812/23/news026.html
 ブラック企業大賞企画委員会は12月23日、“今年1番のブラック企業”を決める「ブラック企業大賞2018」の受賞企業を発表した。労働環境の悪さなどが問題となった企業を毎年選出し、皮肉を込めて賞を送るというコンセプトの企画で、「大賞」は三菱電機が受賞した。
 「特別賞」は日立製作所と日立プラントサービス、一般投票で決まる「市民投票賞」は財務省、新設された「有給ちゃんと取らせま賞」は、自動販売機運営会社のジャパンビバレッジ東京が受賞した。
 「市民投票賞」を受賞した財務省では2018年4月、福田淳一事務次官(当時)がテレビ朝日の女性記者に対し、取材中に「抱きしめていい?」などのセクハラ発言を行っていたと報じられた。その後、同省の顧問弁護士もセクハラがあったと断定した。ただ、福田氏は事務次官を辞任したものの、セクハラを否定。麻生太郎財務大臣も「セクハラという罪はない」「男を番記者にすればいい」などと発言し、事態を軽視していることをうかがわせた。

プリンターのランニングコスト

2018年12月26日 20時25分33秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 横浜駅は昨日ほどの賑わいではなかった。普段の平日の人出程度だったか。いつものとおり書店で文庫と新書コーナーで新刊のチェック。いくつか目についたが、読む時間もなさそうなので断念。

 家電量販店でプリンターのインクの値段のチェックがてら、新しいプリンターを見て回った。原罪自宅にあるプリンターはまだ買い換える必要はないのだが、やはりインク代は高い。最近の機種はインクジェットもボトル型となり、ランニングコストが格段に安くなっている。モノクロのA4で0.3円/枚となっており、カラーでも2円台があった。販売価格もモノクロで3万円台ということなので、購入してみようか、という気にはなる。もうすぐして現在のプリンターに不具合が出てきたら考えても良いかもしれない。

 私のようにプリンターをかなり使う場合は、ランニングコストがとても気になる。しかし当面は無駄遣いと云われそうである。

 うれしいことに元日までは予定は入っていない。のんびりできそうである。3日以降は少々お仕事というか、作業にいそしまなければいけない。


500円分の笑顔

2018年12月26日 14時29分30秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 予定より少し時間が遅れたが、先ほど年賀状が出来上がり投函。いつもの年と同じくらいの数になった。ホッとしている。

 これより横浜駅まで出かけてコーヒータイム兼読書タイム。昨日妻に頼まれて横浜駅西口の福引きを行ってきた。たまたま文庫本も購入して合わせて3回ひいた。いつものとおり末等のティッシュだけかと思っていたら、末等2本と、その二つ上の4等が当たった。ティッシュが二つと100円の金券が5枚。ここの福引き、40年ほど続けているが、末等とその上の100円相当の菓子しか当たったことがない。
 今年のツキがすべてこれに集約されたのか、来年のツキの前兆なのか。いづれにしろ取りあえずは500円分の笑顔をすることにした。

明日年賀状の投函めざして

2018年12月26日 01時05分55秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 年賀状、必要枚数を概算で購入したのだが、結果的に二十枚ほど不足していた。明日早めに近くの郵便局で購入して、出来れば午前中にでも印刷を終えて、投函したいと思っている。

 「観察力を磨く名画読解」は第一部の第三章まで目をとおした。年内は27日まで開館しているので、27日以前にはいったんは返却したい。本当は1月5日が返却日であるが、6日が団地の会議、7日が退職者会議が予定されている。その資料作りを4日以降開始しなくてはいけないので、返却に出向く時間が取れるか自信がない。
 出来得るならば第1部まで目をとおして返却し、正月中旬に再度借りたいと考えている。当初書店で手に取って目をとおした時にはもう少し論理的な本かと考えたのが、判断として間違っていたかもしれない。「観察力を磨く」ためのハウ・ツーものといった本であった。少々見込み違いであった。絵画の読解のための本ではなく、社会的なスキル向上をめざし観察力向上をはかるための本であった。論理性よりも種々の体験談を羅列することで、説得力を高めようという著作である。
 上からの目線で、成功例と「注意力散漫な読者を教育する」という意識ばかりが先行しているようで、読んでいてもとても疲れる。
 素直さの欠けている私は少しばかり飽きが来ている。

忘却は生存のための本能か

2018年12月25日 20時44分29秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昼過ぎに神奈川大学の生協まで食事をするために出かけたが、生協の食堂は本日はもう営業をしていなかった。大学の本部棟の8階にある食堂でランチ590円を食べた。ここは生協の運営ではなく大学側が設置している食堂のようである。見晴らしがよく、日吉の丘から鶴見のつばさ橋、東神奈川の孝道山の丘、ベイブリッジ、根岸の丘が一望に眺められる。本日は特に晴れ渡り、抜群の眺望を楽しんだ。

