Sightsong

自縄自縛日記

島尾ミホ『海辺の生と死』

2013-10-24 08:14:18 | 九州

島尾ミホ『海辺の生と死』(中公文庫、原著1974年)を読む。嬉しい復刊。

ゆっくりと、思い出しながら綴られる奄美の記憶。丁寧に示される奄美のことばを、脳の中で、島尾敏雄『東北と奄美の昔ばなし』に付されたレコードや(>> リンク)、伊藤憲『島ノ唄』において見聴きことができる島尾ミホの声と重ね合わせながら、唇を動かしながら読んでみる。「神話的想像力」とでも言うべきか、驚いてしまうほどの強度で、島尾ミホの存在が浮かび上がってくる。

本書に併録された吉本隆明の文章においては、古い奄美の「聖」と「俗」とを、あるいは「貴種」と「卑種」とを、「鳥瞰的にでもなく、流離するものの側からでもなく、受けいれるものの側から描きつくしている」と表現している。まさに、神と人とが混濁した大きなカオス的な存在だったのだと思わざるを得ない。

ところで、ここには、島に流離してくる人々のなかに「立琴を巧みに弾いて歌い歩く樟脳売りの伊達男」がいたとある。これは、まさに里国隆のことではなかったか、と想像する。あるいは、里も樟脳売りに付き従って放浪するうちに芸を覚えたというから、同じような人は少なからずいたのかもしれない。

本書の後半は、のちに夫となる島尾敏雄が、ミホの郷里・加計呂麻島に赴いたときの思い出が記されている。敏雄には特攻準備の命令が下り、いつ米軍に突っ込んでいってもおかしくない状況だった。自らも死を覚悟して、白装束に着替え、海岸を傷だらけになりながら敏雄に逢いに行くミホの姿は、文字通り凄絶であり、思い出話の領域を遥かに超えている。結局は、特攻する前に日本が敗戦し、敏雄もミホも生き長らえる。しかし、それはここで書かれている世界とは「別の話」である。

「日経新聞」の「文学周遊」というサイトに、『海辺の生と死』の舞台となった加計呂麻島の現在が紹介されている(>> リンク)。島尾敏雄の文学碑、さらにその向こうに敏雄、ミホ、娘マヤの墓が写された写真もある。『季刊クラシックカメラNo.11』(2001年)にも同じ場所の写真が掲載されている。ミホもマヤも亡くなる前である。見比べてみると、文学碑の後ろの生け垣が撤去され、3人の墓に歩いていくことができるようになっているようだ。


2001年(『季刊クラシックカメラ No.11』)


2013年(「日経新聞」)

 
島尾敏雄『東北と奄美の昔ばなし』の付録レコード

●参照
島尾ミホさんの「アンマー」
島尾ミホ・石牟礼道子『ヤポネシアの海辺から』


降旗康男『地獄の掟に明日はない』

2013-04-20 06:44:29 | 九州

降旗康男『地獄の掟に明日はない』(1966年)を観る。この作品で、降旗康男は、はじめて高倉健を起用している。

長崎。競艇を巡り暴力団同士が抗争する。健さんは、原爆投下で孤児になった自分を父親のように育ててくれた組長のため、対立する暴力団の組長(佐藤慶!)を刺す。しかし、それはすべて、顧問弁護士(三国連太郎!)によるシナリオだった。弁護士を斬る健さん、弁護士は「君はそれしか出来ないのか」と呟いて絶命。その健さんも、路上で犬のようにのたうち回って死ぬ。

ロケ地・長崎の坂や海や平和祈念像(北村西望)が登場する。長崎の観光映画であると同時に、原爆の影響が色濃く残る場所であることを示した映画でもある。健さんは原爆の後遺症に苦しみ、慕う組長を「三国人が占領しそうになった街を盛りたてた」などと口にするのである。そして、義理のためなら人を殺め、そのまま恋人と沖永良部島に逃亡しようとする。何という歪んだ人物造形!

八木正生が音楽を担当しており、テーマ曲はフラメンコ風のトランペット演奏。明らかに、マイルス・デイヴィス『Sketches of Spain』(1960年)の影響だろうね。それでも、キャバレーでのサックスとトランペットの二管の演奏はなかなかの格好よさである。誰がトランペットを吹いていたのだろう。

●参照
降旗康男『あなたへ』
蔵原惟繕『南極物語』
健さんの海外映画
青木亮『二重被爆』、東松照明『長崎曼荼羅』
『ヒロシマナガサキ』 タカを括らないために
原爆詩集 八月


松本清張『点と線』と小林恒夫『点と線』

2013-03-16 00:10:15 | 九州

恥ずかしながら、初めて、松本清張『点と線』(新潮文庫、原著1958年)を読む。

福岡市香椎の海岸で「情死」した男女。官僚と料亭の女中であった。福岡署の古参刑事と警視庁の若い刑事は、出来過ぎた事件に違和感を覚え、執拗な捜査を続ける。同時に、男が働いていた「××省」では、業者との不正癒着事件が起きていた。

物語のはじめから、怪しい奴は、「××省」出入りの機械業者であることはわかっている。彼が福岡で人を殺めるには、同時期に北海道に出張していたというアリバイを崩さなければならない。その謎解きが、この小説の醍醐味である。

もう半世紀以上も前の時代設定ゆえ、このミステリーよりも、感覚のギャップのほうが面白い。

時刻表とにらめっこする鉄道の時代。東海道新幹線開業(1964年)の前であり、東京から九州や北海道へ行くにもひたすら長い時間を要した。青函連絡船もあった。飛行機は、メジャーな乗り物ではなかった。

