おお虞美人の話か、これは興味深い。俺はよく「不毛」記事の関連で自分がコントロールできないくらいに猛り狂っていることをしばしば「山を抜き世を蓋うようだ」と表現しているが、この元ネタは高校の漢文の授業で登場した項羽先生の発言から来ており、その意味でも彼の志を受けつぐ我は、虞美人の御心とも相通じるものを持っている、と言っても過言ではないのである(妄言)。終わり。
え?それだったら高校の漢文の授業が役に立ったんだなって??ふぅ、やはりボーイです(いつもの)・・・
ただ単に「抜山蓋世」という言葉をネタとして使っているだけであれば、それを「漢文で学んだ」ことに一体何の意味があるというのか?仮に「抜山蓋世」なる用語を弄ぶ行為をもって「中華文化を理解した」などと言う者がいたら、それは「ハラキリ、フジヤマ、ゲイシャ」という言葉を知っていることを以て日本を理解していると言うがごとき浅はかさであると言えよう(それらはどれだけ贔屓目に見ても、せいぜい「ゼロよりはマシ」程度である)。
それならば、漢文でわざわざ学ぶよりもむしろ、日本語に加工した状態でより多くの周辺情報を知った方がよほど価値があるというもので、例えば動画に登場するような後世の創作とその背景などがそれに当たる(ここに付け加えるなら、漢字文化圏における虞美人、例えば夏目漱石の『虞美人草』とその受容のされ方などに広げることもできるだろう)。これだけ言えば非常に抽象的に聞こえるかもしれないが、三国志演義の創作法、忠臣蔵の勧善懲悪、宮本武蔵とお通のような話に繋がること問題意識であり、非常に一般性があると言えよう。
もっとも、これだけだと娯楽のレベルでとどまるように思われるかもしれないが、織田信長がそうであるように、実際には我々の歴史理解に江戸時代の創作などが大きな影響を及ぼしているし、次回毒書会にて扱うナショナリズムというテーマにおいても、数多くの「創作」がものされていることは良く知られていることである(ただし、前回の記事でも指摘したように、ナショナリズムをそういうただの思考の産物と考えると、完全にその影響力を見誤る点には注意が必要だ。あくまで国民主権や資本主義を伴った「国民国家という名の巨大なシステム」が存在し、その柱の一つとしてナショナリズムという虚実ないまぜになった「神話」が機能しているのである)。
これをより広げれば「幻想の解体:宗教・思想・怪談」の記事となるが、要するに私はただ虚構を虚構だと指摘して満足したいのでもないし、ましてそれをただ揶揄するような真似をしたいのでもない。ナショナリズムとその機能を分析するのと同じで、「人間の想像力のあり方を分析すること」、それこそが私が最も興味を抱いていることの一つなのである・・・
とか言うとハラリの『サピエンス全史』みたいな話になってくるが、まあ人間の妄想力が文明を築いた、というような見解については慎重な態度が必要とはいえ、今日猖獗を極める陰謀論的世界理解などを踏まえても、こういった問題意識はそれらを解毒する上でも必要不可欠なのではないだろうか(これは何度も指摘するように、ナチスドイツなどを「単に悪魔化しない」といった態度にも通じるものである)。
と述べたところで今回は筆をおきたい。
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