練馬区美術館での刺激的な展示。たしかにマネは印象派の父のように呼ばれながら印象主義に属しているとはいえない。網膜への刺激は躍っておらず、どちらかといえば色彩がタブローにべったりと粘り付いている。ではなにがスキャンダラスだったのか。展覧会に明確な答えは用意されていない。
ミシェル・フーコーが『マネの絵画』で展開した言説を思い出す。すなわち、キャンバスというタブローの存在が、観る者を向こう側の世界に連れ込む前提に疑いをもたらしたこと。絵画が、一方的な世界の供与という権力装置から、絵画を観るあなたは何者かと問いかけ、観る者もそれに応えざるを得ない装置へと転じたこと。それならば向こう側の幻視を遮るマネのありようも納得できそうなものだ。
展覧会ではマネの日本での受容についても模索している。ここで竹橋の近代美術館でなんども観た、石井柏亭《草上の小憩》が出てきて吃驚した。なるほど、自然主義的にすべてが静物のように扱われている。マネはそのような文脈でも受容されてきた(はじめに日本に紹介したのは森鷗外だった)。
タイミングよく、ファッション・音楽ライターの竹村洋子さんと落ち合ってしばらくおしゃべり。大根葉が練り込まれた練馬サブレをいただいた。
大田区のいずるば(2022/9/4)。
Ryotaro Yahagi 矢萩竜太郎 (dance)
Jean Sasportes (dance)
Naoki Kita 喜多直毅 (vln)
Kazuhiro Tanabe 田辺和弘 (b)
Benedicte Billiet (dance)
Sophia Otto (dance)
『いずるば2022』では齋藤徹さんの曲とともにジャン・サスポータス、矢萩竜太郎のふたりが踊った。竜太郎さんの衒いのなさ、それに音で近づくような喜多直毅さんの柔軟さ。徹さんの曲を田辺和弘さんの音で聴く、それは当たり前なのだけど不思議なことでもあった。
そして、徹さんが亡くなった日とお通夜いらい久しぶりに目の当たりにするジャンさん、一挙手一投足に目が釘付け!気配が横溢しているようでも滅却しているようでもあって、ジャンさんがいるところには常に必然性のようなものがあった。
『Entre-temps au grenier』では、ベネディクト・ビリエ、ソフィア・オットーの母娘が踊った。自分たち、それから母の母、母の母の母、母の母の母の母と、ルーツを語り、受け止め、親しく触れ合う。長い記憶が短いステージに凝縮されていて、このような表現があるのかと驚いた。
Fuji X-E2, XF60mmF2.4, 7Artisans 12mmF2.8
●矢荻竜太郎
『ツ・ナ・ゲ・ル・ヒ・ト』@千歳烏山TUBO(2020年)
『今・ここ・私。ドイツ×日本 2019/即興パフォーマンス in いずるば』(JazzTokyo)(2019年)
徹さんとすごす会 -齋藤徹のメメント・モリ-(2019年)
ジャン・サスポータス+矢萩竜太郎+熊坂路得子@いずるば(齋藤徹さんの不在の在)(2019年)
齋藤徹+久田舜一郎@いずるば(2019年)
齋藤徹+沢井一恵@いずるば(JazzTokyo)(2019年)
近藤真左典『ぼくのからだはこういうこと』、矢荻竜太郎+齋藤徹@いずるば(2019年)
即興パフォーマンス in いずるば 『今 ここ わたし 2017 ドイツ×日本』(2017年)
齋藤徹+かみむら泰一、+喜多直毅、+矢萩竜太郎(JazzTokyo)(2015-16年)
齋藤徹、2009年5月、東中野(2009年)
●ジャン・サスポータス
ジャン・サスポータス+矢萩竜太郎+熊坂路得子@いずるば(齋藤徹さんの不在の在)(2019年)
映像『ユーラシアンエコーズII』(2013年)
ユーラシアンエコーズ第2章(2013年)
●喜多直毅
『私の城』(2022年)
ウタウタ@西荻窪・音や金時(2022年)
喜多直毅+照内央晴+西嶋徹@成城Cafe Beulmans(2022年)
照内央晴+喜多直毅@本八幡cooljojo(2021年)
照内央晴+喜多直毅@本八幡cooljojo(2021年)
喜多直毅+マクイーン時田深山@松本弦楽器(2020年)
喜多直毅+元井美智子+西嶋徹@本八幡cooljojo(2020年)
喜多直毅+元井美智子+久田舜一郎@松本弦楽器(JazzTokyo)(2020年)
ロジャー・ターナー+喜多直毅+内橋和久@下北沢Apollo(2019年)
ハインツ・ガイザー・アンサンブル5@渋谷公園通りクラシックス(2019年)
喜多直毅+西嶋徹『L’Esprit de l’Enka』(JazzTokyo)(-2019年)