 帰りに団地の傍の学校の校庭沿いの花壇に弱々しいがユキヤナギが咲いているのを見つけた。葉がこの間の台風の塩害で枯れているが、枝ごとに2~3輪ほどの花が咲いている。撮影したが、2枚ともピントが外れて残念ながら証拠写真にはならない。
 5株ほど連続して植わっており、すべてに花が付いていた。団地の中のユキヤナギは花をつけていない。ほんのわずかな距離の違いで、台風の塩害の差が出ている。今年は春先の花木の咲き具合が寂しいかもしれない。



 SDカード内臓型のカメラでユキヤナギを撮影した。その写真は使い物にならなかったが、11月に撮影した写真が保存されていた。すっかり記憶から消えていた。自宅療養で一息ついたばかりの頃で、気分が暗く沈んでいた時期の撮影である。
 人はそういうときの気分はさっさと記憶の外に追いやって、本人の自覚しないうちに、生存に向けて前向きになるのだろうか。そして私はまだそのようなエネルギーが残っているようだ。

「孤独死」

2018年12月25日 12時21分02秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 室内にいるととても明るい陽射しの朝である。風がないので、寒さはあまり感じない。
 本日中に年賀状を仕上げて投函するつもりではあるが、果たして出来るであろうか。熱の裡に昨年いただいた年賀状やら「欠礼ハガキ」を整理。
 80歳を機に賀状は止めるとの宣言も幾枚かあった。だんだんと増えてくる。同時に新しい友人からの賀状も数枚。
 「欠礼ハガキ」は今年は11枚も来た。昨年よりも多い。亡くなった方の年齢を見ると同年代も幾人か。それだけ我々も歳をとったということである。が、亡くなった親の年齢はいづれもが90代半ばであった。これにはびっくり。ずいぶん長寿となったと思う。
 はたして我々の年代は平均寿命は延びるのだろうか。私は平均寿命は団塊の世代直前までだと思う。その後は下降へ転ずるように思えてならない。それが健康寿命といわれるものなのか、実年齢なのか、分からない。下降へ転ずるという根拠はまったくない。単なる「感覚」だけである。

 最近「孤独死」ということばをよく聞く。いづれも否定的に使われる。だが、どうなのだろうか。確かに死後、遺体の引き取りもなく、葬儀も出せず、という形は周囲の人びとや公的な機関にも多大な面倒をかけてしまう。
 だが、それだけではなく家族があっても一人住まいを選択して、ひっそりと亡くなりたいという人もたくさんいる。「孤独死」それ自体をすべて否定的に捉える、という風潮には私は首をかしげたくなる。それは個人の意志でもある。亡くなって日が経つことのデメリットは確かにある。「面倒をみなかった、看取らなかった」といって、遺された親族・家族は社会的な批判を受けかねない。また遺体の腐敗など周囲の迷惑もあるかもしれない。だが、一人静かに、人知れず死を迎えたいという意志をどのように尊重するか、考えてみたいものである。

 私もそのような立場になったら、一人静かにそっと生を終わりたいと思う。死んだら葬儀をするか、しないかは遺族の判断だが、私が亡くなることで、生き残った友人たちがささやかに酒盛りなどをする機会を提供できるなら望外の喜びである。
 それが隣人など周囲の人間の迷惑というなら、施設に入るしかない。だが、そのような資力は多分ないと思う。遺族にそれを負担はさせたくもない。
 妻よりも私が先に死ねば、妻には多大な面倒をかけることになる。それもまた心苦しい。

 人に迷惑を掛けずに死ぬ、ということはとても難しいことのようだ。

 正月を前にこんなことを記載して、不愉快にさせたら申し訳ないが、思いつくままに記してみた。


世界平和アピール七人委員会アピール

2018年12月25日 01時04分00秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
世界平和アピール七人委員会のアピールをいつものとおり、そのまま掲載します。
【⇒http://worldpeace7.jp/?p=1154


