Sightsong

自縄自縛日記

大島渚『飼育』

2014-03-22 09:27:19 | 東北・中部

大島渚『飼育』(1961年)を観る。前年の『日本の夜と霧』騒動で松竹を退社したあとの、最初の作品である。配給は、新東宝から派生してできた大宝による。

わたしは、90年代に、池袋にあったACT SEIGEI THEATERで「大島渚オールナイト」で本作を観た。しかしもう眠く、あまり覚えていなかった。

敗戦直前、長野県の山村。撃墜されたB29からパラシュートで脱出した黒人兵が、村人たちによって捕らえられる。山村とはいえ、働き手の若い男を軍隊に取られ、東京からの疎開者も多く、食糧事情は厳しい。そのような中で、「いずれ憲兵隊に表彰される」という理由で、村人たちは、黒人兵を農作業小屋の鎖につなぎ、食べ物を与える。やがて、諍いがあり、戦死の報があり、村人たちの間に大きな歪みが出てくる。かれらは、その原因を黒人兵の出現に見い出し、殺すことにする。

日本の田舎固有の硬直し歪んだ権力関係や、むき出しの性欲や、支配欲や、暴力欲が、何のオブラートにも包まずに、これでもかと見せつけられる映画である。そして、外部から視れば如何に異常なことが行われていようとも、最後は、「丸くおさめよう」との意思がすべてに勝利する。

カリカチュアだとはいえ、突飛な世界だとは思えないのは、<日本>であるからか。

ところで、脚本協力に「松本俊夫、石堂淑朗、東松照明」とある。東松照明は何を請われたのだろう。

●参照
大島渚『忘れられた皇軍』(1963年)
大島渚『青春の碑』(1964年)
大島渚『アジアの曙』(1964-65年)
大島渚『大東亜戦争』(1968年)
大島渚『新宿泥棒日記』(1969年)
大島渚『少年』(1969年)
大島渚『夏の妹』(1972年)
大島渚『戦場のメリークリスマス』(1983年)


鈴木則文『トラック野郎・一番星北へ帰る』

2014-03-16 13:30:41 | 東北・中部

鈴木則文『トラック野郎・一番星北へ帰る』(1978年)を観る。

舞台は岩手県花巻市のりんご農園、岩手県の宮古市、福島県の小名浜港、福島県の常磐ハワイアンセンター。

菅原文太、愛川欽也、大谷直子、新沼謙治、田中邦衛、せんだみつお、黒沢年雄、アラカン、成田三樹夫など、癖があるというより癖しかないような役者を使って、鈴木則文は、迷うことなく娯楽の王道をひた走る。『男はつらいよ』の向こうを張って、70年代に大変な人気を誇った理由が、よくわかる。

●鈴木則文
『少林寺拳法』(1975年)
『ドカベン』(1977年)
『忍者武芸貼 百地三太夫』(1980年)
『文学賞殺人事件 大いなる助走』(1989年)


土田ヒロミ『フクシマ』、『フクシマ2』

2014-03-02 10:28:12 | 東北・中部

土田ヒロミさんによる、福島をテーマにした作品展が2箇所で開かれている。

■ 『フクシマ』 (銀座ニコンサロン)

人がほとんどいない家、山、道、野。

作品には、日時、緯度、経度、標高、放射線量が付され、ものによっては、写真の中に薄い字で線量や「FUKUSHIMA」の字が重ねあわされている。そして、まったく同じ場所での定点観測としての複数の組み合わせもある。

■ 『フクシマ2』 (photographers' gallery)

ふたつの部屋。

片方では、3方向に向けられたモニターで、「森」、「野」、「街」と題された映像がずっと流されている。やはり人がほとんどおらず、たまに、崩れた家や、除染作業の重機や、警察のパトカーが見える。森には牛がいる。

もう片方では、写真のスライドショー。BGMとして東北民謡が流されている。やはり、美しい自然風景の中に、時折サブリミナルのように浮かび上がる「FUKUSHIMA」の文字。スクリーンの手前には、除染後の廃棄物を意識したのであろう、黒い風船が多数置かれている。

これらの作品群をどう捉えるべきか。

もちろん、鑑賞者に、被災地に関する事前情報があることを大前提としている。そして、線量や日時の情報も、黒い風船も、「FUKUSHIMA」という写真内の文字も、とても俗であり、スペクタクルである。