役所と業者との癒着も、今とは比べものにならないほど大っぴらだったのだろう。「二号さん」だって、もはやありえない。

ついでに、録画しておいた映画、小林恒夫『点と線』(1958年)を観る。

小説が出版されたのと同年に作られたものであり、そのためか、粗雑にさえ思えるつくりである。もとよりたった85分間で、ひとつひとつのディテールを潰していくような面白さを創出できるわけがない。

嬉しい点は、志村喬加藤嘉の渋い演技だけ。

●参照
松本清張『ゼロの焦点』と犬童一心『ゼロの焦点』


旨い宮崎

2012-12-01 00:06:46 | 九州

所用で30年ぶりくらいに足を運んだ宮崎。いろいろ旨いものあり。


西米良サーモン(西米良村の名物。カワマスとエゾイワナのかけあわせ)


宮崎地鶏(大蒜のすりおろしを付けて食べる)


メヒカリのから揚げ


焼きおにぎり

写真を撮らなかったが、宮崎観光ホテルの朝食バイキングはハイレベルだった。あれだけを目当てに泊まっても良いくらい。


土本典昭『水俣―患者さんとその世界―』

2012-07-07 09:56:00 | 九州

土本典昭『水俣―患者さんとその世界―』(1971年)を観る。


『ドキュメンタリー映画の現場』(シグロ・編、現代書館)より

完成から40年あまりが経ついまでも、フィルムの中には、ナマの力が横溢している。正直言って、テレビ画面を凝視し続けることが辛く、何日かに分けて観た。その力とは、怒りとか悲しみとかいったひとつの言葉で象徴されるようなものではなく、生命力の発露そのものであり、それを「撮った順に並べた」ドキュメンタリーの意気である。

水俣市の南隣に位置する鹿児島県の出水市では、「水俣病と認定されると出水市がつぶれる」として、そのような動きをする患者を白眼視することがあったという。水俣の患者やその家族自身の口からも、「あつかましいと思われる」ことへの配慮が語られる。国や企業という大きなものによる対応に我慢できず、各自がチッソの「一株株主」になろうとする運動も、圧力の対象となる。まさに、社会的・構造的な孤立であったのだと思わせる記録だ。

個人の思いや権利は、常になんらかの正当化のもと、かき消されようとする。現在の原発事故と重ね合わせざるを得ない。

カメラは、患者ひとりひとりに直接向けられ、対話をする。重症患者であればあるほど、観るのが辛い。もちろん、患者やその周囲の人びとは、観る者とは比べものにならない場にいる。そのような言葉とは関係なく、患者は生きる姿を見せる。

このフィルムの迫真性は、粒子の荒れたモノクロ画面だけでなく、同時録音によらないということも影響しているだろう。当時は、同録でないから物語を捏造しているのだろうとの批判もあったようだが、いまでは史実を疑う者はいない。小川紳介『日本解放戦線 三里塚の夏』(1968年)(>> リンク)も、同時録音導入前の掉尾を飾る作品であった。ドキュメンタリーの性質も、それによって変わらないわけはない。

●参照
土本典昭『在りし日のカーブル博物館1988年』
土本典昭『ある機関助士』
土本典昭さんが亡くなった(『回想・川本輝夫 ミナマタ ― 井戸を掘ったひと』)
原田正純『豊かさと棄民たち―水俣学事始め』
石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』
『花を奉る 石牟礼道子の世界』
石牟礼道子+伊藤比呂美『死を想う』


原田正純『豊かさと棄民たち―水俣学事始め』

2012-06-16 02:14:21 | 九州

先ごろ亡くなった原田正純氏の本、『豊かさと棄民たち―水俣学事始め』(岩波書店、2007年)を読む。医師として、また研究者として、水俣病に取り組んだ人である。

氏は、このように書く。水俣病が発病したから差別が起こったのではない。差別のあるところに公害が起こるのだ、と。まさに水俣病は、血の通わない権力構造の姿を体現するものであった。権力は、それとわかっていながら、歪みを弱いところに発現させ、それを隠蔽し、なかったことにしようとする。

水俣病の因果関係を明らかにすることに大きく貢献し、それを社会に問うてきた原田氏であるからこその観察や考えが、さまざまに述べられている。

○水俣病が1960年に終焉したとする説があった。これは、行政が幕引きのために意図的につくりあげた可能性がある。
○1968年に、政府(園田厚生大臣)が、はじめて公式に水俣病を公害病と認めた。実はその年に、チッソばかりでなく、日本中からアセトアルデヒド工場が完全に消えた。これにより企業への影響がおよばなくなるのを待って、幕引きの意図をもって認めたのだった。
○水俣病以前、「毒物は胎盤を通らない」が医学上の定説だった。そのため、母親の症状が軽いと、胎児に病状がみられても、母親が毒物を接取したためとは認められなかった。この説は、学問上の権威を守り、新しい事実に目をつぶる権威者の存在によって、なかなか見直されなかった。
○発病した胎児の臍帯(へそのお)を多数分析すると、問題量のメチル水銀が検出された。子宮は環境そのものであった。

水俣病が認知されていっても、常に、患者は権力上も経済的にも圧倒的に弱かった。原田氏は、公害のような裁判において、被告の企業や行政の側に控訴が認められていることは大変不公平だと書いている。強大な国家権力に踏みにじられることへの抵抗という点では、このことは、水俣にも公害にも限るまい。同じことは、原田氏がやはり関わった、三池炭鉱の炭塵爆発事件に伴うCO中毒についても言うことができるのである。