宅Shoomy朱美+北田学+鈴木ちほ+喜多直毅+西嶋徹@なってるハウス(2019年)
喜多直毅+元井美智子+フローリアン・ヴァルター@松本弦楽器(2019年)
徹さんとすごす会 -齋藤徹のメメント・モリ-(2019年)
喜多直毅+翠川敬基+角正之@アトリエ第Q藝術(2019年)
熊谷博子『作兵衛さんと日本を掘る』(2018年)
喜多直毅クアルテット「文豪」@公園通りクラシックス(2018年)
ロジャー・ターナー+喜多直毅+齋藤徹@横濱エアジン(2018年)
ファドも計画@in F(2018年)
齋藤徹+喜多直毅@板橋大山教会(2018年)
齋藤徹+喜多直毅+外山明@cooljojo(2018年)
齋藤徹+喜多直毅+皆藤千香子@アトリエ第Q藝術(2018年)
ロジャー・ターナー+喜多直毅+齋藤徹@横濱エアジン(JazzTokyo)(2017年)
翠川敬基+齋藤徹+喜多直毅@in F(2017年)
喜多直毅+マクイーン時田深山@松本弦楽器(2017年)
黒田京子+喜多直毅@中野Sweet Rain(2017年)
齋藤徹+喜多直毅@巣鴨レソノサウンド(2017年)
喜多直毅クアルテット@求道会館(2017年)
ハインツ・ガイザー+ゲリーノ・マッツォーラ+喜多直毅@渋谷公園通りクラシックス(2017年)
喜多直毅クアルテット@幡ヶ谷アスピアホール(JazzTokyo)(2017年)
喜多直毅・西嶋徹デュオ@代々木・松本弦楽器(2017年)
喜多直毅+田中信正『Contigo en La Distancia』(2016年)
喜多直毅 Violin Monologue @代々木・松本弦楽器(2016年)
喜多直毅+黒田京子@雑司が谷エル・チョクロ(2016年)
齋藤徹+かみむら泰一、+喜多直毅、+矢萩竜太郎(JazzTokyo)(2015-16年)
うたをさがして@ギャラリー悠玄(2015年)http://www.jazztokyo.com/best_cd_2015a/best_live_2015_local_06.html(「JazzTokyo」での2015年ベスト)
齋藤徹+喜多直毅+黒田京子@横濱エアジン(2015年)
喜多直毅+黒田京子『愛の讃歌』(2014年)
映像『ユーラシアンエコーズII』(2013年)
ユーラシアンエコーズ第2章(2013年)
寺田町の映像『風が吹いてて光があって』(2011-12年)
『うたをさがして live at Pole Pole za』(2011年)
●田辺和弘
『私の城』(2022年)
森田志保『徹さんの不在』(Dance Vision 2021 feat. 齋藤徹)@アトリエ第Q藝術(2021年)
齋藤徹生誕祭@横濱エアジン(2021年)
徹さんとすごす会 -齋藤徹のメメント・モリ-(2019年)
喜多直毅クアルテット「文豪」@公園通りクラシックス(2018年)
喜多直毅クアルテット@求道会館(2017年)
喜多直毅クアルテット@幡ヶ谷アスピアホール(JazzTokyo)(2017年)
●齋藤徹
『私の城』(2022年)
齊藤聡『齋藤徹の芸術 コントラバスが描く運動体』(2022年)
森田志保『徹さんの不在』(Dance Vision 2021 feat. 齋藤徹)@アトリエ第Q藝術(2021年)
齋藤徹生誕祭@横濱エアジン(2021年)
徹さんとすごす会 -齋藤徹のメメント・モリ-(2019年)
『Sluggish Waltz スロッギーのワルツ』(JazzTokyo)(2019年)
ジャン・サスポータス+矢萩竜太郎+熊坂路得子@いずるば(齋藤徹さんの不在の在)(2019年)
松本泰子+庄﨑隆志+齋藤徹@横濱エアジン(『Sluggish Waltz - スロッギーのワルツ』DVD発売記念ライヴ)(2019年)
齋藤徹+久田舜一郎@いずるば(2019年)
齋藤徹+沢井一恵@いずるば(JazzTokyo)(2019年)
近藤真左典『ぼくのからだはこういうこと』、矢荻竜太郎+齋藤徹@いずるば(2019年)
2018年ベスト(JazzTokyo)
長沢哲+齋藤徹@ながさき雪の浦手造りハム(2018年)
藤山裕子+レジー・ニコルソン+齋藤徹@横濱エアジン(JazzTokyo)(2018年)
齋藤徹+長沢哲+木村由@アトリエ第Q藝術(2018年)
ロジャー・ターナー+喜多直毅+齋藤徹@横濱エアジン(2018年)
かみむら泰一+齋藤徹@喫茶茶会記(2018年)
永武幹子+齋藤徹@本八幡cooljojo(JazzTokyo)(2018年)
かみむら泰一+齋藤徹@本八幡cooljojo(2018年)
DDKトリオ+齋藤徹@下北沢Apollo(2018年)