しかし、写真家は、そのことを明らかに意識した上で、方法論として出してきたのだろうと思える。そのことを意識に置いて観ても、やはり、息を呑んで、写真や映像を凝視してしまう。ひょっとしたら、「FUKUSHIMA」が、山中の「HOLLYWOOD」という文字を思わせることは、半分は、方法論を自覚していることを示さんとしてのものかもしれない。

●参照
『土田ヒロミのニッポン』
鄭周河写真集『奪われた野にも春は来るか』、「こころの時代」
鄭周河写真展『奪われた野にも春は来るか』


森谷司郎『八甲田山』

2014-01-01 11:17:56 | 東北・中部

森谷司郎『八甲田山』(1977年)を観る。とは言いながら、途中からバカバカしくなって「ながら観」。

1902年、青森。日露戦争(1904年)の直前である。陸軍は、ロシア軍に青森が攻撃されて交通が分断される可能性を想定し、八甲田山での雪中行軍を企画する。あまりにもクレイジーな計画だが、一度決まったことは、上意下達の論理とプライドによって覆すことができない。高倉健も、北大路欣也も、不満を抱えつつ、死を賭して行軍を指揮する。

なぜバカバカしいかと言えば、3時間もの間、どうしようもない軍の論理と日本の論理を見せつけられ、ウンザリするからである。その意味では反戦映画。


鬼海弘雄『眼と風の記憶』

2013-12-02 08:02:45 | 東北・中部

鬼海弘雄『眼と風の記憶 写真をめぐるエセー』(岩波書店、2012年)を読む。

写真は誰にも撮ることができる。そのために、却って、尋常でないほどの時間と精力と意思とを吸い込まれるものだと、この写真家は言う。「写真が写らない」ことを知ったときから、写真家としての旅がはじまったのだ、とも。

必然的に、インドであろうと、トルコであろうと、浅草であろうと、時間効率でいえば無駄にも見えるほどの長い時間を費やして、あの作品群が生み出されている。写真としてのアウラは、時空間の蓄積でもあったのだ。その原点には、東北の農村があった。納得である。

悩んだ末に書かれているというテキストは非常に味わい深い。

●参照
鬼海弘雄『東京ポートレイト』
鬼海弘雄『しあわせ インド大地の子どもたち』
鬼海弘雄『東京夢譚』


『あまちゃん』完結、少し違和感

2013-09-28 09:09:38 | 東北・中部

今朝、NHK連続テレビ小説『あまちゃん』が完結した。

もちろん待ち切れず、7時半からの早い回を観た。テレビドラマがあまり好きでない自分が、毎朝こんなに熱心に観てしまうなんて、小学生のときの『おしん』以来ではなかろうか(たぶん)。出張中も録画していた。

80年代のアイドル全盛期を通過した者に刺さった要因は、小泉今日子や薬師丸ひろ子が、半身をその幻想界に置きつつ、こちらに開かれた世界としてドラマを展開してくれたことだろうね、などと思ってみる。開かれ方はそれだけでなく、突っ込み所満載。過ぎ去った後のテレビは、「こちら側」の記憶なのである。

一方、ぬぐい去ることができない違和感があった。

ひとつは震災の描き方。ドラマには、放射性物質の飛散を恐れる人も、津波で亡くなる人も登場しない。むしろ、それらを徹底して回避していたと言うことができる。そのことの賛否は分かれるかもしれないが、それでは、ドラマ終盤になって、さまざまな週刊誌が「あの人が死ぬ」といった話題で盛り上げていたのは何だったのか。ただの野次馬記事ではないだろう。(※)

もうひとつは、田舎に対する美しすぎる幻想。アキちゃんやユイちゃんの地元では、皆がおのおのの存在を認めつつ、親密なコミュニティを形成している。しかし、自分はどうしても、その集団から排除される者のことを考えてしまう。村八分にされた揚句の悲惨な事件のことを、このドラマと考え合わせてみた人はどれほどいるだろう。

(※) その後、ドラマの舞台になった場所では死者・行方不明者が比較的少なく、ドラマにおいて死者が出るほうがむしろ違和感があるとの指摘をいただいた。確かに、その通りであり、穿ちすぎて乱暴な議論をしてしまったようである。しかし、死の影があまりにも希薄という点は否定できない。
ここではむしろ、津波被害の展開に関するメディアの言説をこそ問題とすべきかもしれない。


