Sightsong

自縄自縛日記

MIYA+田中悠美子@千駄木Bar Isshee

2024-01-07 10:27:39 | アヴァンギャルド・ジャズ

千駄木のBar Isshee(2024/1/6)。

Miya (Modular Flute)
Yumiko Tanaka 田中悠美子 (大正琴、義太夫三味線)

「月刊MIYA」の第1回。

Miyaさんのようにモジュラーとフルートとを組み合わせるコンセプトの人が他にいるのかどうか。フルートの息遣いや速度を体現する音が、リアルタイムで現れ、時間を記憶するかのように追いかけて現れ、また時間の進み方に摩擦をかけるように歪む。オリジンが点でなく線(それも濃淡のある)であることも独創性の源か。

田中さんは前半は大正琴で、Miyaさんと自身のエフェクトの目が眩む流れの中で独特の撥音を放つ。ふたりの持続音と事件として出てくる個々の音とが、櫛の歯どうしのように噛み合っては離れてゆく。後半の三味線は音域がちがうせいか、時間の制御への働きかけもまたちがって聴こえるのがおもしろい。途中で三味線と大正琴との両方を音の場に参加させはじめ、これが愉しさのクライマックス。こちらも愉悦で笑ってしまった。

Fuji X-E2, 7Artisans 12mmF2.8

●Miya
松本泰子+庄﨑隆志+齋藤徹@横濱エアジン(『Sluggish Waltz - スロッギーのワルツ』DVD発売記念ライヴ)(2019年)

●田中悠美子
ブライアン・アレン+田中悠美子+今西紅雪(JazzTokyo)(2023年)
ロジャー・ターナー+田中悠美子@東北沢OTOOTO(2023年)
Encounter To Engage - featuring Tatsu Aoki, from Chicago@渋谷Li-Po(2023年)
内橋和久+田中悠美子@千駄木Bar Isshee(2023年)
ブライアン・アレン+田中悠美子+今西紅雪@東北沢OTOOTO(2023年)
田中悠美子@Ftarri(2022年)
「ジョン・ラッセルを追悼する」@下北沢アレイホール(2022年)
藤山裕子+さがゆき+田中悠美子+山田邦喜@なってるハウス(2020年)
トム・ブランカート+ルイーズ・ジェンセン+今西紅雪+田中悠美子@本八幡cooljojo(JazzTokyo)(2019年)
齊藤僚太+ヨシュア・ヴァイツェル+田中悠美子@Ftarri(2018年)
角銅真実+横手ありさ、田中悠美子+清田裕美子、すずえり+大城真@Ftarri(2018年)


大谷能生『<ツイッター>にとって美とはなにか』

2024-01-06 09:37:25 | 思想・文学

大谷能生『<ツイッター>にとって美とはなにか SNS以後に「書く」ということ』(フィルムアート社、2023年)。出版される前に大谷さんに聞かされて笑い、「すごいですね」を連発してしまった。もちろんそのタイトルが吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』のパロディだからである。

吉本は言語のありようを「自己表出」と「指示表出」の二軸で分析してみせたわけだけれど、それはわかりやすくもないし、おそらくは二軸は必ずしも独立していない。ただ「自己表出」として敢えて生み出された書き言葉が「疎外」の対象となることは確かで(日本語の「疎外感」のような、除け者のニュアンスではない)、だからこそ書き言葉は永遠に奇妙なものであり続ける。

本書がおもしろいのは、「自己表出」と「指示表出」の背後に広く深い共同体の歴史、ロゴスのようなもの、動かないもの、ひょっとしたら退行の対象があることを、さまざまな思想を参照しながら想像していること。途中で小林秀雄や本居宣長を持ち出してきたのはどういう回り道なのかと思っていたけれど、じつはそういう意図があった。

