Sightsong

自縄自縛日記

2014年10月、ハノイ(1) 朝の湖畔

2014-10-12 10:19:07 | 東南アジア

1年半ぶりのハノイ。

東南アジアの散歩は朝に限る。おそらくそれが常識であって、ティエンクアン湖や統一公園(むかしのレーニン公園)のバイマウ湖の脇では、散歩だけでなく、大勢の人が、ダンス、器具を使ったエクササイズ、何やら独自のエクササイズなんかをしている。朝6時からテニスをしている人までいる。

やはり、ホテルの朝食などではなく、外でフォーを食べるべきだったか。

※写真はすべて Leica M3、Pentax 43mmF1.9、Fuji 400H

●参照
旨いハノイ
2013年1月、ハノイ
2012年8月、ハノイの湖畔
2012年8月、ハノイ
ハノイのMaiギャラリー
2012年6月、ハノイ
ハノイのレーニン像とあの世の紙幣
ハノイの文廟と美術館
2008年10月、ハノイの街


旨いハノイ

2014-10-09 05:27:55 | 東南アジア

1年半ぶり、5回目のハノイ。相変わらず食事が旨く、つい食べ過ぎて反省することを繰り返している。

■ Pho 24

ハノイには何店舗もあるフォーの店。また、ベトナムだけでなく他国にも展開している。ジャカルタでも見かけた。東京では、大森などに3店舗を構えていたのだが(味は同じで、当然値段が東京価格)、残念ながら、昨年撤退してしまった。

久しぶりに食べたらやはり旨い。これに比べると、ホテルの朝食や(Pho 24でない)東京のフォーの店の味が物足りなく感じてくる。


フォー・ボー


レアなカップ麺を発見。買わなかったが。

■ Wild Lotus

ティエンクアン湖の近くにあるベトナム料理店。店のつくりも料理も洒落ていて、外国人の客が多い。

海老グリルのオレンジソースが妙に気に入ってしまう。


牛肉のゴマ和え


海老グリルのオレンジソース

■ ASHIMA

数年前に登場した、きのこ鍋の店。ハノイとホーチミンに数店舗あって大評判らしい。今回ぜひ再訪したかった。

5種類くらいのきのことスッポン。特に翌朝の美肌効果はなかった。


調理前のスッポン

■ Duy Diem

ハノイ中心部から西に外れたあたりに、ブンチャ(細麺をつけ汁に浸して食べる料理)の店が並んでいるエリアがある。店頭で肉を焼いているところも多く煙もうもう。旧市街にも同様にブンチャが評判の店があるが、そちらは観光客で行列さえできているのに対し、こちらは地元住民ばかり。

この店をDuy Diemというご夫婦がはじめたところ、大当たりして、同じような店が周囲にもできたのだとか。

来るのは2回目。つけ汁のなかの肉が香ばしくて実に旨い。

■ CAY CAU

中心部にあるベトナム料理の店。中ではベトナムの弦楽器と笛による生演奏もあって居心地がいい。

柑橘のサラダが旨い。


柑橘のサラダ


海老のビール蒸し

※写真はすべて、Nikon v1 + 10mmF2.8


アピチャッポン・ウィーラセタクン『トロピカル・マラディ』

2014-09-21 17:10:50 | 東南アジア

アピチャッポン・ウィーラセタクン『トロピカル・マラディ』(2004年)を観る。

摩訶不思議な感覚の映画だ。場所は、『ブンミおじさんの森』と同様に、タイ北部の森林地帯だろうか。

ヒマな青年と、森林警備兵の青年。かれらはお互いに好意を持ち、膝枕を頼んだり、手を舐めたりして、親愛の情を確かめあう。ことさらに同性愛だと言うほどのこともない、自然な感情の発露のようにみえる。カメラはそれぞれの顔をとらえて、その視線は動かない。かれらの顔や身体のゆらぎが、湿度の高い自然のなかに置かれ、それを観るこちらも強引に世界に連れていかれるようだ。