旨い富山

2013-08-24 15:54:47 | 東北・中部

はじめての富山。

あらためて考えてみると、富山どころか、北陸にほとんど足を運んだことがない。これではいけない。

夜は「魚処やつはし」で、いろいろと旨いものを食べた。どうも聞くところでは、冬はさらに旨いそうである。

戻ってきたばかりだが、明朝からジャカルタ。準備はいつになっても苦手。


白海老の揚げ物


バイ貝と肝、ひらめ、甘海老などの刺身


甘海老の卵


ナンダ(ゲンゲの一種)の煮物


岩牡蠣のフライ


赤鰈の焼き物


翌朝、ほたるいか


鄭周河写真集『奪われた野にも春は来るか』、「こころの時代」

2013-08-17 23:56:10 | 東北・中部

先日、沖縄県宜野湾市の佐喜眞美術館で、鄭周河(チョン・ジュハ)という韓国人写真家による写真展『奪われた野にも春は来るか』を観た。展示されていたよりもさらに多くの写真群が、同じタイトルの写真集としてまとめられ、韓国で出版されている。テキストは日本語と英語に訳されている。

改めて、写真集を紐解き、じっくりと観た。写真展によって受けた印象が、また違った形で増幅されていくようだ。

ほとんどの写真には、人が登場しない。津波と福島第一原発の事故により、破壊され、汚染され、住民の方々がまずは避難した時期である。

このようなカタストロフという文脈でなかったとしたら、ひょっとすると、美しく懐かしい里山風景として観ているかもしれない。しかし、やはり、もの言わぬ風景が発する「ただごとでなさ」に、息を呑んでしまう。そして覚えるのは、観なければよかったという気分と、何ということになったのかという悲しさと、何ということをしてくれたのかという怒りと、このような社会を一緒につくりあげてしまったのだという絶望感と。

受け手の小賢しさなどすり抜けて、「なにものか」の力が迫ってくる。やはり、恐ろしい写真群だ。

タイトルの『奪われた野にも春は来るか』は、植民地朝鮮の詩人・李相和(イ・サンファ)の詩から引用されている。美しく懐かしい土地を表現し、体感したあと、詩人は、最後に1行付け加え、締めくくる。痛切と簡単に言ってのけるにはあまりにも痛切すぎる発語である。

「しかし、いまは野を奪われ春さえも奪われようとしているのだ」

この土地は、侵略者たる帝国・日本に奪われたものだったのである。

写真集に、徐京植によるテキストがある。福島と植民地朝鮮とを重ね合わせること。それは、「奪われた者たちの苦悩に、最大限の想像力を働かせなければならない」のだとする。そしてまた、この写真群の特徴たる「不在の表象」について、ナチスドイツに殺されたユダヤ人たちの衣服をもってインスタレーションを創るクリスチャン・ボルタンスキーの作品との共通点をも見出している。慧眼というべきである。

ボルタンスキー作品の映像(デジタルカメラによる) >> リンク

クリスチャン・ボルタンスキー『MONUMENTA 2010 / Personnes』(2010年、パリ)

今回の鄭周河の写真については、NHK「こころの時代」枠においても特集されていた(2013/5/12放送)(>> 映像)。そこでは、写真家自身による興味深い示唆があった。

「不在」を、森を撮ること。それは、日常の中に潜む「兆」や「予兆」を見出すための方法論であり、それにより、何が失われ、何が奪われたのか、何を視るべきなのかを考えるべきなのだ、という。

写真家は、かつて、精神病院を撮った写真集『惠生院』を発表した(1984年)。その過程において、相手を理解できず、なぜその人たちが自分ではないのかという内省があった。病院の取り壊しに反対して韓国の大学を中退、ドイツに留学して哲学を学ぼうとする。そこでの関係の中では、写真が持つ暴力性に取りつかれ、老人たちを、もっとも暴力的な手段であるフラッシュによって撮影し、『写真的暴力』(1993年)を公表した。そして、『大地の声』(1994-98年)、『西方の海』(1998-2003年)をまとめた後、韓国の原子力発電所近くの地域を対象とした『不安、火-中』(2008年)を撮る。

曰く、原発地域の人びとは、日常生活を営んでいる。しかし、勿論、不安は内側に潜んでいる。少し視線をそらし、目をしっかり開けて視ると、原発との共存という不安さが露出してくる。そのように、直視すべき現実をさらけ出す方法として、撮影行為をしたのだ、と。