そしてSNSは二軸のどちらに位置付けられることもない。

「この場面で重要視されるのは、互いが「コミュニケーションしている」ことを担保するための「リズム的場面」を成立させることである。つまりもうどちらも「言語による表現」なんてメンドくさいことがはじまる以前の、「誰かと親しくしている」ことだけを確認するためのやりとりへ舵を切りつつあるのだ。」

●大谷能生
大谷能生+高橋保行+阿部真武+林頼我@稲毛Candy(2023年)


ざやえんどう、浦裕幸@水道橋Ftarri

2024-01-03 11:21:59 | アヴァンギャルド・ジャズ

水道橋のFtarri(2024/1/2)。

前座:浦裕幸 (p, electronics)

ざやえんどう:
沼田佳命子 (cl), 間部賢 (sax), 川松桐子 (tb), toumeg (alto horn), 植野隆司 (g), 田中充 (太鼓), 関春彦 (perc)

ざやえんどうの、楽器を鳴らし、音を世の中に出すというところが自然に拡張された快感。

Fuji X-E2, 7Artisans 12mmF2.8

●浦裕幸
People, Places and Things × Ex@小岩BUSHBASH(2022年)
Zhu Wenbo、Zhao Cong、浦裕幸、石原雄治、竹下勇馬、増渕顕史、徳永将豪@Ftarri(2018年)
徳永将豪+中村ゆい+浦裕幸@Ftarri(2017年)


ポール・オースター『Baumgartner』

2024-01-01 15:09:01 | 北米

ポール・オースター『Baumgartner』(2023年)。

オースターの新作を読むのは久しぶりだ。92年の『リヴァイアサン』あたりからは待ちきれず原書で読んでいて、そうすると柴田元幸の名訳で世界を再体験できる愉しみがある。(2017年の『4 3 2 1』はあまりの分厚さに断念した。)

この人はだんだん視線が内面に向かっているようだ(けれども、『インヴィジブル』や『サンセット・パーク』にあった過激な性描写が姿を消してほっとした)。前は奇妙な偶然が現実となってゆく感覚があった。いまは奇妙な心象風景と現実との交差点が物語をひっぱってゆくおもしろさがある。

大学教員のサイ・バウムガートナーは10年前にパートナーのアンナを亡くしてしまい、喪失感とともに生きている。その一方でアンナの遺した詩を出版し、アンナの存在を心の中にとどめている。不思議な感覚だが、サイの世界は縮小するばかりではない。ずいぶん年下の恋人もできた。サイは彼女にアンナを求めることはない。ふたりのキャラはちがう。

とはいえオースターのことだから読み手はどこで突き落とされるかわからない。はらはらして読んでいると偶然と必然が混在した状況の中で希望がみえた(ように思えた)。よかった。 それにしてもときどき出会う、オースターらしい文章。

--- To live is to feel pain, he told himself, and to live in fear of pain is to refuse to live.

●ポール・オースター
ポール・オースター+J・M・クッツェー『ヒア・アンド・ナウ 往復書簡2008-2011』(2013年)
ポール・オースター『冬の日誌』(2012年)
ポール・オースター『Sunset Park』(2010年)
ポール・オースター『インヴィジブル』再読(2009年)
ポール・オースター『Invisible』(2009年)
ポール・オースター『闇の中の男』再読(2008年)
ポール・オースター『闇の中の男』(2008年)
ポール・オースター『写字室の旅』(2007年)
ポール・オースター『ブルックリン・フォリーズ』(2005年)
ポール・オースター『オラクル・ナイト』(2003年)
ポール・オースター『幻影の書』(2002年)
ポール・オースター『トゥルー・ストーリーズ』(1997-2002年)
ポール・オースター『ティンブクトゥ』(1999年)
ポール・オースター『リヴァイアサン』(1992年)
ポール・オースター『最後の物たちの国で』(1987年)
ポール・オースター『ガラスの街』新訳(1985年)
ポール・ベンジャミン『スクイズ・プレー』(1982年)
『増補改訂版・現代作家ガイド ポール・オースター』
ジェフ・ガードナー『the music of chance / Jeff Gardner plays Paul Auster』