Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

ブラームス「チェロソナタ第1番、第2番」

2019年04月26日 13時44分19秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 11時ごろまで雨が降っていた。時間雨量10ミリ未満、昨日とは違って本降り。ようやく雨が上がった。

 本日はブラームスの2曲の「チェロソナタ」を聴きながらの作業。チェロは堤剛、ピアノがウォルフガング・サヴァリッシュ、1978年5月の録音。堤剛36歳のときの録音である。第1番の冒頭からの朗々としたチェロのソロは何度聴いてもすぐに引き込まれる。チェロの魅力十分の曲であり、演奏だと思い込んでいる。
 ヴァイオリンをいじったことのある私にもチェロの弦を抑えたときの強い弦の振動は魅力的だ。あの強い振動をきちっと4本の指で押さえこんで、指と駒の間の弦を情感を込めて鳴らすことができるのは演奏家冥利だと思う。チェロは4本の弦が個性を持ちながらもその力強さはヴァイオリンの弦を抑えるのとはずいぶんと違う感触と、「柔らかい力強さ」が必要である。形容矛盾のような表現だが、ほかに表現のしようがない。
 弦を抑えた指を通してあの振動を棹、そしてふくよかな胴体に伝える、弓が引き起こした振動は一方では駒を通して振動を胴体に伝える、反対側は指という肉体を通して棹からその振動を胴体に伝える。木質と肉体と馬の尻尾の毛による振動が音となる。そんな不思議な感覚を演奏者に与えるのが弦楽器である。チェロの魅力はその音が人体の発する音程と近いことにある。それゆえに演奏者の指の感覚が聴衆に追体験のように伝わることでもあると思わせる。
 このブラームスのチェロソナタはそんなチェロの魅力で全身を浸してくれる。

薄い雲が空を覆っている

2019年04月25日 23時28分20秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 30分ほどの夜のウォーキング。歩き始めは低い雲がほぼ全店を覆い、ところどころで空が見えていた。歩いているうちに雲がきれいになくなった。最後の5分ほどで今度はごくうすい雲があっという間に空を覆った。高度の高い雲と思われるが、拡がるのが早かった酔いだ。湿度は相変わらず高いようだ。
 もう少し作業をしてから風呂と就寝の予定。明日は昼間は特に予定がないので作業を進めたい。夜は団地の管理組合の作業がある。

 本日は梅雨時のような気温と湿度であった。明日の降水確率は終日50%と本日のような雨なのだろうか。しかし最高気温が19℃、本日よりも5℃低い。

ブラームス「ホルン三重奏曲」「クラリネット三重奏曲」

2019年04月25日 21時22分17秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 ホルンの柔らかい落ち着いた音色は好みである。学生の頃、友人が「ホルンの魅力に取りつかれると抜け出せなくなる」と言っていたのを思い出す。その友人はホルンを吹かずに、聴くことに専念したいとも言っていた。わたしもその影響でホルンを聴くようになった。
 最初に聞いた曲がモーツアルトのホルン協奏曲。その次にブラームスのこのホルン三重奏曲を聴いた。その後は交響曲などの管弦楽曲のホルンのパートに注目するようになった。
 このブラームスのホルン三重奏曲の重々しい出だしと悲しげなメロディーが続く第3楽章がわたしの好みだ。ホルンとピアノの掛け合いも美しい。第4楽章の細かいホルンのパッセージを聞くと高度な演奏技術が求められることが推察される。
 クラリネット三重奏曲、ブラームスの最晩年の光芒を見るような曲である。クラリネットとチェロとの掛け合いが全曲をとおして美しい。クラリネットの音色は高音を含んでいて不安定に聞こえるのだが、この曲ではチェロが組み合わされることで安定して聞こえてくるのが不思議である。ブラームスならではの音の世界である。

あまりに蒸し暑かった

2019年04月25日 20時06分33秒 | 天気と自然災害
 朝から出かけて、16時過ぎに帰宅。16時半から18時半過ぎまで熟睡してしまった。昼寝の範疇を超えた睡眠であった。
 「寝る子は育つ」ではなく「寝る年寄りは‥‥」。「‥‥」には何が当てはまるか、思いつかない。