確かに、この写真家は方法論の人であるようだ。むしろ、それを曖昧にして狙いや言葉を見えないようにする「芸術活動」のほうが、世間には多いのだと思う。しかし、写真家の意識は明確だ。

「カレンダーのように美しい」里山風景。それだけでは、何が言いたいのかわからない。自然の中に潜むものを、如何に伝えていくか。放っておけば目に視えないものを、如何に見せたり感じさせたりすることができるか。そこにおいて必要なものは、記憶と認識の共有、知識や経験の共有だという。

写真群のタイトルについても、意味や文脈が異なるものを重ね合わせ、それにより日本の侵略の過去を免罪する、のではない。そうではなく、「奪われる」という経験、ふるさとを奪われた人間としての心を共有化することこそが大事なのだ、と。

わたしはこの写真群を積極的に評価する。しかし、おそらく、この表現の方法論に関しては、賛否両論があることだろう。薄っぺらい芸術至上主義が、写真というアートの政治や歴史やテキストへの回収を否定するかもしれない。

それでは芸術とは何なのか。まったくの抽象が成り立つのか。たとえば、物語への回収を拒否したような写真作品は、その前提となる共有感覚や情報にもたれかかっているだけではないのか。

人間はことばによって生かされ、ことばによって知を形成する。勿論、ことばという制度による再生産だけだとすれば、それは芸術としての力をもたない。この写真群は、意味という場所への往還なのだと思うがどうか。

●参照
鄭周河写真展『奪われた野にも春は来るか』
徐京植のフクシマ(NHK「こころの時代」)
辺見庸の3・11 『瓦礫の中から言葉を』(NHK「こころの時代」)
クリスチャン・ボルタンスキー『MONUMENTA 2010 / Personnes』


鄭周河写真展『奪われた野にも春は来るか』

2013-08-01 00:06:33 | 東北・中部

佐喜眞美術館では、鄭周河(チョン・ジュハ)という韓国の写真家による写真展『奪われた野にも春は来るか』を観た。

写真家が撮った対象は、被災地・福島である。

人の姿が視えぬ広大な農地の上で、鳥が舞う。誰かが住んでいるのかどうかわからない一軒家がある。農地の中に、ぽつんと神社が建っている。誰もいない学校のグラウンドがある。津波におかされた老人ホームの壁と、動いているのかどうかわからない掛け時計がある。テトラポットや、決壊した堤防がある。

デジタルで大きく引き延ばされた写真群を凝視していると、本来は懐かしさを感じる筈の里山の風景が、まるで静かに復讐しようとでも考えているかのようななにものかをもって、迫ってくる。静かに叫びそうになる。

里山には、カタストロフ前と同様に、家や、道路や、雑木林や、植林された林がある。それらの変わらなさを観ていると、自然はやわなものではないという考えが湧いてくる。しかし、それは違う。

観客は自分ひとりだったが、まもなく、女性数人がおしゃべりをしながら入ってきた。その中のひとりが、写真を前にして考えを述べていた。―――「春は来るか」、それは戻ってくる、森も戻ってくる。だけど、それは元の森ではないんだよ。だから、基地だって災厄がある前に入れさせないんだよ―――と。握手をしたくなるほどの正論であり、その通りである。しかし、その十分に練られた考えを基にした語りが、まるでドグマのように感じられたのも正直なところだ。

これらの写真を通じて観るカタストロフには、おそらく、物語への回収を断固として拒否するものがある。


小川紳介『1000年刻みの日時計-牧野村物語』

2013-07-21 09:04:03 | 東北・中部

オーディトリウム渋谷にて、小川紳介『1000年刻みの日時計-牧野村物語』(1986年)を観ることができた。

三里塚から山形県・牧野村に移住して13年。その間に撮りためたものを4時間に詰め込んだ作品である。

まとめた、という類のものではない。必ずしも記録ばかりでもない。

小川プロ自らがコメを育てる。田んぼの中で、収量が良いところと悪いところがある。どうやら、水はけが悪いために中干しができず、嫌気性となる構造が問題なのらしい。改善のために、溝を掘ったり、地下水位を調べたりする。そのプロセスを、饒舌に喋りながらパネルで示していく。面白いが、あまりにも異色である。この、映画としてのハチャメチャさ。しかし、幼穂が育っていき、成熟していくマクロ映像は、奇妙に感動的でさえある。