どきりとさせられる指摘がある。原田氏は、日本が敗戦により植民地を失ったあと、九州を植民地代わりにして高度経済成長を行ったのだとする。その代償として、次のような事件が列挙されている。

○三池だけでなく炭鉱事故が九州に頻発した。
○カネミ油症事件(1968年)※福岡県中心に西日本一帯
○土呂久鉱毒事件(1971年)※宮崎県
○松尾鉱毒事件(1971年)※宮崎県
○興国人絹による慢性二硫化炭素中毒事件(1964年)※熊本県
○森永ヒ素ミルク事件(1955年)※宮崎県など西日本一帯
○振動病
○スモン
○大体四頭筋委縮症
○サリドマイド禍

まさに、高橋哲哉のいう「犠牲のシステム」だ。

●参照
石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』
『花を奉る 石牟礼道子の世界』
石牟礼道子+伊藤比呂美『死を想う』
島尾ミホ・石牟礼道子『ヤポネシアの海辺から』
島尾敏雄対談集『ヤポネシア考』 憧憬と妄想(石牟礼道子との対談)
熊谷博子『むかし原発いま炭鉱』(CO中毒)
熊谷博子『三池 終わらない炭鉱の物語』(CO中毒)
高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』、脱原発テント


熊谷博子『むかし原発いま炭鉱』

2012-06-09 11:45:53 | 九州

熊谷博子『むかし原発いま炭鉱 炭都[三池]から日本を掘る』(中央公論新社、2012年)を読む。

著者の熊谷氏は、ドキュメンタリー映画『三池 終わらない炭鉱の物語』(2005年)の監督であり、本書も主にその製作時に得られたことが中心に記述されている。「むかし炭鉱、いま原発」ではない、今こそ「炭鉱」なる過去を凝視しようとの意図である。

勿論、著者は東日本大震災の原発事故を機に、現在の原発をめぐる社会にかつての炭鉱を重ね合わせているのでもある。「情報を隠して出さない今の政府を当時の政府に、電力会社を鉱山会社に、マスコミなどで”安全”を主張、解説をする原子力工学や医学の専門家たちを、当時の政府調査団の団長ら、御用学者と言われた鉱山学者たちに置き換えるだけでいい」と。私たちも、不幸なことに、もはや原発問題を通じずに炭鉱を視ることは不可能となっている。

映画『三池』を観ながら疑問に感じていたこと、判然としなかったことについて、さまざまな発見があった。

上野英信、山本作兵衛、勅使河原宏『おとし穴』などが描いた北九州の筑豊と、大牟田の三池との違い。筑豊には貧しく小さな「コヤマ」が多く、夜逃げによって「ケツを割って」、ヤマからヤマへと渡り歩く坑夫たちが多かった。三池は日本最大手であり、それとは様相が異なった。坑道が大きく広がり、駅もある坑道列車で長い時間をかけて移動するのは、三池の姿であり、筑豊の姿ではなかった、というわけである。三池で1930年に女性の坑内労働が禁止されても、筑豊の女性たちはずっと働き続けていた(法律では1933年に禁止)。本多猪四郎『空の大怪獣ラドン』(1956年)において描かれた阿蘇の炭鉱(実際には存在しなかった)も、三池的だったのだろう。

『三池』においては、労働組合分裂後、企業側に立った第二組合(新労)のメンバーの声がかなり多く、「ためにする」映画でないことに新鮮な驚きを覚えたのだったが、そのことについても書かれている。三池労組=英雄、新労=裏切り者、という定着した考えを認識しつつ、まずは難しい新労側から撮ったのだという。これがなければ、告発映画と化していた。勿論、その場合でも意義はあるのだろうが、記憶の共有として広く使われるためには、この方がよかったのだろう。実際、新労側で動いた人物へのインタビューで、オカネを払ったのかと監督が訊ねたときの10秒あまりの沈黙は怖ろしいほど迫真的であり、現地の上映でも、観る者が固唾を呑んでいたという。

勉強会を通じて組合を指導した向坂逸郎氏について、「争議のみじめさは向坂学級のせいだ」という女性の発言。これにも驚かされ、三里塚や福島での「有識者」の役割と重ね合わせてみてしまったのだったが、これは映画完成後かなりの物議をかもしたのだという。福岡の映画館ではこの部分で拍手が起きたり、映画の掲示板では削除してくれとの書き込みがあったり、と。大きな社会問題において、「有識者」は、場合によって「知性」や「良心」であったり、「御用学者」であったりする。これをクローズアップすれば興味深い分析になるかもしれない。

全国に数多く存在する「雇用促進住宅」。わたしの育った田舎にも、小学生のとき突然建てられ、あれは何だろうと思ったが、周りの大人は誰も適切な答えをくれなかった(最近訊ねたら、ほとんど入居していないと聞いた)。もともとは、炭鉱閉鎖にともなって都市部に流入してきた労働者のために、自立支援政策として始められた事業であった。本書でも、著者は、かつて三池から元炭鉱労働者たちが流れてきた八王子の雇用促進住宅を訪ねている。

三池での炭塵爆発(1963年)とその後のCO中毒患者のこと。本来の事故原因は、石炭の水分が増えてしまうのを嫌い、会社側が安全対策で行うべき散水を行っていなかったことにあった。しかし、やはりここでも、原因を隠蔽する力とその手先になる御用学者がおり、真相を明らかにしようとする者を潰そうとしていた。ここで著者は、東日本大震災での状況と重ね合わせて、次のように書いている。