感情の交歓であったはずの映画は、後半になり、様相を異にする。森林警備兵の青年は、森林のなかで、動物に姿を変えることのできるシャーマンに翻弄され、突如として、自分の存在を見つめざるを得ない場所に追い込まれる。かれは、シャーマンが化けた虎に凝視され、動揺しながら、彼岸と此岸のどちらを選ぶか、おのれは何によって生きているのかを考える。

何なんだ、これは。アピチャッポンは天才か。

●参照
アピチャッポン・ウィーラセタクン『Fireworks (Archives)』
アピチャッポン・ウィーラセタクン『ブンミおじさんの森』


アピチャッポン・ウィーラセタクン『Fireworks (Archives)』

2014-09-13 22:13:55 | 東南アジア

谷中のSCAI THE BATHHOUSEに足を運び、アピチャッポン・ウィーラセタクンの個展『Fireworks (Archives)』を観た。

同名の映像作品が中心となった展示である。

タイ北部、ラオスとの国境近くにあるノンカイ。アピチャッポンによる『ブンミおじさんの森』(2010年)の舞台も、ラオスから働き手が来る、このあたりの森の中だった。『Fireworks (Archives)』では、夜、花火や人工的な閃光により、不連続的に、寺院のオブジェや彷徨う人びとを浮かび上がらせている。

石で出来たオブジェには、さまざまなものがある。象、犬、猿、よくわからない生き物。それらは、おそらくは民間信仰の対象であり、またおそらくは中央に抑圧された人びとの表現の場である。森と人びとの息遣いとともに、潜在的な叫びが鮮烈に提示されているように思える。

●参照
アピチャッポン・ウィーラセタクン『ブンミおじさんの森』


古田元夫『ホー・チ・ミン』

2014-09-04 22:55:19 | 東南アジア

古田元夫『ホー・チ・ミン 民族解放とドイモイ』(岩波書店、1996年)を読む。

ホー・チ・ミンの評伝を探したのだが、何しろ、いま売られている本でそのようなものが見当たらない。そんなわけで、割と新しい本書を入手した。よくまとまった本である。

ホーが生まれた1890年前後には、既にフランスの支配により、中国との行政・教育上のつながりは断たれていた(ホーの父の時代は、科挙試験がエリートへの門であった)。日露戦争(1904年~)の後には、ベトナムでも、日本に学ぼうとする運動があったという。しかし、ホーの父は、フランスに抗するために別の力に与することを良しとせず、フランス式教育を選んだ。仮に、ホーが日本に来て、孫文、頭山満や大川周明らのアジア主義者、インドから亡命してきていたラス・ビハリ・ボースらと接していたとしたら、その後の歴史はまた違ったものになったのかもしれないと考えると、興味深い。

やがて、1910年代から20年代にかけて、フランスにおいて、抑圧された自民族のことを考えるナショナリストとしての面と、レーニン主義に影響された共産主義者としての面とを持つようになる。このことは、ホーが、自分自身を極めてあやうい位置に置いていたことを意味する。思想それ自体についてではない。ソ連のコミンテルンが、ソ連を頂点とするエリート主義・教条主義へと突き進んでゆき、ホーが考えたような、地域からの独自な運動、階級闘争とは違う民族解放運動とは、相矛盾するものであった。

ここでも、たとえば独自の革命をなし遂げた者が粛清され、ソ連色に染まったモンゴルといった国とは、随分異なった道を歩むことができたわけである。中国に接近した時期もあった。

もちろん、最大のインパクトを持つホーの功績は、大戦終了時の独立と、長いインドシナ戦争・ベトナム戦争の主導である。著者によると、フランスをやぶったディエンビエンフーの戦い(1954年)や、アメリカに打撃を与えたテト攻勢(1968年)は、周辺国や相手国の状況を分析してこその成果であったのだという。

