思想理解におけるの文脈の重要性

2005-12-09 23:48:18 | 抽象的話題
と書くとものものしい題だが、要するに出てきた結論だけを評価・判断材料にするとえらい間違いを犯しますよってことだ。全く同じコトを言っているのみ関わらずそこへ至る思考過程は全然違う場合が往々にしてあるわけで、結論とはそうした過程の上に浮かぶ氷山の一角に過ぎない。

こんな例を挙げてみよう。「我思う故に我あり」という言葉を聞いたことがある人は少なくないと思うが、この言葉だけでは何を当たり前のこと言ってんだと評価されてしまう場合もあるだろう。しかし、その哲学的文脈には(ベーコンなどで有名な)イギリス経験論の行き詰まりがあった。かいつまんで言えば、判断・認識の基準たる「我」が、そもそもどれだけ確実なものなのか?という考えがヒュームの「懐疑論」において提示され、思想の袋小路に陥っていたのだ。で、その流れに対し(大陸合理論の)デカルトは「我」の存在をしっかりと証明(?)することにより、再び座標軸を構築することに成功した、というわけである。そしてその「我」が後に(カントの)実存とかにも繋がっていくことになるのだ(この辺の理解の仕方はかなり図式的になってる嫌いがあるので、知識のある方に訂正をお願いしたいところではあるが)

少し堅い例だったとは思うが、思想を理解する場合には以上の如く表れた言葉のみならず前提となる(思想的・社会的)背景を念頭に置く必要がある。これは哲学という抽象的な範囲に収まるものではない。そもそも一人一人の発言が、そのように理解されるべきものだと言える。


※要約すると、難しい言い方になるが「脱文脈化されることで思想の言葉尻のみに目が行き、結果そのダイナミズムが見落とされる」ということ。
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