 朝のうちは霧のような雨、湿気がひどく鬱陶しい天気であった。午後からときどき太陽が顔を出し、帰宅時にはすっかり晴れあがり、陽射しが痛いほど。しかし湿度は下がらず、とても蒸し暑かった。

 夕方にかけてこなそうとしていた仕事を夜にかけて少しでも片付けたいが‥。

ブラームス「ヴァイオリンソナタ」

2019年04月24日 22時06分02秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 ブラームスのヴァイオリンソナタ」は全部で3曲。今回はローラ・ボベスコのヴァイオリン、ジャック・ジャンティのピアノで1980年から1981年にかけての録音。
 第1番は朝にアップしたヴァイオリン協奏曲の苦闘の直後に完成している。ヨアヒムとの格闘の中でヴァイオリンの特性を体得したブラームスの最初のヴァイオリン曲と云えるらしい。
 第1番の第3楽章に自身の歌曲「雨の歌」の旋律が使われており、「雨の歌のソナタ」と呼ばれている。哀愁のただよう抒情性、と云われている。確かにこの曲は春の雨の夜にじっくりと聴きたい曲のひとつである。本日のような天気の日の夜に似合う。
 第2番、第3番は第1番からほぼ8年後~10年後に作られている。時期は近いし、また充実した時期の作品であるが、どちらかというと対照的な雰囲気を持つ。
 第2番が明るい抒情を讃えた曲の雰囲気とするならば、第3番は内にエネルギーが向かうようなイメージ、そして重厚なイメージでもある。第3番の第2楽章、ゆったりとした楽章だが特に最後の方のヴァイオリンの低音とトレモロが本日はとても惹かれた。


ブラームス「ヴァイオリン協奏曲」

2019年04月24日 13時06分31秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 本日はまずブラームスのヴァイオリン協奏曲から。シュロモ・ミンツのヴァイオリン、アバド指揮のベルリン・フィル。1987年の録音。もう32年も昔の演奏である。

 完成されたのが1878年というから141年も前の曲であるが、わたしも含めて多くの人はそんな昔の曲とは考えもしないで、繰り返し繰り返し聴く。この年は元号で言えば明治11年ということになる。日本では自由民権運動が胎動し、大久保利通が暗殺され、帝国憲法(1989)、帝国議会(1890)へと進む起点ともいえる。民権ではなく国権が伸張する時代である。そしてこの年フェノロサが来日して日本の美術界も節目を迎えた。ドイツではビスマルクが権勢をふるい、フランスではパリコミューン後の反動の時代。

 この曲、ヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムとの合作ともいわれるほど、二人の厳しい意見のすり合わせから生まれた。ブラームスはこの曲を作ることでヴァイオリンの特性を身に付けたのかもしれない。
 第2楽章をブラームスは「弱々しい」と表現しているようだが、ヨアヒムの意見が多く取り入れられているのであろう、ヴァイオリンの音がことのほか美しい。ブラームスの音の厚みのある構成的な響きとはちょっと異質に聞こえることもある。しかし全体を通して聴くと第1、第3楽章の間にあることで、より好ましく聞こえる。

予報どおりに春の雨

2019年04月24日 10時44分52秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 朝からどんよりとした空模様、湿った空気が重苦しい。30分ほど前から微かに降りだした。レーダーの画面を見ると南北に連なった東西に細い弱い雨の区域が西南西から東北東へながれて行く。地上の風は南風で強い。
 この帯状の雨の区域はいったん途切れるが、その西側に広い雨の区域が迫っている。それほど強い雨は降っていないようだ。
 気温は9時ですでに19.7℃、最高気温の予報が21℃などでほとんど変らずに推移しそうである。

 太陽が顔を出すようなことはないような雲の具合、部屋の中が暗く電気をつけている。

★百万年の人の孤独や春の雨     庄司 猛

明日は朝から雨の予報

2019年04月23日 23時28分53秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 明日は朝から雨の模様。今年の「穀雨」は雨が降らないらしいと記事をアップした直後に、雨の模様と記載するのも恥ずかしいが、天気予報をよく見ていなかった。少しは地面も潤うようだ。
 25日(木)は朝から出かける予定なので、残念である。気温は25℃を超えるらしい。27日(土)~29日(月)までは雨は降らないものの最高気温が20℃以下の予報になってぃる。半袖と長袖が交互に必要になるようだ。

