最近やたらと腰が痛いのは、来るタイ侵攻に向けて寝ている間無意識にシャドーセックスをしているからではないかと推測しているムッカーですがあなたどう思いますか?
さて、今回のフラグメントは「キャラ的関係性、ノイズ排除、モナド化」の草稿であるが、元は2013年のものであれから3年以上も経過しているのかとちょっと驚いた。なぜそなのかと考えてみるに、ここで書いた内容が記事内にあるように昔の「沙耶の唄」や「果てしなく青いこの空の下で」の記事と連動しており、また後の「人間、このフォアグラ的なるもの」、「祈りの海」、「ひそみに倣いて」、「とりあえず」(ここで書いたのは言説や人間に対しての構えだが、ゲーデルやハイゼンベルクの不完全定理などを踏まえれば、そも無謬で無矛盾な存在を措定することがもはや不可能なのである)、そして「この世界の片隅に」の記事などへも繋がってくるものであるために、自分の中でずっと問題意識として存在し続けているからだろう。
てなわけで3年前の落書き公開はぁーじまぁーるよぉー(゚∀゚)アヒャ
<カラシニコフ>
何を求める
ハァ?
真の叡智を
おい、勝手に話進めんなって
どこに求める?
これじゃ対話篇の意味がないでしょうが。
心の中に
いい加減にせんと兼定でたたっ斬るよ。
聖おにいさん
日本的。「奇跡」なども日常性・親密性に落とし込む
海外では発表できない。
うーんでも通じる部分はあると思うんだよね。
たとえばアメリカで言葉の規制への批判から政府批判した~。
神はいない。いるとしてもそいつは悪意に満ちているか無能。
今もどんどん子供が死んだりしている。この世界は・・・
俺も~という発想を持っていたんでわかる部分はあるけど、これちょい違うよね。
何が?
だってさ、何でアフリカの子が死んだからって、神が「無能」だとか「悪意がある」ってことになるわけ?
それは人間様が後々で考え出した「ヒューマニズム」だろ?
それが創造主たる神を縛る理由になるのかね?
んなもんテメーらが考え出したローカルルールだろうが!と喝破されて終わり。
「善行」とかしようが死ぬ奴は死ぬし、地獄に落ちる奴は落ちる。
「悪行」をやってるように見えても生きる奴は生きるし、天国に行く奴は行く。
そもそも生きる・生きている=善という考え方自体が近代の産物。
なんか予定説っぽい話やねえ。
「果てしなく青いこの空の下で」という作品に触れて書いたけど、あるいは「オカルトと合理」とかでも言ったけど、
超越的存在が自分たちの論理に叶う行動原理を持っている、という思想には何の根拠もないわけよ。何のね。
こういう物言いなら俺は同意する。つまり、
「そういったものは須らく人間が作り出したものに過ぎず、」
だからそれらについて我らの「論理」を当てはめようとする行為は必ずしも不自然とは言えない、とかね。
罰する神でさえも、それは世界の不条理を説明するためであったり、戒律に従わせるという合目的的な。
俺は知らねーよ。ただ、アフリカの云々が神の「無能」も「悪意」も意味しないわけね。
それは現代人の価値判断なので。いや、一応ちゃんと言っておくと、宗教国家アメリカであの発言するから
・・・はスゲーと思うよ。日本で喋って「暴言」とか「失言」としてざわ・・・ざわ・・・となるのとはワケが違うからな。
宗教的無知は鷹揚さになることもあれば、無神経になることもある。それはコインの裏表。
ルネサンスの代表。ボッカチオのデカメロン。
ああ、あの巨乳の。
そういう「デカ」でもねーし「メロン」でもねーよ!
三つの指輪。サラディン。同じ神から啓示をもらったのにどれが正しいとかいがみ合ってるのはアホだ。
あの当時に書いたのがスゲー。
さあてね、俺は単に知らないから言えてるだけじゃね?という疑いが強いので信用してねーけど。
これが日本人の宗教的・・・を改善するとか全く毛ほども思わないね。
ただ、そういう差異、あまつさえ対立が自明だと思っている人たちにとって相対化というか脱構築の・・・になればね。
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