狂った男の話、社に祀られている男根型の道祖神を掘り当てた話、かつての百姓一揆の話は、劇映画の挿入である。土方巽なども登場するが、ほとんどは村人たちによる演技だ。自分の父親を演じたり、20年前の自分自身を演じたりする様子は、ドキュメンタリーという世界の垣根をなし崩しにしていくばかりでなく、現実なるものの概念すら曖昧にしていく力を発揮している。

脈絡なく、小川プロが、農地を掘って縄文期の土器や土偶、炉の痕を発見していくくだりもある。大学の先生を呼んできたり、農地の主がおでんを持ってきたり、また埋めるにあたって神主を呼んでお祓いをしたり。歴史の深層へと掘り進めるプロセスが、すなわち、牧野村という宇宙を掘り進めるプロセスにもなっているわけである。

映画の終盤に、移住以来の友人だというお婆さんが、延々と憑かれたように祟りの話を続ける場面がある。字幕が出ても正直言って何の話なのかわからないのだが、これが宇宙の一端だということは饒舌に示される。映画が終わったあとに登壇した山本政志氏によると、あれが小川紳介なのだという。映画という魔物に憑依され、饒舌に、宇宙を取り込み、宇宙を創出していった存在だということか。

何なんだと思わせられつつ、脳内に確実に巣食う映画であり、怪作と言うべきだ。確かに、ここには、映画とは生きることだという命題が顕れている。

音楽は富樫雅彦による。最後に、富樫自身によるパーカッション演奏の場面があり、感動してしまう。

ところで、超弩級のニュース。

●参照
小川紳介『牧野物語・峠』、『ニッポン国古屋敷村』
小川紳介『三里塚の夏』
富樫雅彦『セッション・イン・パリ VOL. 1 / 2』
『富樫雅彦 スティーヴ・レイシー 高橋悠治』
富樫雅彦が亡くなった


熊井啓『黒部の太陽』

2013-05-23 20:30:55 | 東北・中部

熊井啓『黒部の太陽 特別編』(1968年)を観る。NHKでの放送を録画しておいたものだが、196分のオリジナル版よりも短い130分余りの版である。

1956年着工、1963年竣工。黒部ダム(富山県)は、関西電力が、ピーク需要への対応のため、発電量の調整能力が大きい貯水池式水力発電所として建築したダムであり、堤高186mはいまだにアーチ式ダムの中で日本一を誇る。わたしは堤高130mの宮崎県・一ツ瀬ダムを見学したことがあるが、黒部ダムを見たことはまだない。きっとこの56mの差は大変なものなのだろう。

映画では、関西電力の太田垣社長(当時)が、木曽川水系の丸山ダムの工事とはわけが違うと逡巡する黒四建設事務所次長(三船敏郎)に対し、「確かに桁違いだ、構想も違う。だが君、考えてみたまえ。丸山ダムの工事で革新された土木技術が、次の佐久間ダムをつくったんだよ。その成功が今度の黒四のきっかけになったんだ」などと諭す場面がある。両方とも日本の土木工事史に残るダムだが、重力式ダムであり、また、確かに工事の困難性という意味では格が違う。

黒部ダムと発電所が「黒四」と称されるのは、黒部川水系で4番目の発電所だからであり、「黒三」は、戦前に建設されている。そのときには、100℃にもなるトンネル内工事を、朝鮮人労務者に強制的に担わせたという歴史がある。この映画でも、資材搬送用のトンネル工事を請け負った熊谷組の主人公(石原裕次郎)の父親が、その工事を命令していたという設定になっているらしい。

「らしい」というのは、熊井監督本人による手記『映画「黒部の太陽」全記録』(新潮文庫、原著2005年)に、そう書いてあるからだ。ところが、本版では、そのようなセリフはカットされており、単に鬼のように労務者をこき使う男としかわからない。つい最近まで、このカット版も観る機会がなかったのではあるが、やはり勿体ないことだ。手記では、朝鮮人労務者を強制労働に駆り立てたという描写を削れ、との抗議もあったのだという。歴史修正主義者はいまも昔も存在する。