川島誠+齋藤徹@バーバー富士(JazzTokyo)(2018年)
齋藤徹+喜多直毅@板橋大山教会(2018年)
齋藤徹+喜多直毅+外山明@cooljojo(2018年)
かみむら泰一+齋藤徹@本八幡cooljojo(2018年)
齋藤徹+喜多直毅+皆藤千香子@アトリエ第Q藝術(2018年)
2017年ベスト(JazzTokyo)
即興パフォーマンス in いずるば 『今 ここ わたし 2017 ドイツ×日本』(2017年)
『小林裕児と森』ライヴペインティング@日本橋三越(2017年)
ロジャー・ターナー+喜多直毅+齋藤徹@横濱エアジン(JazzTokyo)(2017年)
長沢哲+齋藤徹@東北沢OTOOTO(2017年)
翠川敬基+齋藤徹+喜多直毅@in F(2017年)
齋藤徹ワークショップ特別ゲスト編 vol.1 ミシェル・ドネダ+レ・クアン・ニン+佐草夏美@いずるば(2017年)
齋藤徹+喜多直毅@巣鴨レソノサウンド(2017年)
齋藤徹@バーバー富士(2017年)
齋藤徹+今井和雄@稲毛Candy(2017年)
齋藤徹 plays JAZZ@横濱エアジン(JazzTokyo)(2017年)
齋藤徹ワークショップ「寄港」第ゼロ回@いずるば(2017年)
りら@七針(2017年)
ミシェル・ドネダ+フレデリック・ブロンディ+齋藤徹『Spring Road 16』(JazzTokyo)(2016年)
広瀬淳二+今井和雄+齋藤徹+ジャック・ディミエール@Ftarri(2016年)
齋藤徹『TRAVESSIA』(2016年)
齋藤徹の世界・還暦記念コントラバスリサイタル@永福町ソノリウム(2016年)
かみむら泰一+齋藤徹@キッド・アイラック・アート・ホール(2016年)
齋藤徹+かみむら泰一、+喜多直毅、+矢萩竜太郎(JazzTokyo)(2015-16年)
齋藤徹・バッハ無伴奏チェロ組曲@横濱エアジン(2016年)
うたをさがして@ギャラリー悠玄(2015年)
齋藤徹+類家心平@sound cafe dzumi(2015年)
齋藤徹+喜多直毅+黒田京子@横濱エアジン(2015年)
映像『ユーラシアンエコーズII』(2013年)
ユーラシアンエコーズ第2章(2013年)
バール・フィリップス+Bass Ensemble GEN311『Live at Space Who』(2012年)
ミシェル・ドネダ+レ・クアン・ニン+齋藤徹@ポレポレ坐(2011年)
齋藤徹による「bass ensemble "弦" gamma/ut」(2011年)
『うたをさがして live at Pole Pole za』(2011年)
齋藤徹『Contrabass Solo at ORT』(2010年)
齋藤徹+今井和雄『ORBIT ZERO』(2009年)
齋藤徹、2009年5月、東中野(2009年)
ミシェル・ドネダと齋藤徹、ペンタックス43mm(2007年)
齋藤徹+今井和雄+ミシェル・ドネダ『Orbit 1』(2006年)
ローレン・ニュートン+齋藤徹+沢井一恵『Full Moon Over Tokyo』(2005年)
明田川荘之+齋藤徹『LIFE TIME』(2005年)
ミシェル・ドネダ+レ・クアン・ニン+齋藤徹+今井和雄+沢井一恵『Une Chance Pour L'Ombre』(2003年)
往来トリオの2作品、『往来』と『雲は行く』(1999、2000年)
齋藤徹+ミシェル・ドネダ+チョン・チュルギ+坪井紀子+ザイ・クーニン『ペイガン・ヒム』(1999年)
齋藤徹+ミシェル・ドネダ『交感』(1999年)
齋藤徹+沢井一恵『八重山游行』(1996年)
久高島で記録された嘉手苅林昌『沖縄の魂の行方』、池澤夏樹『眠る女』、齋藤徹『パナリ』(1996年)
ミシェル・ドネダ+アラン・ジュール+齋藤徹『M'UOAZ』(1995年)
ユーラシアン・エコーズ、金石出(1993、1994年)
ジョゼフ・ジャーマン
両国のシアターカイ(2022/8/29)。
Jean Sasportes ジャン・サスポータス (演出, 振付)
Chikako Kaido 皆藤千香子 (dance)
Shophia Otto ソフィア・オットー (dance)
Faris Saleh ファリス・サレー (actor)
Eri Fukahiro 深堀絵梨 (dance)
Naoki Kita 喜多直毅 (vln)
Rutsuko Kumasaka 熊坂路得子 (accordion)
Kazuhiro Tanabe 田辺和弘 (b)
Miyama McQueen-Tokita マクイーン時田深山 (十七絃箏)