2018年12月17日
☆平和アピール七人委員会
武者小路公秀 大石芳野 小沼通二 池内了 池辺晋一郎 高村薫 島薗進

 政府は、沖縄県民の意思を無視して、玉城デニー知事の度重なる対話要請に真摯に向き合わず、対話を拒否し、辺野古の恒久基地化をめざし、埋め立て計画区域への土砂投入強行を始めました。
 安倍政権の度重なる暴力的行動は、日本国憲法に書かれている「国政は、国民の厳粛な信託による」とする人類普遍の原理に違反し、平和のうちに生存する権利を否定するものです。政治には倫理とヒューマニティが必要です。
 世界平和アピール七人委員会は、19世紀に琉球王国を滅亡させ、20世紀に沖縄戦において県民に多大な犠牲を強いたことに続く、21世紀の琉球処分を認めるわけにいきません。私たちは 沖縄県民の側に立ちます。
 国民一人一人が他人事と思うことなく、現状を直視し、発言されることを求めます。



寒い空に「居待月」

2018年12月24日 23時22分42秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 「観察力を磨く名画読解」の第1章と第2章。話体で少々饒舌すぎる叙述である。読み易いのかもしれない。上からの目線が気になる叙述であるが、読み始めたので最後まで目をとおす予定。

 本日は月齢17の「居待月」。22時近くに東の空に上がっていた。夜のウォーキングに出かけたときに気がついた。雲が周りを囲み、寒く無ければしばらく見上げていたかった。強風注意報が解除されたとはいえ、まだそれなりに風がある。ダウンのコートの下にセーターを着こんでいても風が強く寒かった。明日の朝はかなり冷え込みそうである。
 明日の最低気温の予報は4℃。濡れていれば凍結間違いない。最高気温の予報も10℃、よこはまにしてはとても寒い。

★聖樹の灯みなとのあかりに月隠る    菅原 涼
★冬の月ビルの窓より三つほど      遠藤誠三

みなとみらいのライトアップ

2018年12月24日 20時42分07秒 | 日記風&ささやかな思索・批評


 夕方になり、妻から突然に「「みなとみらい」でライトアップを見に行きたい」とのリクエスト。人出がかなり予想されるし、寒い、さらにその気にはならなかったが、余り意固地でも嫌われるので、とりあえず行くことに同意。
 クリスマスの繁華街、それも若いカップルが大勢集まるところなど結婚してからいつ行ったろうか。まるで記憶がない。

 横浜駅東口から赤レンガ倉庫行きのバスが出ているのに気づいて乗車。途中窓の外のイルミネーションで飾られたみなとみらい地区を横断。マークイズ、クイーンズタワー、ランドマークタワー、横浜美術館、国際展示場などを見ながら赤レンガ倉庫に着いた。若いカップルと小さな子供を連れた家族で広い赤レンガ倉庫付近はごった返していた。シーバス発着場を一目見ただけで、電車道をブラブラしながら桜木町駅に戻った。やはり私が行くところではなかった。

 桜木町駅前のスペイン風のレストランで食事をして帰宅。ワインもビールも飲めず、さびしかったが、パエリアとラザニアを注文。分け合って食べた食事は美味しかった。

 食事をした近くにあるパン屋さんで朝食3回分ほどのパンを購入。苺のショートケーキを買いたいとのことであったが、一切れ600円以上という「クリスマス価格」に妻もビックリ。諦めて、家の近くの駅前のコンビニで二切れで450円ほどのものを購入してきた。苺のショートケーキと紅茶という組み合わせのデザートで本日の食事は終了。

 やはり私にはクリスマスは似合わないし、避け続けたいものである。だが、身内に誘われると断れない。

読み終わった本「受胎告知」(高階秀爾)

2018年12月24日 11時55分31秒 | 読書


 本日読み終わった本は「《受胎告知》 絵画で見るマリア信仰」(高階秀爾、PHP新書)。一見ごく優しい入門書である。しかし私の知らなかったこと、知っていても関連付けが出来ていなかったこと、それなりにあった。
 私の西洋の絵画についての知識は、素人があちこちの書籍に目をとおして得た知識であるので、体系だったものではないことがすぐにばれてしまう。この著者のような方の著作を読むと、自分の知識が如何に中途半端なものか、理解できる。そういった意味では貴重な作者である。
 特に最後の3つの節、バロック以降の叙述は私の頭の整理に役立った。