戦争に負けた日本が、次に挑んだ戦地は、産業というフィールドであった。それが、日本人のアイデンティティを支えた。そうでなければ、この事業を「日本人の誇り」と喧伝し、工事の犠牲者の方々を「英霊」であるかのように称えるわけはない。もちろん、当時の日本の産業社会にとって「必要」な設備であり、技術の限界に挑んだ大事業であったことは、間違いない。それでも、これは戦争ドラマである。

この後、『黒部の太陽』は、巨大ダム建設を進めるためのプロパガンダとして、漁協関係者の説得に利用された。そして、建設省(当時)が資金を提供して行われていた「湖水(ダム)祭り」の類の主催者は、石原プロであることが多かったという(天野礼子『ダムと日本』)。

熊井監督による手記を読むと、この映画は、石原プロが、映画会社のカルテルたる「五社協定」を破る形で、強引に進めたものだったことがよくわかる。そのような野心的な映画制作であったはずが、時代が変わり、巨大ダムを必要としない状況に移り変わってきても、利用され続けたということは、皮肉なことだ。

『週刊金曜日』誌の942号(2013/5/10)が、「ダムを壊したら魚がもどってきた」という特集を組んでいる。もはや無駄な公共事業となったものとして挙げられているダムは、八ツ場ダム(群馬県)をはじめ、石木ダム(長崎県)、最上小国川ダム(山形県)、成瀬ダム(秋田県)、サンルダム(北海道)。自民党政権が復活し、「国土強靭化」の名のもとに、また事態がおかしな方向に進んでいる。

さらに、興味深い記事がある。熊本県球磨川水系の荒瀬ダムにおいて、全国ではじめて大型ダム撤去工事が進んでいる。その結果、アオコの発生がなくなり、アユが戻り、アオノリの生育も良くなったようだ。

十把ひとからげにダムや水管理を扱う議論は好きではないが、少なくとも、押しとどめることができない公共工事よりは、はるかに希望がある話である。この経緯については少し調べてみたい。

●参照
八ッ場 長すぎる翻弄』
八ッ場ダムのオカネ
八ッ場ダムのオカネ(2) 『SPA!』の特集
『けーし風』2008.12 戦争と軍隊を問う/環境破壊とたたかう人びと、読者の集い(奥間ダム)
ダムの映像(1) 佐久間ダム、宮ヶ瀬ダム
ダムの映像(2) 黒部ダム
天野礼子『ダムと日本』とダム萌え写真集
ジュゴンのレッドデータブック入り、「首都圏の水があぶない」
小田ひで次『ミヨリの森』3部作(ダム建設への反対)
『ミヨリの森』、絶滅危惧種、それから絶滅しない類の人間(ダム建設への反対)


小川紳介『牧野物語・峠』、『ニッポン国古屋敷村』

2012-03-23 01:21:04 | 東北・中部

アテネ・フランセ文化センターで、小川紳介の没後20周年記念上映を行っている。先日の休みに、『牧野物語・峠』(1977年)と『ニッポン国古屋敷村』(1982年)を観ることができた。(ところで、久しぶりに足を運んだアテネ・フランセは、いまだに4階まで階段。かつて故・淀川長治氏の話を聴きにいったところ、氏は休み休みでのぼってきて、開始が遅れたことがあった。)

三里塚を撮ったあと、小川プロは山形に移り住む。『牧野物語・峠』(1977年)は、そこでのスケッチ的な記録である。

まず、大正生まれのお婆さんが登場し、蔵王のフォークロアを語る。何でも蔵王で頂上までの競争をしたところ、唯一ゴールに着いたのは「苔」であった、という話がある。近くには、秋田から「歩いてきた」山もある。このさわりだけで、既に日常をゆうに超えている。そして、蔵王は月山にくらべると穏やかな性格なのだという。

次に、ずっと百姓であった詩人・真壁仁が登場する。映画のタイトルは、彼の詩からとられている。「峠は決定をしいるところだ。」から始まるその詩は、何ともいえぬ含意を含みもつようだ(>> リンク)。詩人本人は、とつぜん敗戦を迎えた頃の、開けた空間と岐路とを意識したものだという。詩により沿っていく映像、しかし、彼はお婆さんとは逆に、蔵王を厳しい環境だと表現する。