Tetsu Saitoh 齋藤徹 (composition)
Naoki Kita 喜多直毅 (music director)
自閉症をテーマにしたタンツテアター(ダンス演劇)。初演は2016年、ジャン・サスポータスが齋藤徹らと協力して上演を繰り返してきた作品であり、2020年の再演予定がコロナ禍のため今回ようやく実現した。徹さんがいない世界、音楽家としてはマクイーン時田深山、田辺和弘、熊坂路得子の3人が加わった。
コミュニケーションの不毛とかんたんに言うよりも広範な問題意識があり、これを観る自分の言動に照らしてもどきりとさせられる。対話の相手は虚空であり、仮想の自分であり、仮想のなにものか。自らサングラスやモバイル機器で対話が閉じたものになされてもいる。そして機能不全に陥ったときに水の入ったコップを持たせると治癒されるように、ディスコミュニケーションにもコードがある。あるいはコミュニケーションとディスコミュニケーションとが機能による優劣ではなく同じ場所に置かれており、それにより表現が浸透力を持っているのかもしれない。音楽家がステージ四隅から世界に貢献し、ときおり世界に介入するあり方もよかった。世界を縁でつなぎとめるのは小さな個人の愛情。
終わったあとにジャンさんとロジャー・パルバースさんとのトークがあった。今回ジャンさんはダンサーとしてではなく振付と演出で参加したわけだが、それでもステージ上に出てきて指示し、作品の一部となるありようは、タデウシュ・カントールも意識したのだとのこと。
そして近くのちゃんこ店でジャンさんと話した。ジャンさんもダンサーとして協働したピナ・バウシュは完璧主義者であり、ペーター・ブロッツマンとも共演したが演出が予定外に揺らぐことを嫌うピナは即興音楽との親和性がなかった(このあたりは『齋藤徹の芸術』に書いた)。だがピナのカンパニーにはさまざまな指向性を持つ者がおり、ジャンさんもこのように即興とのコラボレーションを続けている。コントラバス奏者でいえばペーター・コヴァルトは即興指向が非常に強く、徹さんは即興と曲の両方をみていた、と。
●齋藤徹
齊藤聡『齋藤徹の芸術 コントラバスが描く運動体』(2022年)
森田志保『徹さんの不在』(Dance Vision 2021 feat. 齋藤徹)@アトリエ第Q藝術(2021年)
齋藤徹生誕祭@横濱エアジン(2021年)
徹さんとすごす会 -齋藤徹のメメント・モリ-(2019年)
『Sluggish Waltz スロッギーのワルツ』(JazzTokyo)(2019年)
ジャン・サスポータス+矢萩竜太郎+熊坂路得子@いずるば(齋藤徹さんの不在の在)(2019年)
松本泰子+庄﨑隆志+齋藤徹@横濱エアジン(『Sluggish Waltz - スロッギーのワルツ』DVD発売記念ライヴ)(2019年)
齋藤徹+久田舜一郎@いずるば(2019年)
齋藤徹+沢井一恵@いずるば(JazzTokyo)(2019年)
近藤真左典『ぼくのからだはこういうこと』、矢荻竜太郎+齋藤徹@いずるば(2019年)
2018年ベスト(JazzTokyo)
長沢哲+齋藤徹@ながさき雪の浦手造りハム(2018年)
藤山裕子+レジー・ニコルソン+齋藤徹@横濱エアジン(JazzTokyo)(2018年)
齋藤徹+長沢哲+木村由@アトリエ第Q藝術(2018年)
ロジャー・ターナー+喜多直毅+齋藤徹@横濱エアジン(2018年)
かみむら泰一+齋藤徹@喫茶茶会記(2018年)
永武幹子+齋藤徹@本八幡cooljojo(JazzTokyo)(2018年)
かみむら泰一+齋藤徹@本八幡cooljojo(2018年)
DDKトリオ+齋藤徹@下北沢Apollo(2018年)
川島誠+齋藤徹@バーバー富士(JazzTokyo)(2018年)
齋藤徹+喜多直毅@板橋大山教会(2018年)
齋藤徹+喜多直毅+外山明@cooljojo(2018年)
かみむら泰一+齋藤徹@本八幡cooljojo(2018年)
齋藤徹+喜多直毅+皆藤千香子@アトリエ第Q藝術(2018年)
2017年ベスト(JazzTokyo)
即興パフォーマンス in いずるば 『今 ここ わたし 2017 ドイツ×日本』(2017年)
『小林裕児と森』ライヴペインティング@日本橋三越(2017年)
ロジャー・ターナー+喜多直毅+齋藤徹@横濱エアジン(JazzTokyo)(2017年)
長沢哲+齋藤徹@東北沢OTOOTO(2017年)
翠川敬基+齋藤徹+喜多直毅@in F(2017年)
齋藤徹ワークショップ特別ゲスト編 vol.1 ミシェル・ドネダ+レ・クアン・ニン+佐草夏美@いずるば(2017年)