「当時の山田元学長を連想させる学者たちが、マスメディアに出ては原発の”安全性”を力説していた。
 これだけの人災で、まだ原因究明すらきちんとできていないのに、経済優先で運転再開を急ごうとする人々の姿も同じだった。
 ただ違うのは、インターネットなどを通じ、荒木さんのように気骨のある学者の存在と意見が、私たちのもとに届くことだ。」

映画では、三池における与論島からの移住者、強制連行された朝鮮人と中国人についても、当事者の証言をもとに描かれている。本書の記述はさらに詳しい。1908年の三池港完成にともない三池に再移住した与論島出身者たちは、差別的な待遇と視線のもと、前近代的な肉体労働を受け持った(1942年まで下請け専門)。彼らの差別待遇の相対的な改善は、朝鮮人強制連行(1942年~)、中国人強制連行(1944年~)に伴うものでもあった。政府と企業による犯罪であった。このことに対する補償は、政府間の約束や法的な制約をたてになされていない。

勿論、三池だけではない。わたしの故郷の近く、宇部は石炭のまちであった。山口の長生炭鉱も事故で多くの犠牲者を出しているが、人々はここを「朝鮮炭鉱」と呼んだという。このようなことを何も知らない自分を恥じてしまう。

本書も、そのもととなった映画『三池』も、示唆するところが非常に多い。著者の次のような記述を読むと、それも当然かと思えてくる。

「国のあり方も、労使の関係も、職場の安全も、自然との闘いも、地方の経済も、産業の発展も、政治も戦争も、差別も、文化遺産も・・・・・・。
 いわば日本がつまっているのだ。」

●参照
熊谷博子『三池 終わらない炭鉱の物語』
上野英信『追われゆく坑夫たち』
山本作兵衛の映像 工藤敏樹『ある人生/ぼた山よ・・・』、『新日曜美術館/よみがえる地底の記憶』
勅使河原宏『おとし穴(九州の炭鉱)
本多猪四郎『空の大怪獣ラドン』(九州の炭鉱)
『科学』の有明海特集
下村兼史『或日の干潟』(有明海や三番瀬の映像)
『有明海の干潟漁』(有明海の驚異的な漁法)
石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』
『花を奉る 石牟礼道子の世界』
石牟礼道子+伊藤比呂美『死を想う』
島尾ミホ・石牟礼道子『ヤポネシアの海辺から』
島尾敏雄対談集『ヤポネシア考』 憧憬と妄想(石牟礼道子との対談)


熊谷博子『三池 終わらない炭鉱の物語』

2012-06-07 13:09:20 | 九州

熊谷博子『三池 終わらない炭鉱の物語』(2005年)を観る。

福岡県大牟田市を中心とした三池炭鉱のドキュメンタリーである。撮影を担当した大津幸四郎は、三里塚、水俣、沖縄、大野一雄とさまざまな場でカメラを抱えていたことになる。その大津幸四郎もカメラマンを務めたことがある故・土本典昭は、「撮るということは抱きしめるということだ」という言葉を残したという。映画のなかで、熊谷監督も、坑口のレンガを触り、たて坑跡の上に耳をつけてその音を聴き、身体での映画の捕捉を試みているようだ。福岡独自の「・・・からですね」という方言を多く収めているのも、身体的だといえる。

次第に取り壊されてはいるものの、現在でも、近代化遺産と言うべき炭鉱施設の跡が残されている。映画では、それを「巨大な地下帝国」と表現している。二十あまりの坑口があり、坑道は有明海の地下深くにまで及び(人工島もあった)、深いところは地下600m以下、そして坑内列車で坑口から1時間かかるところもあった。石炭の出荷のために建設された三池港では、石炭でクレーンを動かす船「大金剛丸」や、遠浅でも直に接岸するための大型水門がまだ稼働している。また、三池炭鉱専用鉄道は、いまは化学工場に原料を運ぶために運用されている。有明海の地下では人びとが生死の境目で石炭を掘っていたとは、思いもよらないことだった。

明治になり、1873年に国営の三池炭鉱が事業開始する。初代事務長は米国で鉱山学を学んだ團琢磨という人物で、彼が「三池式快速石炭船積機(ダンクロ・ローダー)」や三池港の開発を指揮した。しかし、話は、そのような産業のハード面だけで語られるべきものではない。

当時から囚人労働が行われ、それは1889年に三井に払い下げられ民営化されても続いた(~1930年)。囚人が収容されていた「三池集治監」(現在は三池工高)から、毎日朝夕、囚人たちが手首を紐でつながれ、坑口との間を行き来した道は「囚徒道」と呼ばれた。釈放されても、囚人たちは他に行くところもなく、炭鉱労働者として住みついたという。わたしも、北九州や大牟田あたりを「荒っぽい気風の土地」だと表現する人に接することがあるが、そのような伝聞的な言い回しはともかく、確実に地域の歴史を作ったのであった。

あまりにも厳しい労働をしたのは一般の炭鉱労働者や囚人だけではない。与論島から台風や飢饉を逃れてやってきた集団移住者(1899年~)は、特定の地域に住み、しばらくは下請けばかりに回された。そして、朝鮮からは、現地の一村から2-3名割り当てられて強制連行(1942年~)され、賃金ゼロでただ働きさせられた。戦争末期には、さらに中国からも2000人以上が連行された。植民地だけではなく、1000人以上の欧米人捕虜も過酷な労働に従事させられた。映画では、自らが働かされた炭鉱に戻ってきた人たちの声を記録している。勿論、彼らへの戦後補償はなされていない。