「18世紀にも優れた《受胎告知》が描かれなかったわけではないが‥キリスト教絵画はゴシック時代以来の勢いを失っていく。17世紀中ごろから静物画や風景画、肖像画などが‥大きな位置を占めるようになるにつれ、やがて神秘や奇跡といった表現は後退せざるをえなくなった‥。(力を強めた)市民たちは荘重でいかめしい表現よりも感覚的で軽やかな作風を好んだ‥。」
「その中にあって、1848年にラファエル前派は‥初期ネルさん巣美術を模範とする主張を唱えた。ロセッティはあえて《受胎告知》を描いた。‥(白いベッドから)たったいまおき上がったばかりのようなマリアが表現されている。大天使ガブリエルが唐突にやって来て、驚いて目覚めたニュアンスをごく日常的に描きだしている。マリアも大天使も一般人のように描かれている。‥バーン=ジョーンズも《受胎告知》を描いている。」
「1833年から40年頃にかけて、イギリスではオックスフォード運動という新しい宗教の動向があった。当時の自由主義的な風潮に異を唱え、教会の歴史的権威をあらためて見直し、典礼を重んじようとする復古運動である。ラファエル前派が《受胎告知》をはじめ聖書を主題とする絵画を多く制作したのは、このオックスフォード運動が背景にあった。また20世紀になるとフランスで宗教芸術再興運動が起きる。その中心的存在は、フランスの‥モーリス・ドニ(1870-1943)である。‥ドニの《受胎告知》は、清明な色彩による落ち着いた平面構成で穏やかな一作である。」

 最後の節で、20世紀の作品はウォーホルなど《受胎告知》には宗教的な意味は認められない。ゲルハルト・リヒターなども造形的探求の手がかりとして引用しているに過ぎない、と記載している。




クリスマスには背を向ける

2018年12月23日 23時52分52秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 クリスマスという季語を歳時記で引いてみると、まずはクリスマスという行事に明るく楽しくなじんでいる句が目につく。
 何があろうが、素直に世に従わない私は皆が楽しく浮かれていると、まずは不機嫌になる。そして決して肯定的には同調しない。クリスマスと聞くとまずは背を向ける。
 クリスマスを素直には喜んでいない句をまずは探してしまう。

★イヴの灯のとどかぬ闇に生きるもの    大西やすし
★人工滝見詰めて聖夜の酔ひさます     中村和弘
★へろへろとワンタンすするクリスマス   秋元不死夫
★虫ひとつ殺して聖樹を飾り終え      藤井健史


 むかしいわゆる受験校で、カトリックに基づくミッションスクールの中学1年となったとき、12月にクリスマスパーティーが開かれた。小学校の低学年でも騙そうというかのようなちゃちな馬小屋に年老いたみすぼらしい老人と若い母親、包まれた赤子、そしてそれを拝む3人の男と3頭の馬かロバかわからない動物の舞台、そして高さ3メートルほどのクリスマスツリーを見せられ、ブラザーの聖書の朗読を聞かされた。あのちゃちなものはブラザーが毎年「精魂を込めて作る」と聞いた時には唖然とした。

 聖書の朗読は、中学1年から高校3年まで1200人がとてもまじめな顔をさせられて聞かされていた。入学して1年近く経った私たちにはそろそろ学校に慣れてきて、あまりのお粗末な飾りに辟易したが、高校3年生まで真剣な顔をして参列していることの方がおかしかった。それは同じクラスの友だちとも共有した感想であった。

 それ以来私は、ミッションスクールの行事には背を向けることにした。面従腹背、早く卒業してしまいたかった。やめるのは面倒であった。公立の中学に行くのはもっと嫌だった。親と喧嘩するのも面倒に思われた。学校というところに居場所はないと悟った瞬間でもあった。
 数学や理科の教科書や問題集を解いているほうが面白いと思った。国語で習う小説を読んでいるほうが楽しいと心底思った。

 カナダに本拠があるというブラザーの母体である修道士会とその学校法人の鼻持ちならない高慢さと、十代の少年を宗教の行事の時には幼児のようにとらえるアンバランスな姿勢が、嫌になった。ただし、にもかかわらず個人的には魅力あるブラザーも幾人かはいた。個人の振舞いと集団としての振舞いには大きな乖離もともなうということもうすうす気がついた。

 それ以来、クリスマスというととても馬鹿馬鹿しいものだと思い込んでいる。当時はクリスマスはサラリーマンが街中でへべれけに酔っぱらって大騒ぎをする時代でもあり、私はますます本筋から逸れているクリスマスが嫌いになった。