そして、明治生まれのお爺さんが登場し、村々の水を巡る争いを解決した思い出話などを訥々と語る。この表情を見つめるカメラ、何とも人間的な関係なのだった。

『ニッポン国古屋敷村』(1982年)は3時間半の大作である。

この古屋敷村は過疎により寂れ、もはや8軒しかない。何年かに一度、「シロミナミ」と称するヤマセが襲ってきて、せっかく育てた稲を台無しにしてしまう。映画は、それが何故なのか、気温の日変化や、水田の場所や、土質などを執拗に追及する。ほとんど科学教育映画を凌駕するレベルである。それも当然、何年も住みついて、なし崩しにではなく、あくまで外部からの者たちとして、フィルムにその世界を焼き付けることのみに奉仕したことの凄まじさが、隠しようもなく顕れてくるのである。

道路の建設、近代化への期待と裏腹の過疎。雪の山中でひとり木を伐り、丹念に窯を作り、炭焼きをして暮らす人。そのような生活を回想し、熊をみた、逃げる綺麗な女性をみたと嬉しそうに話し続ける老人。養蚕にいそしむ家族たち。満洲に出征し、奇跡的に生きて帰ってきた人たち。戦時中遺族に授与された国債を、ほとんど手つかずに取っている老人。

言葉にしてはならないと断言さえできる、数々の過ぎ去る時間の重み。それらが、そのままの形で観客に提示されるという強度が、この映画にはあった。従って、当時のパンフレットにおいて上野昴志が言うように、この映画は、捏造としての歴史ではなく、歴史を不断に揺さぶるものとしての歴史だ、とする見方には共感するところ大なのだ。


是枝裕和『幻の光』

2012-03-05 00:29:59 | 東北・中部

是枝裕和『幻の光』(1995年)を観る。

尼ヶ崎に住む男(浅野忠信)は、妻・ゆみ子(江角マキコ)と生後3ヶ月の息子を残し、突然、線路を歩き轢死する。何の予兆もない自殺だった。数年が経ち、彼女は、大阪を出て輪島市で暮らす子連れの男(内藤剛志)と再婚する。家族にも地域にもとけ込み、ふたたび幸せな生活を取り戻す。しかし、いつまでも、夫の自殺を納得できないことが、心にしこりとして残っていた。ある時、葬列に加わり、夜になっても燃え続ける送り火を視て、それは噴出する。そして、義父がこう言ったのを耳にする。夜、漁に出ていると、向こう側に光が視える、呼んでいることがあるのだ、と。

尼ヶ崎の路地、アパートの室内、田舎のトンネル、輪島の古民家の中、日本海を望む隙間と日本海から視る民家、それぞれのフレームのなかで静かに進むドラマのテンポが秀逸。低アングルからのカメラは、ときに小津安二郎を思わせる。北陸の民家は、自分のなじみ深い瀬戸内のそれとは随分異なるが、時に、民家の佇まいや湿った田園風景に、胸がしめつけられそうになる。

いい映画である。ツボを突かれてしまった。もっと早くに観たかった。


辺見庸の3・11 『瓦礫の中から言葉を』

2012-03-01 07:00:00 | 東北・中部

辺見庸『瓦礫の中から言葉を わたしの<死者>へ』(NHK出版新書、2012年)を読む。NHK「こころの時代」枠で放送された辺見庸の独白(2011/4/24)をもとにしたものであり、最近再放送されたそれと見比べると、確かに思索が進められているように感じられる。

東日本大震災<3・11>の後に著者が感じたのは、いかに言葉が薄っぺらく、全体主義的・予定調和的な危険な存在と化しているか、であった。拒否の視線は、たとえば、スローガン的に発せられた「がんばれ」や「復興」であり、日本人の美質や精神性を過度に強調する言葉であり、ACジャパンのCMにあった「ごめんね」や「思いやり」など過度に単純なフレーズであり、出来レースから外れた声はなかったことにする暗黙のポリシーであり、色のない情報と化したニュースであった。著者はそれらが、暗黙の「行動準則」または「精神の典範」となり、逆に「社会生活上の禁止事項の示唆」にもなったのではないか、と考える。

それは確かに、著者の言うように、敗戦前や昭和天皇「崩御」前と共通する下からのファシズムなのだろう。誰もが、勿論言うまでもなく本来批判的精神を有してしかるべきメディアもが、知的退行を隠すことができず、相互監視のもと、<個>としての発現も、思索を深めることも、できなくなっている。