ホーの一貫して高い評価は、親しみやすさや、政治的な綱渡りの手腕に加えて、好機を見出す能力によるものでもあったということか。

ホー・チ・ミン廟、2012年6月

●参照
石川文洋写真展『戦争と平和・ベトナムの50年』
石川文洋講演会「私の見た、沖縄・米軍基地そしてベトナム」
石川文洋『ベトナム 戦争と平和』
大宮浩一『石川文洋を旅する』
スーザン・ソンタグ『ハノイで考えたこと』
伊藤千尋『新版・観光コースでないベトナム』
枯葉剤の現在 『花はどこへ行った』
『ヴェトナム新時代』、ゾルキー2C


リティ・パニュ『消えた画 クメール・ルージュの真実』

2014-08-15 19:17:49 | 東南アジア

リティ・パニュ『消えた画 クメール・ルージュの真実』(2013年)を観る(ユーロスペース)。

1975年、カンボジア(民主カンプチア)の政権を、ポル・ポト率いる共産主義勢力のクメール・ルージュが掌握した。この政権は毛沢東思想をベースとしており、親中・反越であった。1979年にはベトナム軍がカンボジアを攻撃し、それがクメール・ルージュ独裁の崩壊の原因となり、また、中国による「懲罰」的な中越戦争(1979年)につながることになる。

おそらくは、実情が外部の目に晒されなかったこともあって、米国に勝利したベトナムがなぜ同じ共産主義のカンボジアを攻撃するのかといった波紋もあったはずだ。しかし、いまではよく知られているように、クメール・ルージュの独裁ぶりは酷いものであった。カンボジア住民の犠牲者は、人口700万人に対して、150万人にものぼったという。それは、中国の大躍進政策や文化大革命と同様に、実態を視ないヴィジョンの押しつけと、それを可能にする権力体系によるものだったのだろう。

この映画を撮ったリティ・パニュは、犠牲の当事者であった(1979年に脱出)。彼は、俳優による再現映画でも、残されたフィルムによるドキュメンタリーでもなく、カンボジアの土をこねて作った人形を用いた。その人形たちが、個人としてではなく「数」として扱われ、農村での苦役を強制され、農作物を自分の口に入れることなく餓死していくさまを「演じて」いる。また、9歳の子どもが、食べ物を拾ったといって自分の母親をクメール・ルージュに告げ口し、その咎で母親が処刑される様子を、「演じて」いる。

これはドキュメンタリーの力として強烈だ。これ見よがしな歴史の語りでも、「自分」ではないフィルムによる語りでもない。投影されるのは「自分」なのである。

●参照
石川文洋写真展『戦争と平和・ベトナムの50年』
2012年6月、ラオカイ(中越戦争の場)
中国プロパガンダ映画(6) 謝晋『高山下的花環』(中越戦争)


石川文洋写真展『戦争と平和・ベトナムの50年』

2014-06-01 22:17:22 | 東南アジア

銀座ニコンサロンに足を運び、石川文洋さんの写真展『戦争と平和・ベトナムの50年』を観る。

言うまでもなく、石川さんは米海兵隊の従軍カメラマンとしてベトナム戦争を取材した人であり、また、南ベトナム側で取材した者としてはじめて、北ベトナムの取材を許可された人でもある。

ベトナム戦争は、東西冷戦の生み出した1コマにとどまらない。米軍は、太平洋戦争中に日本に投下した20倍以上もの量の爆弾を、共産主義とみなしたベトナムに使用した。空爆だけではなく、ベトコンが潜伏しているとして村々を無差別に攻撃した。この写真群には、その隠しようもない姿が焼き付けられている。これらを凝視しても、被害者の恐怖の表情とは対照的に、米兵ひとりひとりの表情に何か物語に加工しやすい傾向を読みとることは難しい。

若い米兵は、戦争の背景はもとより、攻撃の相手が誰かなど知らされもせず、考えうる環境にもなかった。兵隊のリクルートや教育は、そのようになされていた。まさに、故アラン・ネルソンが語ったように。