齋藤徹+喜多直毅@巣鴨レソノサウンド(2017年)
齋藤徹@バーバー富士(2017年)
齋藤徹+今井和雄@稲毛Candy(2017年)
齋藤徹 plays JAZZ@横濱エアジン(JazzTokyo)(2017年)
齋藤徹ワークショップ「寄港」第ゼロ回@いずるば(2017年)
りら@七針(2017年)
ミシェル・ドネダ+フレデリック・ブロンディ+齋藤徹『Spring Road 16』(JazzTokyo)(2016年)
広瀬淳二+今井和雄+齋藤徹+ジャック・ディミエール@Ftarri(2016年)
齋藤徹『TRAVESSIA』(2016年)
齋藤徹の世界・還暦記念コントラバスリサイタル@永福町ソノリウム(2016年)
かみむら泰一+齋藤徹@キッド・アイラック・アート・ホール(2016年)
齋藤徹+かみむら泰一、+喜多直毅、+矢萩竜太郎(JazzTokyo)(2015-16年)
齋藤徹・バッハ無伴奏チェロ組曲@横濱エアジン(2016年)
うたをさがして@ギャラリー悠玄(2015年)
齋藤徹+類家心平@sound cafe dzumi(2015年)
齋藤徹+喜多直毅+黒田京子@横濱エアジン(2015年)
映像『ユーラシアンエコーズII』(2013年)
ユーラシアンエコーズ第2章(2013年)
バール・フィリップス+Bass Ensemble GEN311『Live at Space Who』(2012年)
ミシェル・ドネダ+レ・クアン・ニン+齋藤徹@ポレポレ坐(2011年)
齋藤徹による「bass ensemble "弦" gamma/ut」(2011年)
『うたをさがして live at Pole Pole za』(2011年)
齋藤徹『Contrabass Solo at ORT』(2010年)
齋藤徹+今井和雄『ORBIT ZERO』(2009年)
齋藤徹、2009年5月、東中野(2009年)
ミシェル・ドネダと齋藤徹、ペンタックス43mm(2007年)
齋藤徹+今井和雄+ミシェル・ドネダ『Orbit 1』(2006年)
ローレン・ニュートン+齋藤徹+沢井一恵『Full Moon Over Tokyo』(2005年)
明田川荘之+齋藤徹『LIFE TIME』(2005年)
ミシェル・ドネダ+レ・クアン・ニン+齋藤徹+今井和雄+沢井一恵『Une Chance Pour L'Ombre』(2003年)
往来トリオの2作品、『往来』と『雲は行く』(1999、2000年)
齋藤徹+ミシェル・ドネダ+チョン・チュルギ+坪井紀子+ザイ・クーニン『ペイガン・ヒム』(1999年)
齋藤徹+ミシェル・ドネダ『交感』(1999年)
齋藤徹+沢井一恵『八重山游行』(1996年)
久高島で記録された嘉手苅林昌『沖縄の魂の行方』、池澤夏樹『眠る女』、齋藤徹『パナリ』(1996年)
ミシェル・ドネダ+アラン・ジュール+齋藤徹『M'UOAZ』(1995年)
ユーラシアン・エコーズ、金石出(1993、1994年)
ジョゼフ・ジャーマン
国立新美術館では待望の李禹煥回顧展も。
なぜこんなに惹かれるのだろうと考えても明確な答えは出ない。強い意志で余白や空間を維持することが、沈黙や佇まいを関係性の一部とするアジア社会に共通するからかもしれない。あるいは、速度を作品に取り込まないからかもしれない。そしてこのふたつは同じことかもしれない。
●李禹煥
エヴァン・パーカー『Electroacoustic Quartet / Concert in Iwaki』
『1968年 激動の時代の芸術』@千葉市立美術館
広島市現代美術館の「日本の70年代」展
北海道版画協会「版・継承と刷新」、杉山留美子
田村彰英、李禹煥、『哲学者クロサキの写真論』 バウハウスからバスハウスへ
忍澤勉『終わりなきタルコフスキー』(寿郎社、2022年)が驚くほど実証的でおもしろい。とくに『ソラリス』や『ノスタルジア』において、最後に主人公はどこに辿り着いたのだろうかということが、感覚的な衝撃とは対照的に不明確で気になっていた。つまりクリスは惑星ソラリスから地球に戻らずソラリスの一部とさえ化しているのだし、ゴルチャコフもロシアには戻らず死に向かう。この「故郷に戻らない」ということによって、胸が張り裂けそうなほどの哀切な感情を掻き立てられたのだった。
さらに、未読のままだった『映像のポエジア』が文庫で再刊された(ちくま学芸文庫、原著1988年)。芸術家は自分自身の内的なイメージを提示すべきだということ、それもタルコフスキーの映画に対してあれはなんだったのだろうとずっと考えたあとであれば納得できる。また、『ソラリス』原作を書いたスタニスワフ・レムは未知から人間が得るもの、タルコフスキーは内的世界との往還を大事にしていたと見立てるなら、ふたりの対立もまた不可避であっただろうとも思える。