 雨の日は、特に予定がない限り外出はしたくない。明日は一日家に閉じこもりになるのか。それもまた良い、とするのか、それでも少しでも外に出ようとするのか。どんな気分の一日になるか。

 久しぶりにブラームスでも聞きながら仕事に精を出すのが賢明なようだ。聴くとすれば、ブラームスは何がいいだろうか。ブラームス三昧というのにも惹かれる。

穀雨

2019年04月23日 22時16分36秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 「穀雨」は4月20日であった。「八十八夜」は5月2日、この頃の雨は農作業には重要と云われているが、今年の4月は関東地方の雨が少なかったとのこと。天気予報で触れていたが、例年の半分以下の雨量だったようだ。

・音絶えて荒れ田棄て田の穀雨かな     宇垣方正
・稲よりも草立ちあがる穀雨かな      岬 大鳳

暮の春・春惜しむ

2019年04月23日 19時57分20秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 組合の会館で、コンビニで購入した小さな弁当を食べた後、3時間ほどの作業。総会後の懇親会の後片付けの仕上げ。後片付けはみな手馴れており、当日あっという間に会場は綺麗に片付いた。いつものとおりまだ使える皿・コップや残ったお酒などなどもまとめて事務室内に運んでもらっている。これを片付けて収納した。
 本日は特に慌てる必要もないので、ゆっくりと。あとは前渡金の清算を書記の方にしてもらって終了。
 関内駅まで戻り、山頭火句集を片手にコーヒータイムとしゃれこんだが、90分のうち半分は確実に寝ていた。ただし読書した時間はちゃんと覚えている。メールが届いてみているうちに寝てしまった。テーブルに持たれて画面を見ていたが、スマホを落すことなく熟睡していた。
 さらに若干のメーデーの準備作業。旗など持ち込みの者を揃えた。

 年度の変わり目の慌ただしさの中、春が終わろうとする暖かさに体が睡眠を欲している。

★人入って門残りたる暮春かな      芝不器男
★惜春のわが道をわが歩幅にて      倉田紘文


 「暮の春・暮春・春暮る」とは春が終わろうとする時候のことで、春の夕方(=春の暮)という意味ではない。

春の終り、夏の準備

2019年04月23日 10時26分26秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日よりは少し肌寒く感じる朝、雲が多くなかなか太陽が顔を出さない。体調と気分は良い。昨日のような暖かさなら半袖で十分かと思ったが、昨日より▲3℃との予報が出ており、引続き長袖とした。ただし腕まくりができる服にした。一応ウィンドブレーカーはリュックに丸めて放り込んだ。

 これより組合の会館へ。メーデーの準備作業である。いつの間にかもう春も終わり、5月6日は立夏、夏が始まる。

雨がパラついた

2019年04月22日 23時01分48秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 どういうわけか、明日も組合の会館に出向かないといけなくなった。短時間で用事は終わるが、午前中にでもそれは済ませてしまいたい。
 明日から本腰で5月号の退職者会ニュースの原稿作りを始めようと思っていたのだが、ちょいと出鼻をくじかれた。ささいなことで頓挫してしまうのが、最近の私の悪い傾向。歳の所為にはしたくはないが、気力が失せてきているのだろうか。

 さて22時を過ぎる前に、軽く夜のウォーキングに出かけ、早めに帰宅したい。先ほど18時ころ帰宅直前に雨がばらついた。今のところ雨は上がっているが、心配である。


桜蘂(さくらしべ)降る

2019年04月22日 20時29分41秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 今年は三週間近く咲いた桜であるが、今はもう桜蘂が大量に樹の根もとに堆積している。その上を歩くと乾いた音がする。靴に踏まれた蘂の音である。花弁と違って桜の蘂は乾燥している。靴に踏まれて乾いた悲鳴をあげる。桜の蘂に桜の名残を見ている。

