やっと・・・やっと「ひぐらし業」を見終わったぜ。まあHGW(引きこもりゴールデンウィーク)初日としては、順当な「残務処理」ってやつですかねえ( ̄▽ ̄)
はい、というわけで「ひぐらしのなく頃に 業」の最終話レビューでございます。まあ言うても、7月には「ひぐらしのなく頃に 卒」が放送されることが告知され、この話で何か急展開があるわけではないと始めからわかっていた状態であるため、考察っていうよりはさっきも述べたように「残務処理」的な意味合いは強い。ただそれでも、触れておくべきことはあると思うので、以下に二つだけ取り上げたい。
1.自分の都合でループする・させることの影響と罪
古手梨花は己が生き延びるために100年の時を耐えたが、しかしそこには、「仲間の幸福」という条件が含まれていたことを想起したい(ただし、旧ひぐらしにおいてはそこに命を懸けてまでこだわる理由づけが弱いため、批判されることも少なくなかった、と記憶はしているが)。これに対し、北条沙都子のそれは、オヤシロ様の巫女が雛見沢にいないのは云々などと言いながら、その実は自分が梨花と雛見沢で暮らしたいという(梨花は望んでいないという点で明らかに)己のエゴを満たすため、ループを繰り返すのである。
この状況で沙都子に同情するのは難しいが、現状としては一種のスリラーとして楽しめばよく、テーマとして見るなら、旧ひぐらしでは惨劇を打ち砕く要となった部活メンバーや雛見沢の絆が、「ひぐらし 業」ではむしろ執着や呪縛になってしまっているとみることができよう(この点については、すでに「絆が呪縛へと転じた世界」で考察したので詳しくは繰り返さない)。
なお、今回は北条鉄平に続いて鷹野三四(ここではあえて田無美代子と表現した方がよいのかもしれない)がどう改心したのかが丁寧に描かれており、これは「ひぐらし 卒」の世界で沙都子が梨花を、あるいは周囲の人間が沙都子を赦す伏線として機能すると予測される(「絆と『赦し』」の記事でも述べた通り)。
要するに、「ひぐらし 卒」では梨花が雛見沢を出ることを最終的に沙都子が承認し、沙都子は沙都子で自分の居場所を見つける、という展開に落ち着くものと予測される(正直なところを言えば、従来の目的は「梨花と一緒に楽しく過ごす」はずだから、沙都子のようなループ世界というしちめんどくさいことをしなくても、具体的な解決案は様々あるはずだ。そもそも、聖ルチーア学院を選ぶ必然性は何も描かれてないから、もっと解放的な環境の学校[=要するに沙都子にとって比較的居心地のよい場所]を選ぶように上手くコントロールするとか、いくらでもあるように感じられてしまうのだが←ここが「ひぐらし 業」の評価が多少下がらざるをえない理由でもある。ただ、巨視的にテーマという観点で見れば結局これも沙都子のエゴであり、梨花のことを考えた利他的行為とは言い難い)。
このように書くと実に凡庸な話に聞こえるかもしれないが、例えば『鬼滅の刃』では、自己愛と執着に取り憑かれた鬼と利他の精神で生きる鬼滅隊が描かれており、前者は現代社会の人間が置かれた状況を象徴しているとともに、絆の重要性が強調されている、というのは繰り返し述べたとおりだ。また、私は未見なのであくまで伝聞からの推測だが、「シン・エヴァ」とその終わり方もこういうテーマがかなり深く関わっているようであり、だとすれば昨今話題になっている様々な作品が、利己・利他・絆といった題材を同時期に取り上げているのは、シンクロニシティというか、時代を象徴する現象として興味深いと思うのは私だけではないだろう。
このシンクロニシティについてはいずれしっかりと書く機会を設けたいと思うが、コロナ禍もあって社会の底が抜けていることがひしひしと実感されるにもかかわらず、短絡的な自己責任論が繰り返される状況に対し、限界を感じている人は少なくないのではないだろうか。だからと言っていきなり伝統的共同体に回帰するのではなく(それは沙都子が「ひぐらし 業」でやっている事のグロテスクなリフレーンだ)、相互扶助を意識すること、そして当たり前のことだが、社会は繋がっている以上自分からは「ドロップアウト」した人々に見えても自分と陸続きでありうることを元に制度設計を考えることetc...などの必要性が改めて痛感されているわけであり、それを一言で言えば「絆」に集約されるのではないかと思うのである(まあここには、日本の学校ではあまりに税制度や社会福祉など、現実社会のことを教わらなさすぎる、といった点にも大きな問題があるだろう。そして日本では言語や習慣などが比較的近いため、実は深刻な分断があっても気づきにくいし、そもそも努力して知ろうとも思わない、という事情もあるだろう→「それを『常識』とする根拠は、もはやどこにもない」)。
ということで、ひぐらし業が提示するテーマと今日的意味、そして「ひぐらし 卒」の展開予測は以上。
2.自然科学を政治に利用??という疑問に対して
鷹野と沙都子の描写が重ね合わされるのがともに「神」的存在(鷹野はラムダデルタ)であるというアナロジーからなのは予測通りだし、本編でも明言されているので特に疑問は湧かないと思われるが、一方で高野一二三の論文が否定される場面と、田無美代子が同様に論文の内容を小此木に否定される場面は、アナロジーとしてわかりやすいけれども、政治と自然科学、あるいは政治に利用される自然科学という話はいささか飲み込みにくかった視聴者もいるかもしれない(人文科学なら、歴史の話が典型だがいくらでも政治に影響を受けていることを想定しやすいだろうが)。
今日だと遺伝と差別の問題や疑似科学などがわかりやすいのかもしれないが、もっとドラスティックな事例としては以下の『農業生物学』・『天体の回転について』に関する動画が大変参考になると思うので、ぜひ視聴をお勧めしたい。
この事例はイデオロギーが実験結果を捻じ曲げうること、あるいは即効性重視の発想がいかに自然科学の発達の歴史と現実的にそぐわないか(これがわかっていないと基礎研究に資金を投じなくなり、長い目で見た時に科学の発達が疎外される)、など様々示唆に富んだ内容になっているが、こういった歴史的事例を知れば、ここで描写されている出来事は、(あくまで創作物の雛見沢症候群自体はともかくとして)荒唐無稽どころか現実にありふれたものだとわかるだろう。
今回はこの辺で。それではまた「ひぐらし 卒」の記事でお会いしましょう。さよなら、さよなら、さよなら・・・
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