銀座のギャラリー椿で小林裕児さんの個展『合歓の森へ』。
今回はいらっしゃらないと聞いていたのだけど、最終日に駆け込んだら間もなく裕児さんが現れた。舟も猫も馬も人も空中に浮かび、それぞれの世界を尊重しあっている。
Leica M8, Summicron 50mmF2.0
●小林裕児
小林裕児展『馬のいる』@檜画廊(2019年)
小林裕児展『田園の秘密』@ギャラリー椿(2018年)
『小林裕児と森』ライヴペインティング@日本橋三越(2017年)
小林裕児個展『ドローイングとスケッチブック』@檜画廊(2017年)
齋藤徹『TRAVESSIA』(2016年)
齋藤徹+かみむら泰一、+喜多直毅、+矢萩竜太郎(JazzTokyo)(2015-16年)
国立近代美術館のゲルハルト・リヒター展。
90年代にはじめてリヒターの重ね塗りやナイフにより削られたマルチレイヤーの作品を観てからは、ロンドンでもデュッセルドルフでもサンフランシスコでもリヒター作品を見つけたら眼が悦んでいたし、ニューヨークのチェルシーでスタンリー・カッセルマンという画家によるフェイクを目にして不快に思うくらいのファンではあった。
今回もホロコーストをテーマにした《ビルケナウ》などのマルチレイヤー画、写真の上に野蛮にも思えるペイントを施した作品、どれだけ近づいて凝視してもなにも掴めない細いストライプ画など、これまで驚かされてきた氏の作品群が展示されている。だが不思議に何も気持ちが盛り上がらないどころか醒めてくる。
8枚のガラスを並べた作品《8 Glass Panels》には周囲の人や画が反射し、何重ものずれたイメージが現れている。リヒターの異色作くらいに思っていたのだけれど、これもやはりリヒターの本質的な作品ではないのかなと思えた。
つまり、今回多数のリヒターの作品を同時に脳に入れることによって、興奮ではなく、認識と認識の隙間に誘い込まれたのかな、と。ガラス作品はそのことに気付かせてくれたのかな、と。
六本木のワコウ・ワークス・オブ・アートはリヒターの新たなスタイルを紹介してきてくれたところで、今回ここでもリヒターのドローイング展が開かれている。一見なんということもないのだけれども、そのことが次第に驚きに化けてきた。塵芥が脳脊髄液に流されて紙の上に付着したようだ。これらは認識の隙間というよりも認識の徹底的な表面。やはり恐るべき人。
《8 Glass Panels》
《Joshua》
Drawing
●参照
ゲルハルト・リヒターの「Strip」@ワコウ・ワークス・オブ・アート(2016年)
ゲルハルト・リヒター『アブダラ』(2011年)
ゲルハルト・リヒター『New Overpainted Photographs』(2010年)
テート・モダンとソフィアのゲルハルト・リヒター(2010年)
Heilen, Täuschen, Demokratie / Waldeffekt (癒し、欺き、民主主義)
Koncept and choreography: Chikako Kaido 皆藤千香子
First supprise is Kristin Schster's eye-grabbing movement, extremely high speed but each body region does not have relationship each other, which reminds me Polish writer Stanisław Lem's novel Solaris. Above the ocean of the planet Solaris there emerges huge image of child face, but eyes, mouth and cheek moves separately which drives an astronaut muddled. And Kristin is strangely combined with Antonio Stella like a disentanglement puzzle. On the one hand Jascha Viehstadt explains about parallel world. We can make different world by making our own decision.