★花蘂降るきしきしと死者の群れてゆく  遠藤宗一
★実盛の甲花蘂ふりやまず        田沼麦秋
★桜蘂降る一生が見えて来て       岡本 眸


 第2句は芭蕉の「むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす」(奥の細道)を踏まえる。子供の義仲を救った実盛が、年経て平家方として義仲と戦うが、白髪を染め若武者の出で立ちで出陣するも討たれる。義仲は恩人実盛の武勇を讃え多太神社に兜を奉納する。また「むざんやな」は謡曲「実盛」の「あなむざんやな」による。
 第2句は「キリギリス」という秋の句から「桜蘂降る」と晩春に季節を移し、さらに梶井基次郎の「桜の樹の下には屍体が埋まっている」という「桜の樹の下には」という短い小説も踏まえた句に転換している。
 第1句の「死者」とは何か、多分「きしきし」は蘂を踏んだときの音。その上を歩いているのが、生きた人ではなく、「死者」だというのだ。桜の花の散った後に死者が歩いている。桜の花のように生を散らされた、生きることやめさせられたのだがに、無惨な死、強制された死や、突如として強いられた災害死などを指すのだろか。たぶん無念の思いがあるのだから、理不尽な死、社会的にもたらされた死をイメージできるのではないか。それが亡霊のように生きて桜蘂を踏んでいく。しんでもなお更新するならば、戦争で死んだ兵隊の詩であるに違いない。戦後になって戦争を思い出している句なのではないか。戦争による死が、報われていない、十分に慰霊されていない、戦争がきちんと総括されていない戦後を憂いているとおもうのは私だけだろうか。
 第3句、桜の花の最後は、蘂が降ることで最終となる。人の一生をそこに垣間見た句であろうか。
 

「寒雷」(加藤楸邨)から

2019年04月22日 10時48分57秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 加藤楸邨の第1句集「寒雷」の中の「愛林抄」(1935~37)に「農句」という5句の連作がある。

★北風に言葉うばはれ麦踏めり
★麦を踏むけはしき眼何を憎む
★麦を踏む子の悲しみを父は知らず
★麦を踏む父子歎きを異にせり
★降る雪が父子に言を齎(もたら)しぬ


 私は、ミレーの「種まく人」や、それを独自の色彩感覚で模写したゴッホとゴッホの初期のオランダ時代の作品などを思い浮かべた。
 昨日取り上げた眩いばかりの色彩感覚の作品とは違って、単色の寒々とした冬の季節風にさらされる人間がたたずむ風景である。
 春日部で教員生活を送る加藤楸邨の生徒たちは農業を営む子弟が多かったと自ら書いている。昨日のような作品と、このような「社会性」のある作品がこの「寒雷」には同在している。これが魅力であると私は感じている。
 父子の間の意識や世代間の落差をつなげるのが、労働の現場に現われる自然の厳しさである。それが人の生存を律してきた。一方でその厳しい現実をもたらすものへの鋭いまなざし・視点を作者は持ち合わせている。

 さて、時代はわずかに80数年たった。あの戦争をくぐりぬけ、私たちは何を獲得し、何を失ったのか、自問自答が続く。



   



加藤楸邨の「鵙」の句

2019年04月21日 21時32分03秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 加藤楸邨の最初の句集「寒雷」の「愛禽抄一」におさめられている「鵙(もず)」の句から。鵙は秋の季語であるが、本日取り上げてみた。

★かなしめば鵙金色の日を負ひ来
★目をほそめ没日(いりひ)の鵙をしかと見たり
★ひとの目に鵙群青の空を翔(か)く
★冬日没る金剛力に鵙なけり


 山本健吉は「現代俳句」という著作の中で、第1句は「秋の夕べの輝きを負って、鵙が高音を張りながら一直線にこちらの樹へ飛翔してきたのである。‥(鵙の)乾いた高音は澄み切った秋の大気を感じさせる。‥何もかも茜色に染め出すような秋の入日の景にふさわしい。‥豪華な色彩と強烈な主観とに彩られ、厭離も大きく躍動して重々しい」と評している。

 初期の加藤楸邨の句は色彩感覚に優れ、写実的で印象鮮明な句が多い。そして「かなしめば」「しかと」「金剛力に」など主観が強く打ち出されたことばがするどい。この主観的なことばを嫌う人も多いようだが、私はこの強い言い切りに惹かれる。そこに作者の表現意識を感じ取りたい。単に印象鮮明なだけではない抒情があるように思っている。抒情がなければ「詩」ではないが、安易な抒情は俳句から「抒情」を無くしてしまう。詩とは言えなくなる。

 私は、これらの作品を読んで、琳派の作品、それも鈴木其一の作品などを思い浮かべてしまった。