戦後。日本は復興のため、鉄と石炭への傾斜生産を行った。しかし、1950年代からの石油への転換と合理化の嵐により、労働者はさらなる苦境に立たされることとなり、企業は1200名以上の指名解雇を通告する(1959年)。三池争議(1960年)のきっかけである。そこから、労働組合は、これを許せないと拒否する者と、諦めて条件闘争に与する者とに分裂し、いがみ合った。勅使河原宏『おとし穴』(1962年)でも描かれている事態である。

映画では、熊谷監督は、両方の組合の方々にインタビューを行っている。「ためにする」映画ではない、凄いことだ。それゆえ、大資本のみを悪とみなすのではなく、さまざまな見方や立場があったことが示されている。例えば企業側についた第二組合の方は、このままだと誰も食べて行けず、第一組合が、総評(現在は連合に合流)を介して、その闘いから退いた人の名簿をもって新たな仕事につけないようにしたのだと告発する。また、三池主婦会に所属した方は、当時勉強会を行った向坂逸郎(当時九大教授)を非難し、その後労働者たちがみじめになったのは向坂先生が机上の勉強だけで指導したからだ、と言う。勿論、一方的な首切りに抗った人びとの理も言うまでもない。簡単なストーリーで過去を振り返ることなどできない、ということだ。

1963年、一つの坑道で、炭塵爆発が起きる。458人が亡くなり、助かった何百人もの人も、CO中毒による障害、精神症状や性格変化などの後遺症に苦しめられている。労災は3年で打ち切られてしまうため、労働者の家族たちは、1967年、「CO特別立法」を求めて座り込みを行う。それは成立するも、不十分な内容であったという。わたしも、中国でいまだ頻発する炭坑爆発のことを仕事で書くことがあったが、日本とは別の話との思いだった。そうではない。現在でも問題は終わっていない。

このすぐれたドキュメンタリー映画を観て痛感するのは、沖縄でも、三里塚でも、水俣でも、またおそらくは他のさまざまな場所で行われてきた国家の棄民政策の実態である。有識者の介入が解決につながりにくいことも、共通している。

●参照
上野英信『追われゆく坑夫たち』
山本作兵衛の映像 工藤敏樹『ある人生/ぼた山よ・・・』、『新日曜美術館/よみがえる地底の記憶』
勅使河原宏『おとし穴』(九州の炭鉱)
本多猪四郎『空の大怪獣ラドン』(九州の炭鉱)
『科学』の有明海特集
下村兼史『或日の干潟』(有明海や三番瀬の映像)
『有明海の干潟漁』(有明海の驚異的な漁法)
石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』
『花を奉る 石牟礼道子の世界』
石牟礼道子+伊藤比呂美『死を想う』
島尾ミホ・石牟礼道子『ヤポネシアの海辺から』
島尾敏雄対談集『ヤポネシア考』 憧憬と妄想(石牟礼道子との対談)


勅使河原宏『おとし穴』

2012-05-05 09:17:54 | 九州

勅使河原宏『おとし穴』(1962年)を観る。久しぶりの再見。

北九州の炭鉱。坑夫(井川比佐志)は、息子を連れ、炭鉱を夜逃げ(ケツを割る)しては転々と流れる男で、「結局、行きつく先は炭鉱なんだろうな」との諦念を抱きつつも、「生まれ変わったら組合のあるところで働きたい」との夢をも語っている。彼は突然罠にはまり、廃鉱跡で白い男(田中邦衛)に不条理に殺されてしまう。白い男は、目撃していた駄菓子屋の女を脅し、偽証させる。実は坑夫はある炭鉱の第2組合長そっくりで、殺したのは対立する第1組合長だ、とするのだった。疑心に駆られた第2組合長は、偽証した女から話を聞きだそうと第1組合長を呼び出すが、既に、女は白い男に殺されていた。そしてふたりの組合長は殺し合いをはじめる。すべてを視ていた坑夫の息子は、泣きながら、誰もいない廃鉱の町を走り続ける。

ちょうど三井三池争議(1959-60年)が起きたばかりの時代であり、戦前から続く過酷な労働、炭鉱の衰退、先鋭化する組合運動といった側面がフィルムにも取り込まれている。

リアルであると同時に不条理劇でもあり(結局、白い男は資本側が組合を突き崩すために雇った存在なのかどうかさえ判らない)、幽霊を登場させるなど安部公房好みの寓話にも仕上がっている。何度観てもすぐれた映画である。

どうやら、もとは1960年に九州朝日放送で放送された安部公房のテレビドラマ『煉獄』であったらしい(観たい)。その安部公房は、この映画では脚本をつとめており、次のように勅使河原宏を評している。彼には造形と反造形の感覚がある。『砂の女』『他人の顔』となると造形的な側面が出てくるが、『おとし穴』は反造形の側面がきわだって出ている、と。(『勅使河原宏カタログ』、草月出版)。

四方田犬彦と勅使河原宏との対談(『前衛調書』、學藝書林)では、四方田犬彦が、ラストに登場する野犬のシーンを挙げ、実は警官(犬)を含め、フィルムに犬の主題が見え隠れしている、などと指摘しているが、正直言ってムリがある。(なお、この対談集は参考になるものの、非常に粗雑な仕事であり、安部公房『他人の顔』をろくに読まずに質問しているような有様である。)


『アートシアター ATG映画の全貌』(夏書館、1986年)より

●参照
勅使河原宏『十二人の写真家』(1955年)
上野英信『追われゆく坑夫たち』
山本作兵衛の映像 工藤敏樹『ある人生/ぼた山よ・・・』、『新日曜美術館/よみがえる地底の記憶』