Then they begin to make some social relationships - it may be funny procedure. Jasha and Kristin are doing something, and Antonio walks round the stage. We cannot judge or even understand whether their actions have any purpose or not. A glass of water Jasha holds in his hand may be a kind of yoke to our society. Anyhow everything is a society, everything is a human behavior. They continue to seek connection each other, including burden onto the other person.
Demonstration scene is projected onto the wall behind the dancers. Of course we can understand they are acquiring to take part in those social movement, but surprisingly the video changes to outer space. For making the choreography, Chikako Kaido has speculated about Michel Foucault's philosophy especially Panopticon. It is designed to observe all prisoners at once and each other - then we all have destiny to be prisoner, or social involvement means to become prisoner? Dancers come back to the same procedures again, but somewhat different from previous ones. Partly it must be the result of amazing dissimilation of the video. Also noteworthy contrabass sound gives vibration to their existence way in the so-called society.
●皆藤千香子
ボイス+パレルモ@埼玉県立近代美術館(2021年)
『今・ここ・私。ドイツ×日本 2019/即興パフォーマンス in いずるば』(JazzTokyo)(2019年)
徹さんとすごす会 -齋藤徹のメメント・モリ-(2019年)
『Black is the color, None is the number』(2019年)
齋藤徹+喜多直毅+皆藤千香子@アトリエ第Q藝術(2018年)
即興パフォーマンス in いずるば 『今 ここ わたし 2017 ドイツ×日本』(2017年)
小川紳介+小川洋子『幻の小川紳介ノート』(シネ・ヌーヴォ、2022年)
映画作家・小川紳介が映画祭での上映に際してトリノを訪れたときの日記が、『幻の小川紳介ノート』として出版されている。
毎回のイタリア料理を事細かに記録していて、帰国してからも自分で再現して振舞ったらしい。ベルリンに初めて足を運んだときも、詳細な地図を渡されたら夢中になって、まだ旅の前なのに「あの角を曲がるとあの店があって」などと話していたという。
なるほど、こういう人だったからこそ『1000年刻みの日時計-牧野村物語』においてドキュメンタリー映画として破綻するのではないかというほどにコメ作りの過程を饒舌に示しもしたわけだ。その意味では三里塚のシリーズもディテールが命である。
●小川紳介
小川紳介『1000年刻みの日時計-牧野村物語』(1986年)
小川紳介『牧野物語・峠』、『ニッポン国古屋敷村』(1977、82年)
小川紳介『三里塚 五月の空 里のかよい路』(1977年)
福田克彦『映画作りとむらへの道』(1973年)
小川紳介『三里塚 辺田』(1973年)
小川紳介『三里塚 岩山に鉄塔が出来た』(1972年)
小川紳介『三里塚 第二砦の人々』(1971年)
小川紳介『三里塚 第三次強制測量阻止闘争』(1970年)
小川紳介『日本解放戦線 三里塚』(1970年)
小川紳介『日本解放戦線 三里塚の夏』(1968年)
『neoneo』の原発と小川紳介特集
東京琉球館で太田昌国さんのトーク(2021/9/24)。先月99歳で亡くなった画家の富山妙子さんについて話すということであり、のがすわけにはいかない。