しかし根本的な納得にまで至らない点もある。著者は、おそらく、<個>の精神から、存在から立ちあがってくる言葉こそが本来の言葉であり、そういった言葉が存在そのもの、精神そのものだと言いたいのだろう。<個>のレベルで深い詩や言葉を立ち上げ、それに感応し、思索を含めていくべきではある。それは全面的に共感できるものだが、わたしには、逆に、言葉への収束という陥穽も感じられてならない。

著者は、自衛隊や米軍といった<戦争機械>ドゥルーズ=ガタリ)が、災害救援部隊としてのみメディアにクローズアップされ、歓迎容認されていることにも警鐘を鳴らしている。もっとも、ドゥルーズ=ガタリのいう<戦争機械>とは、著者が引用するような単に戦争を取り行う装置ということではなく、もっと広い概念と貌を持ち、情動により駆動されるものである(>> リンク)。その意味では、情動こそが危険な状況だということもできるのであろう。

●参照
徐京植のフクシマ(NHK「こころの時代」)
『これでいいのか福島原発事故報道』(ACジャパンのCM)
高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』、脱原発テント(本書と同様に「天罰」論を批判)
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(下)(<戦争機械>論)


徐京植のフクシマ

2011-08-21 10:21:10 | 東北・中部

NHK「こころの時代」枠で放送された『フクシマを歩いて 徐京植:私にとっての「3・11」』を観た。

徐京植は「根こぎ」という言葉を使う。人には「根」がある。その「根」ごと引き抜かれる国家的暴力、それがユダヤ人のホロコーストであり、広島・長崎の原爆投下であり、福島の原発事故であったのだ、と。しかしそれは、想像力をもって直視されてこなかったのだ、と。

いくつか、重要な引用があった。ユダヤ系イタリア人のプリーモ・レーヴィは、自殺前年に残した著作『溺れるものと救われるもの』(1986年)において、ホロコースト期にあってなぜ逃れないユダヤ人がいたのか、それは簡単には抜くことのできない「根」があり、各々が、自分に迫る危機に目を瞑り気休めの「真実」にすがろうとしたのだと言う。

思想史家・藤田省三は、『松に聞け』(1963年)において、乗鞍岳の道路建設にあたって滅ぼされるハイマツに想いを馳せながら、権力や資本による押しつけだけでなく末端にある人々こそが積極的に目を瞑る「安楽全体主義」を見出している。そのような面から、何に視線を向けていくか。

「此の土壇場の危機の時代においては
犠牲への鎮魂歌は
自らの耳に快適な歌としてではなく
精魂込めた「他者の認識」として
現れなければならない。
その認識へのレクイエムのみが
辛うじて蘇生への鍵を
包蔵している、というべきであろう。」

広島で被爆した詩人・原民喜が詩集『夏の花』(1949年)に載せた詩を、徐京植は「壊れている」と見る。壊れた詩は壊れた現実を映し出し、シュールレアリズムこそが現実になっている。現実主義者たちの凱歌を許さず、お前の現実は現実ではない、どんなにつらくても現実を視ろ、というメッセージなのだとして。この3人に共通する、痛いほどの声である。ホロコースト、広島・長崎を経て、また現実直視の回避が繰り返されている。

「テンプクシタ電車ノワキノ
馬ノ胴ナンカノ フクラミカタハ
ブスブストケムル 電線ノニオイ」

在日コリアン二世の徐は、在日コリアンにも想いを馳せる。映像では、郡山の福島朝鮮中初級学校の生徒たちが新潟の朝鮮学校に避難し、1週間に1度だけ校長先生の運転する自動車で帰ってくる様子をも捉えている。

かつて昭和の三大金山に数えられた高玉金山(郡山)。1944年には600人もの朝鮮人が労働し、宿舎は24時間監視され、つかまると正座した脚の上に鉄のレールを置くなどの拷問が加えられたという。そのような歴史的背景もあり、福島県の在日コリアン人口は1.7万人にのぼる。

その意味で、徐京植は、福島原発事故では「日本人が被害にあった」という言説は間違っているのであり、「がんばろうニッポン」もその誤った認識に依ってたつ標語であるのだと指摘する。そして、鉱山やエネルギーという国家の基幹産業は、かつての朝鮮人、いまでは原発労働者といったように、植民地的な労働システムによって成立しているのだ、と。

>> 映像『フクシマを歩いて 徐京植:私にとっての「3・11」』

●参照
徐京植『ディアスポラ紀行』