 クリスマスを享受する世相、クリスマスのおおもとの教会の子供だましの飾りつけ、両方とも私は受け入れなかった。



「受胎告知」(高階秀爾)から

2018年12月23日 20時31分00秒 | 読書
 今回もいつものように覚書として、メモ代わりに。

「ルネサンス期を特徴づける様式といえば、大きく分けて「遠近法」と「肉づけ法」、「明暗法」がある。(遠近法では遠くへ行けば小さく見えるという考えに基づく「線遠近法」と、同じ色でも手前にいる人ははっきりと鮮やかに見える一方、遠くの人は少しぼやけ、ぼんやり見えるという視覚体験に基づく「色彩遠近法」という方法がある。)「肉づけ法」は、例えば人間の顔を恵萼歳に、鼻や顎は少し前に出ていて、頬は丸みを帯びるというように、凸凹を明確に描き+。この肉付けという手法は陰影の効果によって実現されるが、その背景には油彩画の発達が非常に大きく寄与している。「明暗法」は、空間の中に何かを置いた時に、どの方角から光が入ってくるのかによって、光のあたり方が決まることに着目した手法である。」
「すなわち音金法は三次元の空間を、肉付け法は対象の立体性を、そして明暗法はその空間における対象の配置を明確に規定し、併せて、目に見える現実と同じように世界を画面に再現するという技法である。これらの三つの手法は、14世紀の終わり頃から模索され、15世紀にはほぼ完成を見た。」


「ゴシック時代から人間的に描かれるようになったマリアは、ルネサンス時代を迎え、いちだんと人間味あふれる親しみやすい存在として描かれるようになる。‥ルネサンスとは、現実の魅力に目覚めた時代だったのである。」

聞こえないふり‥

2018年12月23日 12時06分19秒 | 思いつき・エッセイ・・・

☆歳をとると耳が遠くなる☆

 歳をとると耳が遠くなる、ということをよく聞く。そして確かに多くの先輩が、低音が聞きづらくなったり、会話に支障をきたして、補聴器をつけ始めている。
 私もテレビの音が大きくなったといわれる時がある。同じテレビで以前は音量が40段階で1年中14で聞いていた。最近は夏場のクーラー作動時や冬場のガスストーブを点けた時には17位に音量を上げないと聞きづらい時がある。
 それは番組にもよる。だいたいバラエティー番組では14位でも煩いし、そのチャンネルにしているだけでわずらわしい。喋りの整ったアナウンサーであれば、男女を問わずボリュームは上げないでも聞こえる。早口の喋りでも男女や低音・高音に関係なく聞きやすい芸人がいる。話芸というのは喋り方がスマートというのではなく、老若に関係なく、聞きやすさを心得ているのであろうと、推察している。要するに嫌な声、どうでもいい音声は耳がひろってくれない。これは反面ではいいことだ。

☆聞こえているのに聞こえないふり  その1☆

 だが、聞こえているのに聞こえないふりをする場合が多い、ということに若い人は気がつかない。また同年代や高齢の人自身も無自覚である。
 聞こえているのに聞こえないふりというのは二種類ある。

 会議の前後などで会話中に他の方に割り込まれると、聞こえないふりをする場面が明らかに増えた。複数のことを同時に進行させることがとてもわずらわしく、面倒になってきている。
 もともと人が他の人と会話中に声をかけてくる人というのはいつも決まった人である。人の都合よりも自分の都合を優先する人である。そしてその都合はほとんどの場合あまりたいした重要性や緊急性はない。「そんなこと自分でやってよ」という一言で片付けたい。そのようなことはたとえ聞こえても聞こえないふりをすることにしている。その方が相手を傷つけることばをこちらから発しない分、人間関係を悪くする契機とはならない。歳のせいにして聞こえなかったといえば逃げられる。
 逆からみれば、この人のいうことは大切、と思う場合や、急ぎかどうかを判断してその場合は反応することにしている。

☆聞こえているのに聞こえないふり  その2☆

 もうひとつ聞こえているのに聞こえていないふりをする場合がある。それはテレビの番組内容や読書や自分の思考に熱中しているときである。それらは中断すると次に思い出せなくなる、というときである。その時は聞こえないふりをする。それはたいていが家にいるときが多い。妻から声を掛けられる場合が圧倒的である。
 妻に言わせれば、私のいうことを無視した、と不機嫌になる。これは申し訳ないと思いつつも、思考を中断されるのが歳をとるとつらくなるのである。それは私から妻に声をかける場合も同じである。
 ところが、ふだんあまり大勢の人と会話をする機会が少ない妻にしてみれば、たまに会話をしたいときに無視をされた、と傷つく。私は人に囲まれている時間が多いので家では静かにしていたい。これはもうすれ違いそのものである。ここの折り合いが夫婦関係の持続の難しいところである。無視された妻からは、耳が遠くなってやはり歳なのね、といわれる。

☆補聴器の装着☆

 以上のふたつの、聞こえているのに聞こえないふりを演じているという自覚があるうちは、多分補聴器のお世話にはならずに済むと思う。しかしその自覚がなくなったら補聴器の装着を考えた方が良いようだ。
 もうひとつ、テレビの音量が40段階のうち、20を超えたらやはり考えなくてはいけないかもしれない。客観的ものさしと、自覚、二つは手放せない。