●参照(ATG)
淺井愼平『キッドナップ・ブルース』
大島渚『夏の妹』
大島渚『少年』
大森一樹『風の歌を聴け』
唐十郎『任侠外伝・玄界灘』
黒木和雄『原子力戦争』
黒木和雄『日本の悪霊』
実相寺昭雄『無常』
新藤兼人『心』
羽仁進『初恋・地獄篇』
森崎東『生きてるうちが花なのよ 死んだらそれまでよ党宣言』
若松孝二『天使の恍惚』
アラン・レネ『去年マリエンバートで』
グラウベル・ローシャ『アントニオ・ダス・モルテス』


本多猪四郎『空の大怪獣ラドン』

2012-05-01 00:14:57 | 九州

連休も仕事、こんな日は怪獣映画で癒されるに限る。そんなわけで、本多猪四郎『空の大怪獣ラドン』(1956年)を観る。

幼少期、テレビでは頻繁にゴジラ映画を放送していたが(勿論、1984年に復活した橋本幸治『ゴジラ』以前である)、なぜかこの『ラドン』は記憶になかった。はじめて観たのは、大学1年生のとき、三鷹にあった名画座「三鷹オスカー」においてだった。『ゴジラ』(1954年)、『ラドン』(1956年)、『モスラ』(1961年)の本多猪四郎作品豪華三本立て、一巡し再度、愛する『ゴジラ』を観ておしまいにした記憶がある。(大学に入って何をかなしんで怪獣映画を観ているのか。)

「三鷹オスカー」は小屋そのものの汚い映画館で、トイレに入ると外の騒音が盛大に聞こえた。まさか後年、伝説のように語られるようになろうとは夢にも思わなかった。奥泉光『鳥類学者のファンタジア』というジャズ小説でも、この映画館を懐かしそうに振り返っていて笑ってしまったことがある。

『ラドン』は、本多猪四郎(監督)、円谷英二(特撮)、伊福部昭(音楽)、さらに学者役の平田昭彦と、『ゴジラ』に重なるキャストとスタッフである。映画としての出来でみれば、迫力、時代的必然性、切実さのどれをとっても『ゴジラ』の水準にはまったく達していないのだが、それでも面白い。ラドンが襲うのは、阿蘇(存在しない炭鉱が設定されている)、佐世保、福岡。北京から20分でマニラを通過し、米軍占領下の沖縄も経由する。福岡の市街は古すぎて、これが遠賀川なんだろうな、といった程度しかわからないが、瓦屋根がラドンの風圧で吹き飛ぶところなど、手作りの特撮が見事。今の目で観ると、本当に新鮮なのだ。


上野英信『追われゆく坑夫たち』

2012-04-20 00:31:07 | 九州

上野英信『追われゆく坑夫たち』(岩波新書、1960年)を読む。

上野英信は山口県生まれ、戦争からの復員後に大学を中退し、九州で炭鉱労働者となり、このルポを書きあげた。

日本の経済成長を支えた「黒いダイヤ」こと石炭は、炭鉱労働者たちの存在なくしては、生産されなかった。引揚者や失業者のプールとして1948年に46万人を数えた炭鉱労働者は、その後、1950年代に炭鉱失業者と化していった。しかし、景気の良い時期であれ悪い時期であれ、炭鉱労働者は、人間としてではなく、次々に使い潰す生産力として扱われる存在だった。本書は、これがまさに棄民政策であり、石炭産業とヤクザと警察がそれを支えていたことを、恐るべき実態によって示している。

いくつもの炭鉱は、それぞれが外部からは見えざる専制的帝国であった。雇われたが最後、借金を背負わされ、賃金は支払われず、「ケツを割る」すなわち辞めようとしようものなら、ヤクザや警察と結託したボスによって、文字通り半死半生の目に遭わされる。落盤や爆発事故は日常茶飯事、場合によっては違法行為を隠すために、潜っている者がいるときにでも爆破して生き埋めにする。地下の労働は酷いものだが、もはや他の仕事にも就けず、ミニ専制君主たちの奴隷として、人間としての機能を失うまで働くこととなる。そして、ある者はアキレス腱を、ある者は腰を、ある者は正気を破壊され、そのままポイと棄てられてしまう。

「およそ「意欲」だとか「欲望」だとかという名をもって呼ばれるものの一切が、それこそ粉微塵に破壊されつくしているのだ。苛烈きわまりない地底の「奴隷労働」は彼らのもてるかぎりの財産と健康と生活を収奪し去ったばかりではなく、彼らの人間としての微かな欲望のすべてを残酷無懃にたたきつぶしてしまったのだ。」

このルポに記録されている実態は凄まじく、驚愕させられる。ようやく、山本作兵衛が炭鉱労働の膨大な体験手記を残すことを妻に止められたことの背景が分かった気がする。「人に迷惑がかかるから」という理由だが、そこには、言葉に絶するほどの過酷な搾取や、殺しても構わぬほどの暴力などのタブーが満載であったに違いないのである。

これは大変な記録である。自分もわかったつもりでいて、まったくわかってはいなかった。是非読んでほしい。

ヤマからヤマへと渡り続ける数十万人の炭鉱労働者の姿は、現在8万人といわれる原発ジプシーの姿に重ね合わさってくる。

●参照
山本作兵衛の映像 工藤敏樹『ある人生/ぼた山よ・・・』、『新日曜美術館/よみがえる地底の記憶』
樋口健二写真展『原発崩壊』
森崎東『生きてるうちが花なのよ 死んだらそれまでよ党宣言』