「・・・皆さんは理解しなければなりません。何を理解するかというと、私たちは海兵隊員であり、軍隊であり、私たちは人を殺すために訓練されているということです。」

米兵の中にも差別は存在した。黒人兵が、戦地で不安そうに佇む写真がある。かれらはしばしば最前線に駆り出され、死亡率は非黒人兵よりも明らかに高いものだった。

かれらは紛れもない加害者であると同時に、被害者でもあった。だからと言って、歪に被害意識を肥大させ、加害性を覆い隠すことは、どこかの国のようになされてはならない。このようにベトナム戦争を視ることは、戦争に加担した日本の間接責任を忘却せず、また、歴史修正主義がいかにおぞましい所業であるかを意識することでもある。

写真は、ベトナム戦争だけではなく、その後のベトナムとカンボジアのポル・ポト軍との紛争、それを理由とした中越戦争、いまだ続く枯葉剤の被害をもとらえている。映画『石川文洋を旅する』も、観なければならない。

●参照
石川文洋講演会「私の見た、沖縄・米軍基地そしてベトナム」
石川文洋『ベトナム 戦争と平和』
金城実+鎌田慧+辛淑玉+石川文洋「差別の構造―沖縄という現場」
石川文一の運玉義留(ウンタマギルウ)
石川文洋の徒歩日本縦断記2冊
スーザン・ソンタグ『ハノイで考えたこと』
伊藤千尋『新版・観光コースでないベトナム』
枯葉剤の現在 『花はどこへ行った』
『ヴェトナム新時代』、ゾルキー2C


スーザン・ソンタグ『ハノイで考えたこと』

2014-05-23 23:03:02 | 東南アジア

スーザン・ソンタグ『ハノイで考えたこと』(晶文社、原著1968年)を読む。

1968年、ベトナム戦争の真っただ中、ソンタグはハノイを訪れた。米軍による北爆はすでにはじまっていた(1965年~)。ホー・チ・ミンはまだ存命中であった。そのような時期、ゴダールはベトナムに行くことができず、おそらくは西側知識人にとって、ベトナムに行くことじたいが大変な事態なのだった。

ソンタグは思索する。ある役割をあてがわれ期待される者が、実際に、その場にあってなにをしうるのか。紋切り型の思考にとらわれないためには、どうするべきなのか。多くの選択肢をもつアメリカ人が、その生活を続けることの誘惑を断ち切ることなどできず、そのうえで、他に選びようのない選択肢しかもたないベトナム人を前にして、いかに振舞うべきなのか。

いまの目で見れば、思索は堂々巡りで、頭でっかちだ。なるほど、パターナリズムは回避しえている。しかし、自己への問いかけを極大化してはいても、ベトナムに対するオリエンタリズムからは脱却することができなかったのだと思えてならない。もちろん、それは同時代の限界には違いなく、否定的な批判の対象にはならない。

意表を突かれるのは、ソンタグが、このことを、状況の分析ではなく、自己革命につながるものとして考えていることである。ただ、それはあやういバランスのもとに成り立っていたことかもしれない。晩年、ソンタグは、NATOによるコソボ空爆を支持したというのだから。

「その人間のうちに、”革命”が発生しかけたのであり、そして、それは進行しつづけるのだ。だから、私は北ヴェトナムで私の身に起こったことが、アメリカ帰国とともに終熄してはいず、いまなお進行中であるのを発見している。」

●参照
石川文洋講演会「私の見た、沖縄・米軍基地そしてベトナム」
石川文洋『ベトナム 戦争と平和』
伊藤千尋『新版・観光コースでないベトナム』
枯葉剤の現在 『花はどこへ行った』
『ヴェトナム新時代』、ゾルキー2C
 


倉沢愛子『9・30 世界を震撼させた日』

2014-05-16 23:37:01 | 東南アジア

倉沢愛子『9・30 世界を震撼させた日 インドネシア政変の真相と波紋』(岩波書店、2014年)を読む。

1965年9月30日、インドネシア国軍将軍たちが殺害されるクーデターが起きた。黒幕は、今に至るもはっきりしていない。それよりも重要なことは、この事件が、スカルノの失脚とスハルトの権力奪取というプロセスの中に位置づけられること、それが東西冷戦構造の中でこそ起きたものであること、そして、クーデター後、共産党シンパや華僑を対象とした大虐殺事件が起きたことである。(大虐殺については、ジョシュア・オッペンハイマー『アクト・オブ・キリング』のテーマになっている。)

