「会話をしなければならない」という思い込み

2006-04-22 23:54:15 | 感想など
私は自分でどうでもいいと思っていることをよく話す。それは、間接的に自分が無害な存在であることを主張するためである。

どういうわけだか、無言というものはマイナスのイメージで受け取られることが多い。それは「気まずい空気」といった言葉で表されるが、私が思うに無言という状態・行為は一つの合理性である。というのも、無言であることは話題がないからそうなっているのであり、言い換えれば必然性を持っている。ならばなぜ、わざわざ空虚な会話をして時間を浪費しなければならないのだろうか?そこには「会話がなければいけない」という思い込みが存在しているのではないだろうか。思い込みであるという根拠は、それを前提とするに足る合理性、論理性が存在しないと思うからである。

実際、無駄な会話をしないことで多くのことが可能になる。それは例えば読書、音楽鑑賞(MP3プレイヤーとか)、スケジュールの確認などである。スピード化の時代において、いかに自分の時間を有効に使うかというのは非常に重要な問題であると思う。特に私はやりたいことが山積みなので、空虚な会話をしなければならないのが面倒でしょうがない。だから、仮に同僚と二人になるような状況でも、自分のやりたいことをしたくなるのである。

しかしながら、社会は先ほど述べたような思い込みで動いているようだ。ゆえにこの枠組みから外れると、場合によっては相手に対する拒絶、嫌悪感の信号と受け取られてしまうのだ。これが、自分が無害であると主張して円滑な人間関係を構築するために、空虚でも会話をする必要がある所以である。


無駄無駄無駄。無駄は嫌いなんだ…(By ジョルノジョバーナ)
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ありがた迷惑 | トップ | 「しらんぷり」:みんなの歌... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

感想など」カテゴリの最新記事