山本作兵衛の映像 工藤敏樹『ある人生/ぼた山よ・・・』、『新日曜美術館/よみがえる地底の記憶』

2012-04-15 23:22:47 | 九州

工藤敏樹というNHKのドキュメンタリストが制作した、山本作兵衛に関するドキュメンタリー『ぼた山よ・・・』(1967年2月18日放送)を観る。「ある人生」というシリーズの1本であり、2008年に「日本映画専門チャンネル」が放送したものだ。

山本作兵衛、明治25年生まれ。鉄道開通により、福岡・遠賀川の船頭の職を失った父親に連れられ、8歳で筑豊のヤマ(炭鉱)に入る。いくつものヤマを転々とし、昭和30年、働いていたヤマの閉山により失職。次に就いたのは、ヤマ跡から掘り出した資材を見回る夜警だった。60歳を過ぎ、突然、ヤマの記憶を絵に描きはじめる。

粉炭と煤煙にまみれ、ヤマを出ても行くところがない炭鉱労働者は、いわば渡り鳥であった(ふと原発労働者のことを思い出してしまうのだが)。酒、博打、喧嘩、夜逃げ。秩序を乱す者を見せしめのために拷問にかけるのは日常茶飯事で、なくなったのは戦後になってからだという。ツルハシから始まった採炭法はどんどん進歩し、かたや、「黒ダイヤ」として日本産業の発展を支えた筑豊の炭鉱は、戦後しばらくして、終焉を迎える。

わずか30分のドキュながら、ヤマという産業装置が如何なる凄絶な場であったか、そして、パブリックなものに決してならないその記憶に再び命を与える山本作兵衛という素人画家が突出した存在であったかを、生々しい迫力をもって伝える映像である。

20代前半にして、山本は「何の真似だと仲間に嘲られながら」、漢和辞典のすべての漢字をノートに書き写し続ける。そのようなエピソードでもわかるような「失われたものへの異常な記憶力」は、行き場を求め、すり切れた筆を使っての絵に辿りつく。何と、山本の描く人びとの着物の柄はすべて異なるものだった。

ドキュの最後、ヤマの厚生年金と戦死した長男の遺族年金によって暮らす山本作兵衛が、ちょっと甲高い声でワークソングらしきものを唄う場面がある。歌詞はよくわからないが、節を「・・・ごっとん。」と締める様子に、蓄積の重みを感じざるを得ない。

ついでに、NHK「新日曜美術館」において放送された『よみがえる地底の記憶~世界記憶遺産・山本作兵衞の炭坑画~』(2011年9月11日)(>> リンク)を、改めて観る。工藤敏樹のドキュ撮影時74歳であった山本作兵衛は、その後もヤマの絵を描き続け、2000枚もの作品を残し、92歳で亡くなった。

ここでは、昭和53年、山本86歳のときのカラー映像が紹介されている。やはり、同じワークソングを唄っている。炭鉱労働者たちが唄い継いだ「ゴットン節」というのだった。労働者夫婦が、かつての山本自身のような息子を連れ、地下の炭鉱に入っていく絵。そしてその「ゴットン節」は、何とも言えないものだった。

「七つ八つから/カンテラ下げて/坑内下がるも/親の罰/ゴットン」

この番組では、「ゴットン節」だけでなく、工藤敏樹のドキュに入りきらなかったであろう側面を紹介している(勿論、カラー映像もそのひとつだ)。山本が絵を描きはじめる前、実は、その溢れんばかりの記憶を手記として残そうとしていた。しかし、迷惑がかかる人がいるに違いないとの理由で妻に反対され、原稿用紙1400枚を焼いたのだという。すんなりと、退職後の手慰みとしてはじめたものでは、決してなかった。

また、消えゆくものはパブリックな記憶だけでなく、ボタ山もそうだった。昭和40年代後半、ボタ山は建設資材として重宝され、生活と産業の記憶ごと、人びとから無くなろうとしていたのだ。

番組には、上野英信と山本作兵衛との交流を語る、息子の上野朱氏も登場する。上野英信も、ヤマの記録を残し続けた存在だった。

現在、福岡県田川市(当時、田川郡)には、田川市石炭・歴史博物館があり、山本作兵衛の作品を多数収蔵しているという。去年北九州に足を運んだ際、立ち寄れないかなと思いつつ時間がなくて叶わなかったところだ。あらためて機会を見つけて行きたくなってしまった。


石牟礼道子+伊藤比呂美『死を想う』

2012-03-10 01:42:46 | 九州

石牟礼道子伊藤比呂美との対談『死を想う われらも終には仏なり』(平凡社新書、2007年)を読む。

石牟礼道子という、戦争体験、自殺未遂体験、そして水俣病との接触を経て、おそらくは目的でも手段でもなく、ただ書かざるを得なかった作家。その内奥では、死への距離は不思議なくらい近いものだったように感じられる。この対談では、その心持ち、精神が、淡々と披露される。

石牟礼道子の眼にうつる現代日本は「死相を浮かべた国」。その裏返しのあらまほしき世界とは、あらゆる小さい生命が「縁」によって繋ぎあわされ、それら小さき者たちの声が「ミシミシミシミシ遍満している気配」がするようなものか。本人は、宮沢賢治が想像した「宇宙の微塵」ならぬ「浜辺の微塵」を口にする。勿論、浜辺は生死の境でもあり、彼岸への出入り口でもあった、と関係付けても、さほど見当はずれではないはずだ。