本書は、その流れを丹念に追ったものであり、これまでほとんど知られることのなかった歴史を示してくれる。たいへんな力作であり、良書である。

クーデター発生まで、スカルノ政権は、親中国であり、共産主義(組織としてPKIがあった)への傾倒を強めていた。米国が直接手を下したかどうかについては明示されていないものの、間接的に、共産主義勢力の殲滅を指向したことは確かであった。その意向のもと、インドネシア国軍は、クーデターはPKIが首謀者として起したものであり、また、PKIは市民の殺害対象者リストを持っている、性的異常者の吹き溜まりであるといったデマを流し、PKIを憎悪と恐怖の対象に仕立てあげていった。その結末として、殺さねば殺されるという異常心理により、市民が市民を殺すという悲劇が起きたということなのである。

実際に、米国大使館は、権力交代の時期に、「我々が取るべき態度」として、次の内容を含む文書を国務省に送っている。

「PKIの罪悪、謀反、残虐性についてのストーリーを広める。(これが現在のところ我々が国軍のためにできる、最も必要とされている援助であろう)」

日本はどうであったか。スカルノの夫人・デヴィは、『アクト・オブ・キリング』上映時のトークにおいて、佐藤首相から齋藤大使を通じ、虐殺の加害側に資金が渡ったという発言をしている。本書には、そこまでの証言は書かれていない(同じデヴィ夫人)。しかし、明らかに、佐藤政権は米国に追従し、共産主義勢力の滅亡を強く望んでいた。そして、虐殺の事実を認識しながら目をつぶり、スハルト政権下の開発独裁により得られる大きな利益を享受した。すなわち、日本の経済社会も、この歴史と無縁ではありえない。

現在では、インドネシアの司法も、PKIの謀略説を否定している。それでも、教科書からその記述を消そうとすると、大きな抵抗勢力があってできないのだという。歴史修正主義はここにも存在する。


ジョシュア・オッペンハイマー『アクト・オブ・キリング』

2014-05-05 22:57:12 | 東南アジア

青山のイメージフォーラムで、ジョシュア・オッペンハイマー『アクト・オブ・キリング』(2012年)を観る。そろそろ大丈夫かと思ったが、直前に行くと満席だった。立ち見だと言われて入ると、幸運にも、空席があった。

1965年9月30日、インドネシア国軍によるクーデター未遂事件が起きる。これはスカルノ大統領失脚、スハルト大統領誕生のきっかけとなり、また、このときに、やくざや民兵たちにより、共産党シンパや華僑たちをターゲットとした大虐殺があった。犠牲者数は明らかでなく、概数で100万人規模だとされている。

映画は、このときに手を下した者たちにインタビューを行い、さらに、自分の行為を演じてもらうという手法で作られている。彼らはその罪を追求されるどころか、むしろ、社会的地位を得てさえいる。また、北スマトラ知事(メダンでのロケだろう)や、カラ副大統領が、やくざ民兵集団「パンチャシラ青年団」に対し、支持を取り付けようとして、彼らの価値を認めるようなコメントやスピーチを吐いているのである。現在も、もたれ合いの構造が強く残っているのだろうなと思わざるを得ない。

虐殺者たちは、自らの殺人行為を、嬉々として身振り手振りで再現する。誰がみても、最低な下衆連中である。

しかし、かれらの様子が次第に変わってゆく。犠牲者の声を聴き、また犠牲者の役を演じているうちに、心身に異変が生じてくるのだ。口では、「当時はしかたがなかった」、「そのようなものだった」と威勢のいいことを言いながらも。そして、ついに、虐殺場所において、虐殺者は、嘔吐しはじめる。歴史の実態が、隠しようもなく姿をあらわし、「大文字の歴史」にお墨付きを得ていたはずの虐殺者の内臓を喰らい荒らした瞬間だった。

決してドキュメンタリーとして傑作とは言えないし、作り手にも山師的なものが見え隠れする。しかし、これは「私たち」の映画である。すなわち、「大文字の歴史」を内部から噛み進める虫があってしかるべきだということだ。