山本浩貴『現代美術史 欧米、日本、トランスナショナル』はアートの新たな視点を与えてくれる良書だったが、たしかにその中にも富山さんがポストインペリアルな事象(炭鉱や韓国政治など)に取り組んできたことへの言及があった。太田昌国さんはこの連続講座の第1回(10年前)で富山さんと討論し、その際、富山さんは「海」について語ったという。分け隔てる、争いの場としての「海」ではなく、交通路としての「海」。富山さんがピアノの高橋悠治さんと組んでリリースしたDVD作品『蛭子と傀儡子 旅芸人の記録』もまた、日本の植民地主義のみならず、海の交易を守る神・媽祖や、島嶼国インドネシアの人形影芝居ワヤンなども視野に入れた作品だった。
太田さんは、富山さんについて語る際の背景として、過去の植民地主義のとらえなおしという動きと、それに対する日本の反応の鈍さについて指摘した。たとえばオランダの国立美術館は奴隷制をテーマにした企画展を開いたばかりであり、自国の暗部に向けられる視線の強さは、確かに、『表現の不自由展』を巡るものとは大きく異なっている。オランダ政府は植民地時代の略奪文化財を返還する方針さえも発表している。
とはいえ、表現と政治との対立や共存について俎上に載せれば事足れりという話ではない。そんなことは入口に過ぎない。
富山さんが強く反発していたものは「利用主義」だったという。政治社会運動をやっている人の芸術への接し方はときに浅薄であり、それは富山さんにとって耐えられないものだっただろうと太田さんは話す。富山さんは「簡単に利用されるようでは芸術ではありませんよ」とも語っていた。
●太田昌国
太田昌国『さらば!検索サイト』
太田昌国の世界 その62「軍隊・戦争と感染症」
太田昌国の世界 その28「「従軍慰安婦」論議の中の頽廃」
太田昌国の世界 その24「ゲバラを21世紀的現実の中に据える」
太田昌国の世界 その15「60年安保闘争後の沖縄とヤマト」
60年目の「沖縄デー」に植民地支配と日米安保を問う
太田昌国『「拉致」異論』
太田昌国『暴力批判論』
『情況』の、「中南米の現在」特集
この名著が文庫化されたのでさっそく再読。(ちくま学芸文庫、1986/2021年)
いまとなっては当然のようにも思えるけれど、やはり辛辣でおもしろい。著者は、戦前から戦後にかけての前衛アートを、欧化主義という「極楽トンボ」と矮小な伝統主義というローカリズムの間の有象無象だと断じたうえで、1950年代の「具体」や60年代からの「もの派」とは、本質的にはアートの存立意義じたいを問うものだったとする。その活動が重要なのは「プラークシス」(実践)と、それとあわせてとらえるべき、既存の体系に基づく「ポイエーシス」(手段としての制作)の崩壊や再生だということ。即興音楽の模索にも通じるところがあるね。
アートがプラークシスによる不断の革命だとすると、ここでジル・ドゥルーズによる「マッケンローの恥辱」を思い出してしまう。テニスのジョン・マッケンローは、とにもかくにもネット際に突進し、自らをにっちもさっちもいかない袋小路に追い込んだ。それによってはじめて、情勢を突き破る「出来事」すなわち革命が生まれる。さてそこまでの話かどうか。
渡辺真也『ユーラシアを探して ヨーゼフ・ボイスとナムジュン・パイク』
クレーフェのエフェリン・ホーファーとヨーゼフ・ボイス
1984年のヨーゼフ・ボイスの来日映像
アンドレス・ファイエル『ヨーゼフ・ボイスは挑発する』
ミヒャエル・エンデ+ヨーゼフ・ボイス『芸術と政治をめぐる対話』
ケルンのルートヴィヒ美術館とヴァルラーフ・リヒャルツ美術館
ロサンゼルスのMOCAとThe Broad
ベルリンのキーファーとボイス
MOMAのジグマー・ポルケ回顧展、ジャスパー・ジョーンズの新作、常設展ペーター・コヴァルト+ローレンス・プティ・ジューヴェ『Off The Road』
ペーター・コヴァルトのソロ、デュオ
コロナ禍でSOMPO美術館もお休みに入ってしまうと気づき、あわてて「モンドリアン展」を観てきた。
やっぱり眼が悦ぶ。あらためて認識したことは、代表的なコンポジションの作品群がたんに構成主義的なものではなくトポロジー的でもあったこと。それは分割要素から成るものではない(だから生活美を追求したオランダのデ・ステイル運動から離脱した)。
またモンドリアンは静的とみなされるのを嫌った。1937年の「線と色のコンポジション:III」に二重線が導入されているのは、ジャズからインスパイアされて動的な性格を持たせようとしたためだという。テオドール・アドルノがジャズについて「演奏(interpretation)の一マニール」と否定的に書いたのが1936年(『プリズメン』、1955年)。その後ビバップが登場し、アドルノのジャズ論は無理解の典型として評価されるようになったけれど、アレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハへのインタビューでもこのことが引用されていたし(2008年の動画)、いまもジャズや即興に対する言説の歴史として共有されている。ちなみにアンリ・マティスの軽やかな『ジャズ』は1947年。
開場にはヘリット・リートフェルトの椅子がいくつも展示されていて、それも嬉しい。デ・ステイルいいなあ。日本ではじめてデ・ステイルの大々的な展覧会が開かれたのは1998年頃で(池袋のセゾン美術館に観にいった)、すごく気持ちよかった記憶がある。図録がどこかにあるはずだし発掘しよう。
SOMPO美術館は5月11日まで臨時休館だそうです。いい展覧会なので復活したらぜひ。