今週偶然見た映画が3作とも表題通り、親から捨てられた子供たちのを主人公にした作品であった。
「さよなら夏休み」は母親が郷里の祖父に男の子を預ける。そのまま少年時代を過ごすわけだが、自然に恵まれた田舎で充実した少年時代を送り、それが起業するバイタリティーになって行くといった青年の再生の話である。
小学校時代の友人が成人しても心を分かち合えるというのはちょっと信じられないが、この映画では少年の心の寂しさを描いていないので少々深みがないように思えた。
一方、韓国映画の2作。韓国では施設から海外に引き取られることが多いようで、これらの作品以外にも今までこういう設定はよく出現する。キリスト教が強い韓国では日本とはかなり事情が違うのかもしれない。
まず「国家代表!?」。母親を探すために青年がアメリカから渡ってくる。そしてそのためにスキージャンプの選手に登録する。この作品はお手伝いをしている母親は登場するが、育ててくれた親が病気なのに国籍を韓国に戻したり何か違和感のある展開である。スポーツコメディなので荒っぽい筋書きは仕方ないとしても、ちょっと主人公の心情も計り知れないところもある。
次いで「冬の小鳥」。この作品は9歳の少女が急に環境が変わってしまうどよめき、諦め、それでも生きていくといった心情を冬の小鳥に象徴させ秀逸な出来であった。感情的な部分を一切省略しているので観客に涙を誘うといた演出は避けており、映画は少女があっけなくフランスに引き取られるところで終わる。
でもこの作品が一番僕には心に染みた。少女とはいえ、彼女は9歳で人生を知ってしまったのだ。不幸と言えばそうかもしれないが、いつかは人間は人生の真実を知らねばならないのである。そういう監督のメッセージが強烈に映像から伝わってくる秀作であった。
3作とも共通しているのは、親がなぜ子供を捨てるのか明確ではないことだ。「冬の小鳥」では、子供を捨てるきっかけは描写している。恐らく父親は再婚したのだろう、赤ん坊に安全ピンが刺さっていたということで無理やり引き離されるのである。でもそうだとしたら父親の心情が分からない。そんなことで子供を捨てるのだろうか、、。
いずれにせよ、子供を捨てる親、捨てられる子供。捨てられた子供には強烈な空白が一生付きまとうことは言うまでもない。そういう犠牲を強いてまで親は今でも子供を捨てている、、。
「さよなら夏休み」は母親が郷里の祖父に男の子を預ける。そのまま少年時代を過ごすわけだが、自然に恵まれた田舎で充実した少年時代を送り、それが起業するバイタリティーになって行くといった青年の再生の話である。
小学校時代の友人が成人しても心を分かち合えるというのはちょっと信じられないが、この映画では少年の心の寂しさを描いていないので少々深みがないように思えた。
一方、韓国映画の2作。韓国では施設から海外に引き取られることが多いようで、これらの作品以外にも今までこういう設定はよく出現する。キリスト教が強い韓国では日本とはかなり事情が違うのかもしれない。
まず「国家代表!?」。母親を探すために青年がアメリカから渡ってくる。そしてそのためにスキージャンプの選手に登録する。この作品はお手伝いをしている母親は登場するが、育ててくれた親が病気なのに国籍を韓国に戻したり何か違和感のある展開である。スポーツコメディなので荒っぽい筋書きは仕方ないとしても、ちょっと主人公の心情も計り知れないところもある。
次いで「冬の小鳥」。この作品は9歳の少女が急に環境が変わってしまうどよめき、諦め、それでも生きていくといった心情を冬の小鳥に象徴させ秀逸な出来であった。感情的な部分を一切省略しているので観客に涙を誘うといた演出は避けており、映画は少女があっけなくフランスに引き取られるところで終わる。
でもこの作品が一番僕には心に染みた。少女とはいえ、彼女は9歳で人生を知ってしまったのだ。不幸と言えばそうかもしれないが、いつかは人間は人生の真実を知らねばならないのである。そういう監督のメッセージが強烈に映像から伝わってくる秀作であった。
3作とも共通しているのは、親がなぜ子供を捨てるのか明確ではないことだ。「冬の小鳥」では、子供を捨てるきっかけは描写している。恐らく父親は再婚したのだろう、赤ん坊に安全ピンが刺さっていたということで無理やり引き離されるのである。でもそうだとしたら父親の心情が分からない。そんなことで子供を捨てるのだろうか、、。
いずれにせよ、子供を捨てる親、捨てられる子供。捨てられた子供には強烈な空白が一生付きまとうことは言うまでもない。そういう犠牲を強いてまで親は今でも子供を捨てている、、。
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