対談するふたりが好きだという、『梁塵秘抄』に入っている歌。

「儚き此の世を過すとて、海山稼ぐとせし程に、万の仏に疎まれて、後生我が身を如何にせん」

よろずの仏に疎まれる!何というイメージだろう。

●参照
石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』
『花を奉る 石牟礼道子の世界』
島尾ミホ・石牟礼道子『ヤポネシアの海辺から』
島尾敏雄対談集『ヤポネシア考』 憧憬と妄想(石牟礼道子との対談)


『花を奉る 石牟礼道子の世界』

2012-03-04 10:45:48 | 九州

NHK「ETV特集」で放送された『花を奉る 石牟礼道子の世界』(2012/2/26)(>> リンク)。

わたしが読んだ『苦海浄土』は、講談社文庫版の「第1部」のみである。吐きそうになるほど圧倒され、その後、渡辺京二の解説によって驚いたことは、多くの患者たちの絞りだすようなことばや独白が、聞き書きなどではなく、小説家・石牟礼道子の想像世界から生まれたものだということだった。

一方、このドキュメンタリーで紹介される「第2部」におけるエピソードが強く印象に残る。「嫁入り前」の若い女性。既に水俣病に侵され、桜の花びらが散る季節になると、それを目当てに縁側から地面に降りる。

「花びらば かなわぬ手で 拾いますとでございます
いつまででも座って
指さきで こう 拾いますけれども
ふるえのやまん 曲がった指になっとりますから
地面ににじりつけて
桜の花びらの くちゃくちゃにもみしだかれて
花も あなた かわいそうに」

こう語る女性の母親は、石牟礼さんに対し、「チッソの人に、花びらば1枚だけでよござんます、拾ってやってはくださいませんか」と、文に書いてくれと頼んだのだという。

これに比べれば極めて矮小なものではあるが、わたしが幼少時小児喘息で呼吸自体が困難になり、苦しんでいるさなかに、自分が「舌の先だけで階段の途中に逆立ちをする」幻覚を視ていた記憶が蘇ってきた。自分なりの苦しさの自分への説明だったと思っている。

地べたに「にじりつけられた」桜の花びらの姿と、その娘の姿と、花をも「かわいそう」と想う母親の姿。それが小説家の体内を介して、さらにそれを読み、聴くわたしという個人のなかで、個人史をも巻き込んだ激烈な文学的想像力を喚起する。こうなれば、『苦海浄土』がルポであるか文学であるかということは大した意味をもたなくなる。

石牟礼さんは、「水俣病被害者特別措置法」(2010年閣議決定)において、一時金を一人あたり210万円としたことを批判する。代わりに生活保護が打ち切られ、その金額で生活できますか、と。これは勿論政治的な判断だが、幕引きの意思でもある。かつて、チッソが水俣病患者互助会に「いっさいの追加補償要求はしない」との契約にてオカネを支払った。石牟礼さんは、それに触発され、

「おとなのいのち十万円
こどものいのち三万円
死者のいのちは三十万」

と、「念仏にかえてとなえつづける」のだった(『苦海浄土』)。

東日本大震災(3・11)後、石牟礼さんは人間のありようが「試されている」と感じているという。藤原新也との対談『なみだふるはな』(河出書房)では、そのあたりの幻視も垣間見せてくれるのではないかと、待ちわびている。

●参照
石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』
島尾ミホ・石牟礼道子『ヤポネシアの海辺から』
島尾敏雄対談集『ヤポネシア考』 憧憬と妄想(石牟礼道子との対談)
『差別と環境問題の社会学』 受益者と受苦者とを隔てるもの
土本典昭さんが亡くなった


博多の「濃麻呂」と、「一風堂」のカップ麺

2012-01-30 00:00:36 | 九州

数日前に所用で博多に行ってきた・・・のはいいのだが、夜遅くホテルに着いてとりあえず近場でラーメン、翌朝仕事を済ませてすぐに帰京せねばならず、福岡空港でまたラーメン。他には何もなし、これは悲しい。

濃麻呂」(こくまろと読む)では、葱ラーメンと一口餃子を食べた。旨かったのだが、何だか随分あっさりしていて、麺は東京で食べる博多ラーメンのようにマイルドな硬さ。ちょっと肩透かしをくらったようで、替え玉は硬めにしてもらった。

余談だが、この替え玉というものを高校三年生のときまで知らず、受験勉強の講習のため山口の片田舎から福岡まで一週間出てきたとき、ラーメン屋でこれ何ですかと訊ねた記憶がある。もう二十数年前のこと、その時も餃子は一口サイズで小さいなあと驚いた。親父さんは里見幸太郎似だった。あれはどこの店だったのだろう。

翌昼の福岡空港の店は、どことは言わないが、頼んだら吃驚するくらいすぐに出てきて、しかも美観も何もない。麺は硬いの柔らかいのと論じる水準でもない。やっつけ仕事、ラーメン精神皆無である。やはり街の中がいい。


ラーメン精神皆無

東京にある博多ラーメンの嚆矢は「九州じゃんがららーめん」であったと(勝手に)思っているが、そこも麺はさほど硬くなかった。勤務先の近くにある「一風堂」も柔らかい。せめて博多で食べる麺は軟弱なこちらに喝を入れるような硬さであってほしいものである。もっとも、硬くないと言っても、「濃麻呂」のラーメンは旨かったのではあるが。

そんなわけで、コンビニに「一風堂」のカップ麺があったので、さっき食べてみた。所詮カップ麺ではあっても、いや旨い旨い。少なくともラーメン精神が入っていない空港の店などよりは旨い。

●参照
「屯ちん」のラーメンとカップ麺
なんばの、「千とせ」の、「肉吸」の、カップ