●参照
朴寿南『アリランのうた』『ぬちがふう』(重なるものが確実にある)


ヤンゴンのミャンマー国立博物館

2014-05-04 10:04:24 | 東南アジア

昨年9月から、手帳にはさんだままだった。

実は結構夢中になるくらい充実している。『Lonely Planet』には、主だったものは首都ネピドーの国立博物館に移転され、ヤンゴンにはレプリカが残される予定だと書いてあった。観光客が行かないネピドーに持っていって、どうするのだろう。

●参照 ヤンゴン
2013年9月、シュエダゴン・パゴダ
2013年9月、チャウタッジー・パゴダ
2013年9月、ヤンゴンの湖畔
旨いヤンゴン


旨いジャカルタ その4

2014-02-22 10:52:00 | 東南アジア

■ Social House

巨大ショッピングモール「Grand Indonesia」にある小奇麗な店。それなりにいい値段。

「カレーラーメン」を注文したら、ヘンなものが出てきた。麺はインスタント風(というか、乾麵なのだろう)。まさにカップのカレーヌードル風の味で、悪くない。

■ 鼎泰豐(ディンタイフォン)

台湾に本店がある小籠包の名店。ジャカルタ店に足を運ぶのは二度目である。

ここの料理は、イスラム国だけあって、豚肉を使っていない。小籠包の中身も鳥肉である。そのためか、上海店で食べた小籠包の味には及ばない。旨いのではあるが。

奇妙なことに、北京ダックには薄餅が付いてこず、訊いても無いという。皮だけでなく肉もしっかり食べる北京ダックか。そんなものがあるのか。

■ 永源海鮮酒家

これも「Grand Indonesia」内にある。中華圏で中華料理を食って旨くないわけがない。パンにカニのタレを吸わせるとまた旨い。

●参照
旨いジャカルタ
旨いジャカルタ その2
旨いジャカルタ その3
カフェ・バダヴィア 


2014年2月、ジャカルタ

2014-02-22 08:47:08 | 東南アジア

ジョグジャカルタに行くはずが、予定が変わってずっとジャカルタに滞在した。あまり散歩しやすい街ではないため苦手なのだが、もちろん、横道はある。

フィルムカメラを持参しながら忙しくて1コマも撮れず、手持ちのミラーレスでスナップ。写り過ぎて、楽すぎて、つまらない。



流し


駄弁り


老人の招待




トマソン


隣の誕生会

※写真はすべて、Nikon V1 + 1 Nikkor 10mmF2.8(28mm相当) により撮影。

●参照
2013年2月、ジャカルタ
2012年9月、ジャカルタ


2013年10月、マンダレーの北

2013-11-09 00:38:20 | 東南アジア

ひと月半ぶりのミャンマー。

バンコクを経由し、マンダレーまで飛ぶ。目的地は、さらにそこから自動車で6時間以上かかる山中の町。2回目の訪問である。

もう、朝晩は結構寒くなっていた。宿のシャワーからは、前回は茶色く冷たい水しか出なかったが、今回は透明で温かい湯が出てくれた。


朝の雲海


朝の木


朝の畑と雲海


奇妙な岩


照葉樹林帯


小屋と犬



日の出前


御来光



帰りに土砂崩れに遭遇


バンコクとジャカルタを経由して帰国

※写真はすべてPentax LX、K18mmF3.5、Fuji Pro 400による。

●参照
2013年9月、マンダレーの北
2013年9月、シュエダゴン・パゴダ
2013年9月、チャウタッジー・パゴダ
2013年9月、ヤンゴンの湖畔
2013年9月、ネピドー


バンコクの●野屋

2013-11-06 00:43:41 | 東南アジア

百聞は一見に如かず。実は前から行きたかった。カラーリングも内装もクリソツ。味もクリソツではあるものの、若干こちらの方が肉が厚い。

並が140バーツだから420円くらい。日本より高い。

ついでに、夜は大阪に本店がある居酒屋で日本シリーズ第6戦。マー君に土をつけた。