この年にしてあの文学座の「女の一生」を初めて見る。杉村春子の名演技で有名な演劇だが、見てみると随分思っていたのとは違う劇であったことに気づく。
というのも、この劇の主人公はモーパッサンの「女の一生」のジャンヌのような苦労する一生涯かなと思ったら、むしろ苦労するのは旦那の方であり、義理の妹たちも、ましてや初恋の男である義弟にさえ密告をしてまで家を守る鉄壁のワンマン女性であった。
結婚するまでのけいとそれ以降のけいとはとにかく別人のように変貌する。実業家として役に立たない人間どもはみんな捨ててゆく。見たところはカネの亡者のようでもあり、人のように見える。
この辺りは、男性から見ると全く魅力のない女性であるが、女性から見ると全然違った見方をされるんだろうなあとは思う。
そのけいにも夫との雪解けの時がやってくる。けれどその時とは夫との死別の時であったのだ、、。
と、ストーリー的には僕は全く噛み合わないものがあったが、劇としてはそれはそれは文学座として百戦錬磨鍛えられている劇であることから、完璧の精度である。
セリフも言い回しはもう演劇の基本であり、劇を目指す人は発声法なんかもかなり勉強になるだろう。大道具の見事さ。幕間をせず1分程度で作り変えてしまう素早さ。演出はもちろん、どこを見ても欠点は全くない。お見事の一言だ。
けれど、ストーリーは僕には向かなかった。こういうのをどう評価すればいいんでしょうなあ。劇90点。ストーリー&感銘度70点。
とはいえ、あの文学座「女の一生」を初めて見たのだ。そして思う。この演劇がどうして延々と今まで演じ続けられて来たのか。けいの一生に女性は自分とつながる何かを見ているはずだ。しかし、僕の見たけいは、「女を捨てた・人間を捨てた・愚かな女の一生」のように思える。
「誰が選んでくれたのでもない、自分で選んで歩き出した道ですもの、間違いと知ったら自分で間違いでないようにしなくちゃ」という名セリフに僕は白ける。「間違いだと知ったら、そこでやめるべきだ」と僕は思うのだ。
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